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文明の黙示録(9)

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                   第一章 帝国の興亡 (5)

                   【 1933年 ベルリン 】

Hitler01 1929年10月、ニューヨーク、ウォール街の株価大暴落から始まった大恐慌は、瞬く間に世界に広がり、空前の規模の大不況が世界を覆った。ドイツ国内では失業者の数は700万人を超え、自殺する人があふれ、風俗は乱れ、絶望の中で国民は強力なリーダーを求めた。そのような情勢の中で登場したナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)のアドルフ・ヒトラーは、ベルサイユ条約を批判し、そのために引き起こされたドイツ社会の混乱、経済の崩壊、国家財政破綻を戦勝国側の責任とし、一方でドイツ国民には民族の誇りを呼びかけ、ナショナリズムを刺激して、民族の復興というスローガンで人々の熱狂的支持を得た。ドイツ国民はヒトラーに未来を託した。

1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限の撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1932年から行われていたジュネーブ軍縮会議と国際連盟からの脱退を宣言した。1935年には、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活し、軍隊を50万人に増強するという再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパ中の国々を驚かせた。再軍備宣言では空軍の設立も宣言された。

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ヒトラーは、二つの重要な課題に取り組まなければならなかった。第一の課題である失業問題には、大規模な再軍備政策は効果があった。ドイツのGNPは1935年には大恐慌の影響を受ける前の1928年を上回るまでになり、失業率は大幅に低下した。米国のGNPは、ようやく1937年になって1928年の水準に戻ったが、翌38年には再び大恐慌前の水準を下回ってしまったことと比べると、極めて順調なドイツの経済復興の様子がわかる。
ドイツのGNPは急ピッチで上昇を続け、1928年から38年までの10年間に約40%増加している。ドイツの急速な経済拡大を支えた軍事費増強について、推計では1932年から38年までの6年間で、軍事費は27倍に急増、それに伴って全体の財政支出は4.3倍に拡大したという。

第二の課題は、国家の威信を高め国民に自信を回復させ、夢と希望を与えることだった。このために、ヒトラーはゲルマン民族優生思想を広げていく。すべての文明はアーリア人種から発しており、純粋なアーリア系であるゲルマン民族の卓越した精神力をもって世界の統治が為されるべきだ、というのだ。
お茶の水女子大学の山本秀行教授は、著書『ナチズムの時代』(山川出版社)の中で、「アーリア人の優秀さなどを主張する人種主義は、今では非科学的にみえる。しかし、当時、人種と遺伝学、医学との結びつきは新鮮なものであった。」と述べている。ドイツ優生学である『民族衛生学』は、1923年にミュンヘン大学で開設されたばかりの、最先端の科学で、生殖や生命を社会的にコントロールしようとする考え方は、多くの知識人や若い学生たちを引き付けた。
一方でこの影響は、ユダヤ人に対する伝統的な偏見に火をつけ、やがてホロコーストへと続く歴史的なユダヤ人迫害行為を引き起こす。

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Holocaust01ところで、この民族優生の思想はドイツだけのものではなかった
1910年代、アメリカのロングアイランドにハリマン優生学研究所が作られる。ハリマン優生学研究所はドイツのカイザー・ウィルヘルム優生学研究所と提携関係にあった。ハリマン研究所では、「ポーランド等には人種的に劣ったユダヤ人が大量に住んでおり、その貧困から彼等はアメリカへ流入して来ようとしている。アメリカをこうした病原菌の感染から守らなくてはならない。」(1915年9月4日付ニューヨーク・ワールド紙)という方針があった。1932年に開かれた第3回国際優生学学会で、ハリマン研究所のクラレンス・キャンベル博士は「ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは当学会の指導により 人種と人口に関する包括的な政策を実行しており、賞賛すべき成果を当学会はあげている」と発言し、ヒトラーのユダヤ人虐殺は、ハリマン優生学研究所の「指導」で行っていると賞賛している。

この生物兵器の開発と遺伝子工学の研究のために創られたハリマン優生学研究所には、現ブッシュ大統領の祖父ジョージ・ハーバート・ウォーカーが頭取を務めるハリマン銀行から資金が提供された。そのハリマン銀行に資金提供していたのがクーンローブ商会で、ブッシュ家は、ヒトラーにも個人的に多額の資金を貸し付けていた(ヒトラーのハリマン資金問題と言われる)。

化学技術の分野でも、ドイツとアメリカの関係は密接だった。
I・G・ファルベン社はBASF、ヘキスト、バイエルンという3つの化学企業が合同した世界最大の化学会社だが、その創立資金は、アメリカのシティバンクから多額の出資があった。そのI・G・ファルベンに、チクロンBガスというアウシュヴィッツで使用された毒ガスの製造特許を供与したのがアメリカのデュポン社であり、デュポンの最大株主がクーンローブ商会であった。
また、ロックフェラー財閥のエクソンは、ドイツに航空燃料や艦船燃料の製造技術を供与し、ロイヤルダッチシェルは、第二次世界大戦が始まってからもドイツに石油を売り続けていた疑惑がある。

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国際金融資本は、ヒトラーとナチスがドイツ復興のリーダーとなると見るや彼らを援助し、ドイツ復興の中で大きな利益を上げるとともに、東西対立ショーを演出して危機感を煽り、英米両国内での軍備増強の流れを作って、そこでも大きな利益を上げた。そして、最後にヒトラーが戦争に踏み切った途端、皆でヒトラーを包囲してこれをたたき潰した。
ともすると我々は国際金融資本を、一致団結した一つの集団として認識しがちだが、彼らは常に「誰に投資すれば一番儲かるのか?」、という資金投資の効率を基準にして動いている個別の主体の総称に過ぎない。早い話、儲けのためなら敵にだって投資するものだっている。
相争う二つの陣営があって、双方が緊張を高めながら軍備を増強している間が、国際金融資本にとっては最も旨味のある時期だということは、第二次世界大戦の前にすでに実証されており、戦後すぐに東西冷戦構造が出来上がったことも、誰の利益のためかがうかがい知ることができる。

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Kinoko02 人種の優劣差別の思想では、日本人を含むアジア人(黄色人種)もその対象であった。
日露戦争での日本の勝利は、欧米人の間では、驚きとともに日本人に対する警戒心を呼び起こし、「黄禍論」がヨーロッパ諸国に広がった。ドイツのヴィルヘルム2世は、「黄禍論」を下地に、「白人優位の世界秩序構築」と、日本をはじめとする「黄色人種国家の打倒」を訴えた。
アメリカでも、第二次世界大戦前には「黄禍論」が広がり、日本人労働者の就職妨害や排斥、学童の隔離教育、日本人および日系人の移民禁止など、排日気運は激化していった。第二次世界大戦が始まると、フランクリン・ルーズベルト大統領は日系人排斥運動に同調し、大統領命令によって米国内に在住の日系人11万人を強制収容・隔離する政策をとっている。
終戦を目前にトルーマン大統領によって日本への原子爆弾投下が決行された背景にも、日本人という人種を地上から殲滅しても構わない、という過激な黄禍論の影響もあったのであろう。

第一章(6) 【1941年 ホノルル】 につづく。

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文明の黙示録(8)

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                   第一章 帝国の興亡 (4)

                   【 1929年 ニューヨーク 】

01 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは戦争特需によって発展した重工業へのさらなる投資、帰還兵による消費の拡張、ベルトコンベア方式でマスプロダクションが可能になったフォード車によるモータリゼーションのスタート、家電電化製品の開発、流通革命などで、空前の好景気となった。一方のヨーロッパ諸国が戦争で疲弊し、対外競争力を失っていたこともあり、貿易輸出も急拡大し、「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的栄光を手に入れた。

この時期に、金融家は興隆するアメリカへのシフトを開始する。ドイツは巨額な戦争賠償金の負担にあえぎ、賠償金を得られないフランスも低迷していた。革命後のソ連は世界市場から離脱しており、オーストリアは旧領域から多くの独立国が生まれ、小国に転落していた。
英国は戦争を通じてアメリカの債務国となり、戦前の経済的地位を失った。1926年、第2次ボールドウィン保守党内閣は「英国と自治領は、相互に平等であり、内治外交いずれの面でも互いに従属することなく、王に対する共通の忠誠によって結ばれ、イギリス連邦の一員として自由に連合している。」という宣言を行なった。こうして世界を覇した大英帝国は姿を消し、英国連邦が事実上成立した。
もはや投資家にとってヨーロッパは魅力を失っており、アメリカという新しい市場に大きな期待が集まった。

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ロスチャイルド家に代表される金融家がその基盤を英国からアメリカに移転する中で、世界の利権の支配者は、「ロスチャイルド家」というような一族および閨閥から、資本の論理で儲ける人々のネットワーク(「国際金融資本」)へと進化していく。今まで政治家の後ろに見え隠れしていた金融家の陰は見えにくくなり、利益のみを求める資本の野望は、平常の政治活動や経済活動の中に紛れ込んでいった。しかし、経済の発展とともにその野望は確実に大きくなっていた。
その代表例がFRB(連邦準備制度)である。金融と経済の安定のために設立されたFRBは、ドルを発行し、加盟銀行に通貨を供給し、小切手を決済し、政府の財務機関の役目を果たすことを目的にしている。しかし、その連邦準備法は、1913年、ウッドロー・ウィルソン大統領によって多くの上院議員がクリスマス休暇で不在だった12月23日に抜き打ちで可決させられ成立した。主導したのはジョン・D・ロックフェラー、J・Pモルガン、ポール・ウォーバーグ、エドワード・ヘンリー・ハリマン、ロスチャイルド家の代理人であったジェイコブ・シフといった財界トップたちで、こうして彼ら「国際金融資本」は、自分達で経営できる中央銀行を作ってしまった。

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1920年代後半に入ると、膨張したアメリカの生産力に市場の需要が追いつかず、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていた。しかし、史上空前の経済発展にあおられた投機熱は冷めることなく、株式市場の長期上昇トレンドは衰えなかった。
この間、FRBは通貨の供給を増やし続け、だぶついた資金が株式市場に流入、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰、1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。
このように実体経済と株式市場の乖離が大きくなったとき(バブル経済)が、金融資本家にとっての最大のチャンスであることは、すでにナポレオン戦争時以来のヨーロッパで幾度も実証されてきたことだった。

01_2 1929年8月、連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。今度は外国資金が証券投資と高い利子率を目的にアメリカに流入しはじめ、株式ブームに拍車をかけることになった。バブル経済がはじける日が近づいた。
J・P・モルガンとクーンローブ商会は、「選別リスト」に載った選ばれた顧客(銀行家仲間、大手事業家、有力政治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たち)に「通知」を出した。これが来るべき暴落の通知だと理解していた彼らは、一流銘柄株を除いた他の株を全て売却した。
そして、ついに1929年10月24日、ゼネラルモーターズの株価下落を発端に、株式市場は売り一色となり株価は大暴落した。「暗黒の木曜日」である。一旦平静に戻った株式市場だったが、10月29日、さらなる大暴落が発生した。この日一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。この日は、歴史に残る「暗黒の火曜日」と呼ばれるようになった。
一方で歴史は繰り返し、ウォール街と外国の相場師たちは、確実優良な一流証券を格安の価格で手に入れた。
マリーン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション及びエクイティ・コーポレーションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成も見られた。J・P・モルガン商会は、スタンダード・ブランズという巨大食品トラストを組織した。トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増やす又とない機会であった。

1929年の大恐慌は、アメリカの全ての権力を少数の巨大なトラストが手に入れるために引き起こされた、という陰謀論も生まれたが、真実は闇の中である。ひとつだけ言えるとすれば、バブルが膨張し大恐慌に突入する過程で、FRBは適切な金融政策をとらなかった。大恐慌の結果、ほとんどの一般国民の生活は苦難の淵に突き落とされたが、大手企業や投資家の中には大きな利益を得たものが存在した。

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大恐慌によってアメリカはヨーロッパから資本を引き上げたので、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受けた。特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなった英国、フランスなども恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌となった。
Hoover01_2  アメリカのフーバー大統領は、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するというフーバー・モラトリアムを提唱した。ドイツの戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得る機会を与え、第二次世界大戦への伏線になった。
大恐慌が起こってからも均衡予算を堅持し、景気対策のための財政出動を拒んできたフーバー大統領だったが、1931年12月、起死回生の法案として復興金融公社法案を議会に提出した。この法案は、政府が5億ドルの資本を投下して復興金融公社を設立し、銀行、保険会社、鉄道、農業不動産会社などに救済貸付をおこなうことを目的としていた。
しかし、結局は、大銀行や大企業を救済するのに役立っただけで終わった。翌年7月、復興金融公社の貸出状況を議会に報告する義務を負わせる法律が出来て、それにもとづいて調査したところ、総額1億2600万ドルの貸出のうち半分以上が三大銀行への貸出しであることが判明した。
経済繁栄の継続を約束して、歓喜の祝福の中で大統領に就任したハーバード・フーバーだったが、いまや大統領フーバーは、貧困の象徴へと転落した。結局フーバーは、世界恐慌に対して有効な政策が取れないまま、1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。

第一章(5) 【1933年 ベルリン】 につづく。

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文明の黙示録(7)

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                   第一章 帝国の興亡 (3)

                   【 1919年 ベルサイユ 】

Versille01 これまでの戦争は、限られた範囲での戦闘で決着し、勝者は賠償金によって損失を取り戻すことが出来た。戦争で多くの物資を消耗するため、戦後には戦争特需が起こり、その好景気によって敗者もやがて損失を取り戻すことが出来た。金融家はリスクヘッジのために、相争う両方の陣営に資金を用立てしたが、長い目で見ればそれらは回収され、利益をもたらした。
しかし、第一次世界大戦でヨーロッパが被った被害は甚大で、また膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国土の多くが荒廃し、その損害補償はもはや敗戦国に負わせられるようなものではなかった。戦争特需は、戦争に直接関わらないアメリカや日本を潤すだけで、ヨーロッパ経済は大きく落ち込んだ。
莫大な資源と国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争は人々に強い憎悪を残し、敗戦国に過酷な条件を突きつけることとなった。

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1919年1月18日、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が32カ国の参加のもとに開かれた。
6月28日、パリ郊外のベルサイユ宮殿で連合国とドイツとの間にベルサイユ条約が調印されたため、新しい国際秩序はベルサイユ体制と呼ばれている。ヨーロッパでは、講和会議で合意された民族自決の原則に従って、旧オーストリア=ハンガリー帝国とロシア帝国の領内からフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、セルビア=クロアチア=スロヴェニア王国(1929年にユーゴスラビアと改称)が独立した。しかし、民族自決の原則はヨーロッパ以外には適用されず、アジア・アフリカでは植民地支配が続いた。
ドイツには、総額が1320億金マルクという天文学的ともいえる巨額の賠償金が課せられた。
トルコに属していた中東地域の戦後処理では、大戦中にアラブ人に独立を約束したフセイン・マクマホン協定と、ユダヤ人国家の創設を約束したバルフォア宣言はともに無視され、イラク、ヨルダン、パレスチナは英国の、シリア、レバノンはフランスの委任統治領とされた。

アメリカのウィルソン大統領の提唱した14カ条に基づいて、世界史上最初の本格的な国際平和機構である国際連盟が創設された。設立時に42カ国の加盟国せスタートした国際連盟には、1934年には最多の58カ国が加盟したが、提唱国のアメリカは上院でベルサイユ条約批准が否決されたために参加せず、敗戦国のドイツと社会主義体制になったソ連は排除された。

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ドイツに多額の貸付けを行っていたパリ・ロスチャイルド家は、ドイツが所有していたトルコ-シリア間のバグダッド鉄道の営業権を獲得した。ロンドン・ロスチャイルド家は、トルコに対して1億ポンドに近い貸付けを行っていたが、トルコ政府が崩壊するとパレスチナに対する権利を要求した。ロスチャイルド家は、後のイスラエル国家建国のための足場を獲得した。

Romanov01 ロスチャイルド家は、ロシアのロマノフ家にも多額の貸付けがあったが、これは金塊や財宝で取り戻した。その中で、帝政ロシア中央銀行本店(サンクトペテルスブルグ)には、外貨準備のためロマノフ金貨およそ1000トン(現在価値1兆2千億円相当)が保管されていたが、これらは10月革命時にボルシェビキの手に移り、その後、ソ連中央銀行カザン支店に移された。この時点で金の量は約500トンに減少していたが、1918年8月5日、チェコ軍がカザン市を占領した際にこの金塊全部を奪った。
その後の金塊の行方について、1920年5月4日のペトロパウロフスクの労民会報は、英米日仏などへの支払いに102トン、チェコ軍に移管されたもの317トン、亡命したセミョーノフ軍に奪われたもの33トン、ウラジオストックに送ったもの15トンと報道した。(合計すると30トン程度行方不明である。)
チェコ軍に渡った317トンはその後ウラジオストックに運ばれ、日本海軍の護衛のもとバンクーバーでカナダ政府に手交され、英仏の借款返済のために使われた。こうして、ロマノフ王家が保有していた莫大な金塊と財宝は、かなりの部分がロスチャイルド家に流れた。

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帝政が倒れて共和国となったドイツでは社会民主党を中心とするワイマール国民議会はベルサイユ条約を承認したが、その賠償金の支払い額はドイツの経済力をはるかに超えていたため、国民生活を極度に圧迫した。そのためドイツは連合国に賠償金支払いの猶予を要請したが、フランスは強硬に反対した。
1914年7月には1ドル=4.2マルクであったが、1923年11月には1ドル=4,200,000,000,000マルクとなった。この破局的なインフレによってマルクは紙くず同然となり、給料生活者の生活は破滅状態となったため、大量の失業者で街は溢れかえった。

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Tank01 第一次世界大戦中、日本では、軍需品の輸出が急増した。アジア地域への輸出も大きな伸びをみせ、重工業も急速に発展して、日本は大戦景気とよばれる空前の好景気をむかえた。三井、三菱、住友などの財閥は、金融や貿易、造船といった多角経営で急速に力をのばし、国力は大幅に底上げされた。
そこに、アジアでは戦争で疲弊した英国とフランス、敗戦したドイツ、革命で体制が転覆したロシアの勢力が著しく後退し、アメリカも国内世論が以前の孤立主義に回帰したために、ぽっかりと勢力の真空状態が生まれた。その隙を突いて日本があっという間にアジア大陸深くまで進出し、アジアの大国への野心をあらわにした。
しかし、一方で日本は大きな犠牲を払わずに大戦を終えたために、これからの近代戦争が物資、エネルギー、資金のすべてを投入する総力戦になる、という戦争の質の転換に十分な認識を持たなかった。

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ハイパーインフレで苦しむドイツでは、1923年11月、銀行家シャハトの協力によるレンテンマルク紙幣(1レンテンマルク=4兆2千億旧マルク)の発行により、なんとかインフレを抑えることに成功した。しかし、この頃の社会情勢不安の中で、ベルサイユ体制の打破を訴えて現れたアドルフ・ヒトラーがミュンヘンでクーデターを起こした。ヒトラーのこのクーデターは失敗したが、ドイツはこれ以降右傾化を強めていく。
世界に再び暗雲が漂い始めていた。

第一章(4) 【1929年 ニューヨーク】 につづく。

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文明の黙示録(6)

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                   第一章 帝国の興亡 (2)

                   【 1914年 アントワープ 】

0001_2ベルギーの アントワープは、北海につながるスヘルデ川の右岸に位置する世界最大級の港のひとつであり、ヨーロッパではロッテルダムに次ぐ港である。ダイヤモンド産業の中心地として知られ、ダイヤモンド職人が集まり、カットや研磨の高い技術で、世界のダイヤモンドセンターとしてのアントワープの地位は確実なものになっている。

1899年、南アのオランダ系移民の末裔であるボーア人居住地区にダイヤと金が大量に埋蔵されていることが分かると、英国は戦争を仕掛けてその鉱山を獲得、ロスチャイルド財閥の支援を受けたユダヤ人セシル・ローズはデビアス鉱山会社を設立し、南アフリカのダイヤを独占することに成功した。
ダイヤモンドの採掘法はパイプ鉱山法と言って、地面に縦穴を掘り、必要な深さに達したら、そこから横に掘り進める方式だった。キンバリー鉱山のビッグホールと呼ばれる採掘穴は深さ1200メートルに達し、人間が掘ったもっとも深い穴と言われている。熱くじめじめした地中でダイヤ掘りの危険な作業を強いらる黒人たちが反抗しないように、彼らから人間としての誇りを奪い、奴隷的な労働に従うようにするために、南アでは「アパルトヘイト」政策が採用された。

デビアス社は、その政治力と資金力によってダイヤモンドの生産者による連合(DPA=ダイヤモンド生産者組合)を作り、生産量の調整をして価格をコントロールする仕組みを築いた。さらに生産されたダイヤは全てDTC(ダイヤモンド貿易会社)が一括で買い上げ、DTCで買い上げたダイヤはまとめてCSO(中央販売機構)という組織によって販売されるという、強力かつ強大なシステムを作り上げた。こうして、ダイヤモンドの流通はすべてデビアス社を通す仕組みが出来上がった。

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第一次世界大戦のドイツ軍の戦術は、シュリーフェン・プランと言って、戦争勃発後にベルギーを通過してフランス北東部へと侵入し、南方へと方向転換してアルザス・ロレーヌ地方においてフランス軍を包囲する計画だった。
東部国境でロシアと、西部国境でフランスと戦わなければならないドイツ軍は、防備の手薄な中立国ベルギーを通過して、短期でフランス軍を叩き、すぐさま東部戦線に戦力を集中してロシアと対戦する考えであった。この計画に従って、ドイツ軍部隊は1914年8月4日にベルギーに侵攻する。しかし、ロンドンのロスチャイルド家はベルギーに抱えるダイヤモンド・シンジケートを守る必要に迫られていたため、英国はすぐさまドイツに宣戦布告し、ヨーロッパ全土で戦争の火蓋が切られた。
ベルギーの主戦場では複数の要塞が建造されており、予想しなかった抵抗によってドイツ軍の進撃が数日間食い止められた。あらかじめ、英国とロスチャイルド家による準備が整えられていたようだ。短期決戦が不可能となったドイツ軍は、塹壕線を築いて持久戦に耐えるしかなく、その後3年間継続される西部戦線が構築される事になった。しかも、東部戦線のロシア軍はドイツの予想よりもはるかに早く国境を越えてドイツ領に侵入してきた。
シュリーフェン・プランが頓挫したドイツは、同盟国のオーストリア軍にロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた南方の軍隊を北方のロシア軍と対峙させるために再移動させざるを得なくなり、戦線が混乱してセルビア戦での苦戦の原因となった。

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0001 ドイツと同盟を結んでいたオスマントルコは、ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に参戦した。トルコはロシアのカフカス地方でロシア精鋭部隊に正面攻撃を強行して兵力の大半を失ったが、ガリポリ半島では、後にトルコ革命の指導者となるムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍が奮闘し、英国軍を相手に優勢に戦闘を進めていた。
英国は、トルコに対して反乱を起こそうとしていたアラビア遊牧民のベドウィン族を味方にするため、1915年、高等弁務官ヘンリー・マクマホンがメッカの知事フセイン・イヴン・アリに対してアラブ国家の独立を承認し、支援することを約束した(フセイン・アクマホン協定)。
1916年、カイロの英陸軍司令部に勤務していたトマス・E・ロレンスは、フセインの次男ファイサル王子の一族を指導して反乱軍を組織、そして、難攻不落といわれたトルコの要塞アカバを攻略し、1918年10月、英国軍とアラブ軍はダマスカスに入城、トルコの敗戦を決定的にした。
この間英国は同盟国フランスとの協力が不可欠であったため、1916年、先のフセイン・マクマホン協定とは相反したサイクス・ピコ協定を締結し、大戦終了後におけるアラビア半島の利権を英仏で分割する取り決めを約束していた。フランスはシリアとレバノンの支配権を、英国はパレスチナ、ヨルダン、メソポタミアを取得し、地下に眠る巨大な石油資源を取得する手はずになっていた。
アラブ国家の独立を約束した「フセイン・マクマホン協定」と、英仏でのアラブ分割を決めた「サイクス・ピコ協定」、本国ではユダヤ人国家建国を約束した「バルフォア宣言」を出すなど、三つの相反する約束を結んだ英国は、三枚舌外交と言われ、現代のパレスチナ問題のそもそもの原因として批判されている。

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アメリカ合衆国は、モンロー主義に基づきヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取り、戦争特需で好景気を謳歌したが、戦争が膠着してくると1917年の初めにドイツの潜水艦によるアメリカ客船への攻撃を口実にドイツへ宣戦布告して参戦した。
ロシアでは、戦争が長期化するにつれて兵士と民衆の不満が増大し、1917年3月、サンクトペテルブルクで起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言した。ロスチャイルド財閥に支援されたウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼ボリシェヴィキ党は、こうした混乱を、権力を獲得するために戦略的に利用し、10月に臨時政府を打倒した。ロシア帝国は消滅し、戦争からも離脱した。
日本は日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦し、中国のドイツ関連施設を攻撃、1917年にはインド洋と地中海で連合国側商船の護衛と救助活動を行った。これらの功績により、大日本帝国も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、国際連盟の常任理事国となった。

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オスマントルコ帝国の解体によって、念願のアラビアの資源利権を手にした英国だったが、スンニー派の守護者でマホメットの血統をひく王族であるハーシム家と結んだことが裏目と出る。イスラム教全体では、ハーシム家を正統とするスンニー派が圧倒的な勢力を占めていたので、全イスラム教徒を糾合するうえで有利だと判断したのだったが、アラビア半島では、イスラム原理主義思想であるワッハーブ派の教義の団結力の方が優勢だった。
Abudduleazisu0020001_2 1921年に始まったアブドゥル・アジズに率いられたワッハーブ派のサウド家とハーシム家の抗争は、最終的にサウド家が勝利し、1926年、サウド家によるアラビア半島統一が達成された。サウド家の背後では、第一次世界大戦でアラビア半島の利権争いに加われなかったアメリカが動いていた。こうして、中東最大、すなわち世界最大の埋蔵量を誇るサウジアラビアの油田地帯を、ロックフェラー資本が握ることになった。

周到な現地調査の上で、アラブ民族をまとめ上げるためにハーシム家と組むことを進言したロレンス大佐は失意の内に解任され、1935年、英国でオートバイを運転中の事故で死亡した。「アラビアのロレンス」の死については、暗殺説も今なお根強く伝えられている。

第一章(3) 【1919年 ベルサイユ】 につづく。

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文明の黙示録(5)

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                   第一章 帝国の興亡 (1)

                   【 1914年 サラエボ 】

1914_wwi_alliances0001 19世紀後半には、南アフリカでもエジプトでも、トルコやカリブ海でも、英国の勢力は次第に大きくなっていった。ところが遅れて高度な工業化を達成したドイツもまた、鉄血宰相オットー・ビスマルクのアフリカ進出以来、トルコや東ヨーロッパに深くまで利権を拡大しはじめ、20世紀に入ると、両国の関係は、もはや対決が避けられないほど緊迫していた。

後進新興国のドイツでは、ダイムラーとベンツによるガソリン内燃機関の発明や、電信分野で天才ジーメンス兄弟が大西洋横断通信という偉業を成し遂げ、発電機や電気鉄道でも先進技術を開発した。さらににジーメンス商会は、鉄鋼製造のための熔融炉を考案し、現代の物質文明の礎石を築いた。
ドイツの勢いはとどまるところを知らず、1903年には、ドイツ海軍が初めてディーゼルエンジンを装備した潜水艦を進水させて世界を震え上がらせた。1904年にはドイツ銀行がルーマニアの油田に進出し、ドイツ石油を設立した。石油業でも、ロスチャイルド対ロックフェラーの争いにドイツ資本のクルップが参戦し、三つ巴の利権争奪戦に発展していった。

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一般的な理解では、第一次世界大戦は、バルカン半島の複雑な民族問題によるサラエボの事件をきっかけとした、英仏と独の植民地の奪い合いの戦争だったとされる。つまり、英国とフランスが協調して南方植民地政策(南アのケープタウン、エジプトのカイロ、インドのカルカッタを抑える3C政策)を推し進めていたのに対して、ドイツが資源と植民地の再配分、再分割を要求して3B政策(ベルリン、バグダッド、ビザンチウム=コンスタンチノープル)を掲げて衝突した「帝国主義戦争」だ、というわけだ。
彼らが植民地の争奪に熱中したのには理由がある。英国が1892年に海外との一般貿易によって手にした純利益と、植民地における純利益と比較すると、後者の方が3倍も大きかった。それが20世紀に入ると、コツコツと一般貿易に精を出した場合の利益より植民地での利益の方が5倍を超えるようになっていた。この驚異的な数字を生み出したものは、鉱物(特に金とダイヤモンド)と石油資源の利益をだった。

英国の中東への進出を後押ししていたのが、イングランド銀行、ロスチャイルド家、それにべアリング商会だった。19世紀初頭にオスマントルコ帝国領土内のアラビア地域で石油が発見されたことから、彼ら金融資本家にとっても、中東の利権の獲得が重要なものとなっていた。
13世紀末にオスマン1世によって始まったオスマントルコ帝国は、最大版図は東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る巨大帝国であったが、すでに広大な領土を統治する国力はなくなっており、この古い帝国の解体による利権獲得が国際金融資本家たちの狙いであった。その前には、利権がまともにぶつかる新興産業資本を持つドイツが立ちはだかり、どうしても潰さなければならない相手になっていた。

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0001_2 この頃、世界の歴史を変えるもうひとつの大きな動きが始まる。ヨーロッパに興ったシオニズム運動と、ユダヤ人のパレスチナ入植開始である。
19世紀後半、帝政ロシアにおける東欧ユダヤ人の虐殺(ボグロム)に端を発するユダヤ人の大移動に対し、彼らをこの迫害と離散から救うために東欧の社会主義学者達が「ユダヤ人国家を建設する」という「シオニズム」を理論化し、パレスチナ入植促進委員会が設立され最初の入植が行われた。パレスチナに入植したユダヤ人を支援したのは、ユダヤ系財閥のロスチャイルドだった。

パリ・ロスチャイルド家のエドモン・ド・ロスチャイルドは、1882年、最初のリション入植者への援助をはじめた。この地は、現在はイスラエル農業の中心地の一つだが、当時は水不足に悩まされ、農作は至難だった。エドモンは技術者とボーリング機械を現地に送り、総経費2万5千フランの資金を投じて地下水脈を掘り当てた。第一次パレスチナ入植ブームがあったのは1900年前後のことだが、1903年の記録によると、現在のイスラエル海岸部に点々と28の入植地が開かれていた。そのうち19まではロスチャイルドの全面的、あるいは一部支援によるもので、さらに将来のユダヤ人の町の建設のために、パリ・ロスチャイルドの資金により広大な土地が買い入れられた。
オーストリアのユダヤ人作家、テオドール・ヘルツル著の『ユダヤ人国家』が出版されると、シオニズム運動がますます勢いを増し、英国の外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアは、ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に宛てて「パレスチナにユダヤ人国家をつくる案件のための覚書」を送った(1917年)。後に「バルフォア宣言」として、現代のパレスチナ問題の遠因と評される問題の書簡だが、当時英国の政界上層部が、いかにロスチャイルド一族を重視してかが窺われる。

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オスマントルコの勢力がまだ残っていたアラビア地域で、英国は周到な諜報活動を行った。アラブ民族の間に存在するオスマントルコへの反感を利用することにより、英国は反乱分子として英国側の利益に添って動く現地人を見出すと、彼らに積極的に教育を施し、旧体制を倒す正当性を植えつけた。
英国人は人類学者、考古学者等からなるチ-ムをつくり、中東のすみずみまで旅して回った。彼らは、それぞれの地域の実力者、住民の考え方や不満を探り、詳細な記録を集めた。その作業の過程で、優秀とおぼしき若者を集めると、将来のために教育し、中には、オックスフォードゃケンブリッジ大学に送られて学問を修める者も出た。

Te_lawrence0001_2 1913年、約束の地「イスラエル」建国のために荒地と格闘するユダヤ人入植者の姿を見つめる一人の英国人青年の姿がシナイ半島にあった。
25歳のウェールズ生まれのこの青年は、トーマス・エドワード・ロレンスといった。ロレンスは母への手紙で、パレスチナがローマ時代の繁栄を取り戻すには「ユダヤ人が耕作すれば、それも早ければ早いほど万事がうまくいく」と書き送っている。それほど、熱心に働くユダヤ人入植者たちの姿が印象に残ったようだ。
ロレンスは、1907年にオックスフォード大学ジーザス・カレッジへ進学し、オックスフォード在学中から中近東を訪れてレバノンの十字軍遺跡などを調査している。1911年の卒業後も、在学時代の恩師にあたるデービット・ホガース博士とともに大英博物館の調査隊に参加してトルコへ渡っており、若い頃からアラブ人と接触し、アラビア語も習得していた。この時、ホーガス博士は外務省管轄下のアラブ局の局長になっていて、ロレンスも英国特命機関の諜報員として、アラビア半島を周ってオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務に当たっていたと考えられている。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロレンスはカイロの陸軍情報部に転属になり、「アラビアのロレンス」として今日に伝えられる大活躍をする。

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その大戦の口火を切ったのは、サラエボの凶弾だった。1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエボを視察中に、セルビア人の青年ガブリロ・プリンチプによって暗殺された。事件の背後にセルビアの政治勢力があると見るオーストリア・ハンガリー帝国は、セルビアに最後通牒を突きつけた。このころには、英仏露の三国協商と、独墺伊の三国同盟の大きな枠組みに、それぞれ複雑に小さな安全保障条約が絡まっていたため、この事件をきっかけとして連鎖的に各国が戦端を開いて、第一次世界大戦が勃発した。

第一章(2) 【1914年 アントワープ】 につづく。

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文明の黙示録(4)

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                      序章 (4)

                   【 1904年 ロンドン 】

Vickers01 「死の商人」とは売春婦の次に古い職業である、と言われている。弓矢、投石の石器時代から刀剣、鉄器、騎馬隊を経て、中世の火薬と銃の時代にも武器商人はいた。やがて、武器を専門に製造販売する業者が現れ、武器市場、軍需産業が形成されていくようになる。

第一次世界大戦前までは、戦争で使われる火器はライフル銃であり、英国のアームストロング社とフランスのシュネーデル社が競っていた。1867年、アルフレッド・ノーベルによるダイナマイトの発明は、平和利用を願った発明者の意に反して、大量殺人の道具として注目されていた。さらにアメリカ人のハイラム・マキシムは1884年に機関銃を完成、戦争のやり方までも変えてしまうような軍事兵器が次々と改良、開発された。
機関銃の登場によって、それまでの集団歩兵による突撃戦術は使えなくなった。戦争は地面に縦横に穴を掘りそこに兵士が身を潜めて銃を撃ち合う、きわめて長期の総力戦とならざるを得ず、戦争を長く継続するためには本国からの莫大な補給物資が必要となり、膨大な補給物資を生産する工業力が戦争の勝敗を決めることになった。単独で戦うよりも、他国との同盟関係によって物資の生産とその原料、資源を確保することが重要になり、これは戦争が複数の同盟国と敵対国の戦争、つまり世界大戦という形態にならざるを得なくなることを意味した。
戦争は一度起これば世界中を巻き込み、世界中の人間を殺傷し、勝った方も負けた
方も、戦争に参加した国々は徹底的に疲弊することになる。また、戦争にかかる戦費も桁違いに大きくなり、それだけの資金を用意できる巨大財閥が、水面下で大きな役割を担うことになった。

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ロシアでは、ピョートル1世以降、ロマノフ朝の皇帝はロシア正教会を国教として保護する一方、総主教制を廃して皇帝権力のコントロールの下に置いた。こうした事情から、ロシアの国威が高まった19世紀には、ロシア正教とユダヤ教など他の宗教との間に軋轢が拡大し、19世紀末から20世紀初頭にはボグロムと呼ばれるユダヤ人迫害運動が広がった。ユダヤ人に対する暴力、略奪、殺人、婦女暴行に関し、正教会は黙認するどころか、時には攻撃に手を貸すことさえあった。
ユダヤ系のロスチャイルド財閥は、こうしたロシアのユダヤ人迫害に対し、ロマノフ王朝の打倒に動く。ロシア共産革命のリーダーだったウラジミール・イリイッチ・レーニンは1918年から1922年までの4年間に4億5千万ドルをニューヨークのクーンローブ商会に返済している。この返済資金は、レーニンが倒したロマノフ王朝の財貨によって賄われた。クーンローブ商会(現リーマンブラザーズ)はロスチャイルド系財閥であり、このことから、レーニンの革命勢力には、ロスチャイルドの資金援助があったことが分かる。

極東では、急速に工業化を進めた日本が、朝鮮半島で清軍と衝突して日清戦争(1894年)に突入、下関講和条約で遼東半島や台湾を獲得した。当時、大国中国に、小さな島国の日本が勝ったことは、驚きをもって報じられた。ただし、満州への進出を考えていたロシアは日本の遼東半島獲得に対して強く反発し、ドイツ、フランスとともにこれを清に返還させた(三国干渉)。
歴史的に不凍港を求めて南下政策を取るロシアは、1898年には、三国干渉で日本が手放した遼東半島の南端の旅順、大連を租借し、第一太平洋艦隊を配置するなど、満州への進出を押し進めていった。
日清戦争の勝利で意気上がる日本は、反ロシア感情が高まり、ロシアを仮想敵国とした軍備増強を進め、日露関係はにわかに緊張が高まっていった。

英国とドイツは、日本とロシアを戦わせたいという思惑があった。ロシアと国境を接するドイツはロシアの軍事力を極東に向けさせ、強大なロシア陸軍の圧迫をヨーロッパ方面から排除したかったし、どちらが勝とうがロシア軍が弱体化すればそれでドイツにとっては目的が果たせる。英国もロマノフ王朝の打倒と、アジアへのロシアの進出阻止で利害が一致するために、ドイツが仲介する形で1902年1月、日英同盟が結ばれた。

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1904年2月24日、日銀副総裁に就任した高橋是清は、横浜出帆の汽船に乗っていた。是清の目的は、欧米で外債を募集して対ロシア戦争の戦費を調達することであった。2月6日に日本の外務大臣小村寿太郎はロシア公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡し、8日には日本の連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃して、日露戦争が勃発していた。
ロシアとの戦争を遂行するには、1千万ポンドの戦費を何としても外債で調達しなければならない(当時の国家予算が約2.5千万ポンドだったことから、その規模が想像できる)。是清は世界の金融センターになっていたロンドンを目指したが、すでに横浜正金銀行のロンドン支店長の山川勇木からは「英国では日本が負けるとの意見が強く、ロンドンでは外債募集の見込みはない。」との電報を受け取っていた。もし、是清が失敗すれば、日本が欧米金融市場から見放された事を全世界に知らしめてしまう。そうなれば日本軍の軍費はたちまち底をつき、敗戦は火を見るよりも明らかだった。

Jacobschiff0001 ロンドンでの是清の根気強い交渉で、何とか半額の5百万ポンドは集まったが、まだ半分足りない。その時、イギリスの銀行家主催の晩餐会で偶然出会ったのが、ニューヨークのクーンロープ商会代表者のジェイコブ・ヘンリー・シフだった。是清の隣に座ったシフはしきりに日本の経済や生産状況、開戦後の人心動向などについて聞いてくる。是清は一つ一つ丁寧に答えた。
翌日、シフが人を介して、残りの5百万ポンドを自分が引き受けたいと言ってきたのには、是清も驚いた。シフもクーンロープ商会も初めて耳にした名前だったのだ。
偶然出会った初対面の相手に巨額の融資を引き受けるシフの狙いは?しかし、もともと是清とシフがこの晩餐会で出会うことが仕組まれていたとしたら、つじつまが合う。ロスチャイルド財閥は、レーニンの革命勢力への資金提供と同時に、日本にも戦費を提供してロマノフ家を倒そうと考えたのだ。
    
実は、日露戦争の起きる4~5年前から、ロシアの蔵相ウイッテがシフのところにロシアの中期国債の発行を頼みにやってきていた。しかし、ロシアで起きているユダヤ人虐待に何ら手を打たないロシア政府を快く思わないシフは、これを断っている。

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Korekiyo01_2 日露戦争は、日本の陸軍が旅順や奉天で劇的な勝利をおさめ、日本海海戦では日本の連合艦隊が無敵バルチック艦隊に圧勝して日本の勝利で終わった。ロシアは日本海海戦の敗北の後も戦力を集めて総力戦を考えていたが、戦争が長引けば戦力と物資調達力に劣る日本が不利だと分かっていたため、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領が講和の調停に乗り出し、1905年アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスにおいて、小村寿太郎とセルゲイ・ウィッテの間でポーツマス講和条約が調印された。
アメリカの調停は、もともと日本政府が頼んでいたものであったが、クーンローブ財閥などからの要請もあったはずである。巨大な資金力を持つ国際資本家と、近代兵器を製造する軍需産業は、これから20世紀のすべての戦争に関わってくるが、日露戦争は彼らの持つ政治力の強さが証明された一例となった。
ところで、ポーツマス講和条約では、日本のロシアに対する賠償金請求が受け入れられなかったため、日本政府は戦後借入金の利子を支払い続けなければならなかった。「日露戦争の本当の勝者はロスチャイルドである」、と言われるところである。

高橋是清は、1905年に貴族院に勅選されて国政の世界に入ると、大蔵大臣時代にはそのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」と呼ばれて親しまれ、第20代内閣総理大臣も務めた。しかし、1936年の二・二六事件で青年将校たちに暗殺されるという悲運の最期だった。 享年81歳であった。

第一章 帝国の興亡(1) 【1914年 サラエボ】 につづく。

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文明の黙示録(3)

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                      序章 (3)

                   【 1879年 バクー 】

0001 中央アジアのカスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島に位置するバクーは、現在はアゼルバイジャン共和国の首都になっている。
バクーに関する最古の記録は、885年のものであり、その頃にはすでに油田の存在が知られていた。拝火教(ゾロアスター教)の発祥の地で、太古の時代から屋根に突き出た竹筒から燃え上る炎の拝火教の寺院が多くあった。昔から自然に地表に噴出した天然ガスがフレアー(炎)となって燃え続いているのだ。
カスピ海西岸の地は16世紀以来ペルシャの領土であったが、ロシア帝国との戦争の結果、19世紀に入ってロシアの統治下に入った。バクーの油田は小規模鉱区が多く、石油掘削ヤグラが乱立していてカスピ海に原油が流れ込み、悪臭が立ち込めるほど悪環境だったが、ロシアは財政難で開発資金が無かったので、この地の開発を民間資本に許可した。

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Baku0001_21873年、スェーデンの発明家イマヌエル・ノーベルの長男ロバート・ノーベルがバクーを訪れた。
ノーベルと言えば、今日のノーベル賞で知られるノーベル基金を設立した三男のアルフレッドが有名だが、アルフレッドとロバート、次男のルードウィッヒの三兄弟は仲が良く、父の仕事を受け継いでロシアのサンクトペテルスブルグで軍事産業を営んでいた。
ロバートがバクーを訪れたのは、ライフルの銃床となるクルミ材の買い付けのためだったが、そのころ、バクーは既に小規模ながら石油産業で街は栄えていた。彼は、たちまち石油の虜になり、弟から預かった木材買い付け用の資金を使って1875年に小さな製油所の権利を手に入れた。その後、次弟のルードウィッヒもアメリカでの石油産業の急成長を知り、自らも石油産業に乗り出す。
発明家として化学の分野の素養を備えていたルードウィッヒは、連続蒸留装置の技術改良などたちまち製油所を効率的に改造し、掘削業者、輸送業者を傘下に入れ、油井と製油所との間にパイプラインを敷設するなど一大石油産業を確立した。1879年に設立した「ノーベル兄弟石油生産会社」は、すでにダイナマイトの発明(1867年)とその特許の取得(1871年)で大きな富を築いていた末弟のアルフレッドの出資もあって、国際石油会社としての地位を築いていった。

当時の石油の輸送手段は、木製の樽を使用してカスピ海を600マイル北上し、そこから小船に積み替えてボルカ川を遡ってロシア国内に運んでいたが、ルードウィッヒは、船倉に大きなタンクを取り付けた特別タンカー「ゾロスター号」を建造し、1878年にカスピ海に就航さすことに成功した。大型タンカー船隊が航行するようになると、バクーの石油産業は急速に近代化し、中東の油田地帯が発見される20世紀初頭まで世界最大規模となり、世界の石油産出量の半分を占めるほどになった。

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ノーベル兄弟の革新によって、バクーの石油産業はかつてない繁栄を迎えたが、ロシア帝国国内での石油需要はそれほど大きくなかったために、石油業者たちは市場を外国に求めた。カスピ海を北上するノーベルのタンカー・ルート対抗して、ライバルたちは黒海の町までの輸送手段として鉄道建設(バクーからバツーム)を計画した。これに出資したのがパリ・ロスチャイルド家のアルフォンソ・ド・ロスチャイルドだった。ロスチャイルド財閥も、ノーベルの成功に刺激されて1886年に「カスピ海・黒海会社」を設立、バクーの原油を鉄道輸送でヨーロッパ各地に売る事業に乗り出した。
カスピ海から黒海までは約850キロ、黒海の港町バトゥーミに備蓄された石油は、船でオデッサ、イスタンブール、あるいはドナウ河口港へ運び、あとはヨーロッパ大陸をほぼ網羅した鉄道によって各地に運ばれた。

1889年、英国のユダヤ人通信王、ジュリアス・ロイター男爵が、60年間の石油採掘権を獲得し、同時にペルシャ帝国銀行を設立して石油産業が発展する基盤を作った。この銀行、ペルシャの名前がつくが本社はロンドンにあり、後に、イラン帝国銀行、中東英国銀行、HSBC(香港上海銀行)中東銀行と名前を換える。現在、株式時価総額で銀行としてはシティグループに次ぐ世界第二位の、ロスチャイルド財閥のHSBCである。
こうしてロスチャイルド財閥は、またたくまにアゼルバイジャン石油ではノーベル兄弟社につぐ第二の勢力となった。

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目をアメリカ合衆国に向けると、南北戦争後めざましい発展をとげた工業生産高は、1860~90年までの30年間に5倍に達し、1890年頃までには英国を追い抜いて世界一の工業国となっていた。
石油産業では、ジョン・D・ロックフェラーのスタンダードオイル社がアメリカ合衆国内で原油生産から石油精製、小売に至る石油に関する全部門の支配権を獲得していたが、巨大な利益を消費者に還元せず高価格で販売し続けたそのビジネス手法が厳しく批判され始めていた。世論の「反独占」「反トラスト」の声は年々高まり、1890年に反トラスト法が成立すると、スタンダードオイルに対しての批判や訴訟が相次いだ。
すでに国内市場を制し、巨大な組織となっていたスタンダードオイルは、さらに海外での拡大を狙って合理的な会社組織に変身する必要があった。そのために、創立者で初代社長のジョンは、50歳代前半ですでに引退し、二代目社長の座をジョン・アーチボルドに譲り、近代的な企業体になった。注目されるのは、引退後のジョンは、まだ自社株の25%を所有していたが、ジョン・アーチボルドの持ち株比率は0.6%、そして第一次大戦中から第二次大戦直前まで社長を務めた三代目のウオルター・ティーグルの持ち株は0.002%にすぎなかった。つまり、スタンダードオイルでは、所有からの経営の分離が劇的に進行したのだ。また、これによって巨大な株式市場が創出されたことも、その後の経済界に大きな影響を与えた。

Uchicago_2 ところで、ジョンは、1889年の母エリザの死をきっかけに、母、そして本人が信仰したバプティスト派の大学をシカゴに設立(シカゴ大学)するという最初の大型社会貢献事業を行った。これを皮切りに、ロックフェラー財閥系企業の急激な拡大と並行して、ロックフェラー財団による社会貢献事業、社会慈善事業が積極的に行われ、現在のロックフェラー大学の前身である「ロックフェラー医学研究所」の設立、メトロポリタン美術館への美術品の寄贈、近代美術館の創設、国連本部の土地寄贈など、アメリカの発展に重要な役割を果たす公共資産が残された。
ロックフェラーによって作られたシカゴ大学では、やがて、フリードリヒ・ハイエクによって経済理論の見直しが行われると、ミルトン・フリードマンらによって「シカゴ学派」と呼ばれる経済学派が築かれる。シカゴ学派が主張する自由な価格機能、市場機能の絶対視、通貨供給量の重視など市場原理至上主義を中心とする「新自由主義」は、1980年代の規制緩和政策から始まる経済のグローバル化の理論的基盤となって、現代の世界の政治経済に決定的な影響を与えるようになるが、シカゴ学派の誕生は半世紀ほど後のことになる。

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バクーでは、主にロシア国内向けに販路を築いたノーベル兄弟社と、ヨーロッパに向けて販路を拡大しつつあるロスチャイルドの二大石油資本が市場の棲み分けで共存していたが、ヨーロッパ市場ではアメリカ産の石油製品を販売するスタンダードオイルとの激しい競合が始まった。また、ノーベル兄弟社もタンカーを利用した輸送力の優位を利用してヨーロッパ市場へ進出してきたため、ロスチャイルドは新たな販路開拓の必要性に迫られた。そんなロスチャイルドが興味を持ったのは、シェル・トランスポート・アンド・トレーディング社を作ってアジアとの貿易を成功させていたマーカス・サミュエルだった。
シェルは、生産地と販売地を最短距離で結ぶ経路としてスエズ運河を通る航路を新たに開拓し、1892年8月にバクー産の灯油をスエズ運河を通って目的地のバンコクに運ぶことに成功した。ロシア産の石油がアジアに広まると、ここでもアメリカのスタンダードオイルとの衝突が起こった。
やがて、ロスチャイルドはバクーの石油事業をロイヤルダッチ社に売却し、ロイヤルダッチ社の大株主となり、実業ではなく金融資本として裏からビジネスに関与するようになると、そのロスチャイルドの斡旋でロイヤルダッチとシェルは統合され、ロイヤルダッチ・シェルが誕生する。ロスチャイルド財閥のロイヤルダッチ・シェルと、ロックフェラー財閥のスタンダードオイルは、石油をめぐって激しい競争に突入する。
その舞台となる中東では、1908年にペルシャで油田が掘り当てられ、広大な地下資源の存在が知られ始めていた。世界は、工業生産力の拡大によって、市場を求めての帝国主義的拡大が勢いを増し、各地で緊張が高まっていた。

序章(4) 【1904年 ロンドン】 につづく。

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文明の黙示録(2)

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                      序章 (2)

                   【 1876年 横浜 】

0002 ロシアの寒村にユダヤ人として生まれたシャガールの「バイオリン弾き」という名画は、古代ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事をヒントに描かれている。
人気ミュージカル舞台の「屋根の上のバイオリン弾き」では、20世紀初頭の帝政ロシアの小さな村の農民の生活を軸に、アレクサンダー3世の反ユダヤ政策による「ポグロム」と呼ばれた反ユダヤ暴動や、ユダヤ人追放運動を背景した物語だ。事実、19世紀から20世紀初めにかけてロシアや東ヨーロッパでは、激しいユダヤ人迫害があり、多くのユダヤ人がアメリカや英国に移住せざるを得なかった。

ロンドン郊外に住むこの一家も、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきたユダヤ人だった。両親は、多くの移民たちがそうしたように、荷車に雑貨品を積んで売って歩く行商人として、一家の貧しい暮しを支えていた。11人の子どもの中で、下から二番目の男の子は才気煥発で、父はこの息子の将来に期待を寄せていた。
マーク(マーカス)・サミュエルが18歳の時、父は彼に、極東行きの船の三等船室の片道切符一枚を渡した。父は、自分が年をとってきているので、10人の兄弟姉妹たちのために、一家のビジネスに役立つことを旅行中に考えて欲しい、ということを彼に伝えた。
1871年、マークはロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である日本の横浜までやってきた。

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地球の裏側では、オハイオ州クリーブランドでスタンダードオイル社を設立したジョン・D・ロックフェラーが、急速に発達した鉄道網を利用して、油田から原油を精製工場まで運送し、出来上がった加工油を消費地まで送る、という生産から物流までの一貫業務を確立していた。
さらにジョンは、鉄道会社と交渉して鉄道運賃の二重価格を作り、スタンダードオイルとその同盟する石油精製会社の輸送運賃を、同盟していていない会社のそれと比べて安くする仕組みを作り上げた。大手鉄道会社各社も、輸送運賃価格と輸送需要の安定確保を狙って、ジョンのスキームを受け入れた。
こうして鉄道会社と固く結んだスタンダードオイルは、クリーブランド近辺の独立系石油精製会社と同盟を広げ、更には経営権をも獲得して着々と傘下に治めていった。

価格決定権を奪われた原油採掘業者側は、連合してスタンダードオイルへの原油の供給をストップしてこれに対抗した。これは1970年代から80年代にかけてのOPEC(石油輸出国機構)が先進国の巨大石油資本に対抗した方法と同じだ。しかし、生産連合側の泣きどころは、経済的にガマンできなくなった構成員が脱落して生産を増やしてしまうことだったが、OPECの崩壊同様、ペンシルベニア州の原油採掘業者の連合も次々にスタンダードオイルの軍門に屈した。

スタンダードオイルは全米の石油精製会社を、膨大な力(鉄道網を使わせない、原料である原油を供給させない、安売り攻勢をかける等々)で次々に傘下におさめ、1877年には全米シェアの90%を獲得した。さらにスタンダードオイルは、新たに現れた新しい石油輸送手段である「パイプ・ライン」も、株式買占めなどの方法で支配する一方、石油の「小売部門」も傘下に治めていった。
こうして、原油産出~原油輸送~石油精製~石油製品輸送~小売り、という石油にかかわる全部門の垂直統合を全米で行っていき、ロックフェラー石油王国の中枢として、1882年に「スタンダードオイル・トラスト」を設立する。

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話は少し戻って、単身横浜の港に降り立ったマークのその後だが、ロンドンを出るときに持っていた彼の所持金は、父から渡された5ポンドだけだった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネで、知人も住む家もなく、英国に戻る乗船券も持たない身には、何とも心細い金額だった。
マークは、とりあえず湘南の海岸のつぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。ある日、彼は日本の漁師たちが波打ち際で砂を掘っている姿に目を止めた。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝はとても美しかった。

0001 マークは、この綺麗な貝を細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。その日から彼は、せっせと貝を拾い始め、その貝を加工した商品を父のもとに送った。
ロンドンでは、マークの送った貝殻細工の商品を父が手押し車に乗せて売り歩いた。当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。

やがて父は手押し車の行商をやめて、小さな一軒の商店を開いた。評判が評判を呼んで客足が増え、やがて父はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、高級住宅街のあるウエストエンドへ移すなど、この貝殻細工をもとにした商売は、どんどん発展していった。

この頃、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の完成により、ヨーロッパとアジアの航海日数が格段に短縮されため、国際貿易はますます活発になっていた。
マークは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類を英国に輸出する商売を始めた。輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。

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英領インドを中心にアジア地域一帯に広大な植民地を持つ英国にとって、1869年のスエズ運河完成による新航路は、航海日数の短縮というメリットがある反面、高額の通行料を支払わなければならない上に、フランス政府とエジプト政府が運河会社を所有していたため、安全保障の面でも問題があった。
1875年11月14日の夕刻、英国首相ベンジャミン・ディズレーリは、ユダヤ人の大富豪ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド邸で主人のライオネルと夕食をともにしていた。そこへ召使が一通の電報をもってきた。それは、財政が困窮していたエジプト政府がスエズ運河の株を売り出そうとしている、という極秘情報であった。価格は1億フラン(400万ポンド)だという。
ロスチャイルド家は、世界中に情報ネットワークを張りめぐらせていて、時には政府や諜報機関も得られないような情報を持っていることさえある。

首相は逡巡することなく「よし、買おう」と言うと、その買収の費用全額をロスチャイルド家から借金することに決めた。
「担保は?」と聞くライオネルにディズレーリは「英国政府が担保です。」と答えた。ライオネルは「よろしい、ご用立てしましょう」と簡単に答えると、翌日には400万ポンドがきっちりとディズレーリの元に届けられた。そして48時間後には、エジプト所有のスエズ運河株式会社の株が英国政府に渡った。ただし、ロスチャイルドの手数料が2.5%(10万ポンド)とされていること、また5%の利子が加算されていたことが判明すると、高額の手数料と利子をめぐって英国議会は紛糾した。それでも、女王の喜びの言葉と、民衆の歓呼がすべての異議を消し去った。
英国にとって、西アジアからインドにかけての帝国主義的戦略において、スエズ運河の管理に圧倒的な発言権を得たことは非常に大きな価値があったことが、この後の歴史によって証明されることになる。

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1883年にドイツのダイムラーとベンツが、それぞれ個別にガソリン・エンジンを発明すると、それまで主に石炭を燃料とする蒸気自動車であったものが、石油(ガソリン)を燃料とする自動車となり、自動車は急速な進歩をとげていくことになる。また、1893年にはドイツのルドルフ・ディーゼルによって軽油で動くディーゼル・エンジンが発明され、船舶・鉄道・トラックなどの大型輸送機関の動力に用いられると、交通機関に革命的変化がもたらされた。
このように、世界中のビジネスマンのあいだでは、石油が非常に大きな話題になっていった。石油の需要は確実に増加しつつあり、アメリカ合衆国ではロックフェラーが石油王への道を突き進んでいたし、帝政ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。

Royal_dutch_shell_logo マークも石油ビジネスに興味を抱き、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本にインドネシア産の石油を売り込み始めた。
ところが、マークの石油ビジネスが順調に拡大して、やがて英国のアジア艦隊に石油を供給するようになると、マークの会社を確固たる英国企業とするために、英国人の経営陣に会社を譲るようにとの圧力がかかった。マークは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。そしてもうひとつは、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。若き日に、湘南の海岸でひとりで貝殻を拾ったビジネスマン人生の第一歩を忘れない、というマークの思いだった。そして、新しい会社「シェル石油」は、貝殻を描いた商標で世界中で広く知られるようになる。

ところで、マークのインドネシアでの石油買い付けに協力したのが、ロイヤル・ダッチ石油会社だった。ロスチャイルド財閥が支援するロイヤル・ダッチは、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の石油開発を進めており、そこで産出した石油の販売を、日本を中心にアジアに広い販売地盤をもつシェルに委託した。
ロスチャイルドは、このオランダと英国の2社の合併を推進し、1902年にロイヤルダッチシェル社を発足させた。このロイヤルダッチシェルが、やがて世界の石油資源を巡って、アメリカのロックフェラー財閥と角逐することになる。

序章(3) 【1879年 バクー】 につづく。

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文明の黙示録(1)

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                    序章 (1)

             【 1870年 クリーブランド 】

01 アメリカ5大湖のひとつ、エリー湖の南に位置するクリーブランドは、カヤホガ川の河口に位置し、それに沿うエリー運河とセントローレンス運河の中継点という、交通の要所として発達してきた。特に、エリー運河はハドソン川につながっていて、19世紀半ばまではニューヨーク州の州都アルバニーまでの物資運送の動脈となっていた。鉄道がまだ普及していない時代は、運河輸送が最も重要であった。
クリーブランドの冬は厳しく、「レイクエフェクト」と呼ばれる北風によって、気温が零下20度以下となることもある。長い厳寒の冬に運河が凍結することが、この時代の人々の大きな悩みであった。

1853年、クリーブランドの南のストロングビルという小さな田舎町に、ある家族が移り住んできた。父親のビルは、怪しげな健康薬品や健康食品を売っていた上に、だらしのない性格で女ぐせも悪く、町での評判は良くなかった。一方、母親のエリザは敬虔なバプティスト教徒で、引っ越してきたその日から教会へ通うことを怠らなかった。
長男のジョンは地元の商業専門学校に入学したが、父に似ずに優秀な頭脳を持っていて、複式簿記や商法の授業では学年一の成績を修めた。ジョンは母親譲りのまじめな性格で、貧乏も苦にせず、一生懸命勉強に励んだ。商業学校を卒業したジョンは、16歳で地元の農業商社に勤め、経理を中心に会社の経営に関わる仕事も任されるようになっていった。

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この頃のアメリカ合衆国は、南部と北部で経済、社会、政治的な違いによる摩擦が拡大していて、1860年11月の大統領選挙で奴隷制に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選すると、12月にはサウスカロライナ州が早くも連邦からの脱退を宣言、翌1861年にはミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も連邦からの脱退を宣言し、2月4日には7州でアメリカ連合国を設立した。3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に連合国を結成した南軍が、連邦のサムター要塞を砲撃して南北戦争の戦端が開かれた。
0001当初、短期間で決着がつくと考えていたリンカーンの予想に反して、南軍の戦意は高く、 1864年の夏には、南軍の一部隊は連邦首都ワシントンD.C.にまで迫った。しかし、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになり、新たに北軍総司令官に就任したグラントによって北軍の戦線が立て直されると、1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落し、南北戦争は終了した。

南北戦争が終わって、町には平和が訪れたが、ジョンはオハイオの農業の将来は明るくない、と感じていた。というのは、南北戦争の最中にカリフォルニアで金鉱が多数発見されると、鉄道網が急速に広がっていき、いずれ西部の肥沃な農業地域からの農作物が、鉄道によって直接東海岸に送られる日が来ると分かっていた。そうなると、オハイオで盛んな小麦の製粉工場は農産地の周辺に移ってしまうし、運河輸送の中継地としてのクリーブランドの役割も少なくなるだろう。
そこで、ジョンは1863年に、エクセルシア精油会社の共同経営者へ転身する。1859年にペンシルベニア州西部で油田が発見されて以来、そのオイルクリーク周辺で相次いで油田が掘削されて、オイルラッシュと言われるほどになっていたので、中西部で産出された石油をオハイオに集めてきて、精製した灯油を東海岸の消費地に運ぶビジネスは、今後きっと発展するだろうと思われた。ジョンの、商流を大きなビジョンで捕らえるビジネス・センスの高さは、すでにこの頃から発揮されていたのだ。

この時代の石油は、暖房用よりも照明(ランプ)用としての用途が大きく、その為に精製加工が必要だった。やがてドイツの若き天才二人がガソリン内燃機関を完成させると、ガソリン燃料用としての石油の価値は飛躍的に高くなるが、ジョンはまだそのことを知らなかった。

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その頃、そのドイツの二人の天才は、偶然にも南西部のバーデン大公国でガソリンで動く内燃機関の研究に没頭していた。ハイルブロン市のゴットリープ・ヴィルヘルム・ダイムラーと、カールスルーエ市のカール・フリードリッヒ・ベンツである。彼らが自動車の動力になるガソリンエンジンの最初の実用品を完成させるのは、あと10年ほど先になる。
ダイムラーとベンツがガソリンを燃料とする小型内燃機関の開発を急いだのは、この頃急速に工業化が進んでいたドイツが、工業分野で先行する英仏に対抗して、領土拡大するために必要な交通運送手段に使用するためだった。

18世紀に産業革命で工業化が進んだ英国は、海外に新しい市場と原料の供給地を求め、中近東~アジアの植民地拡大を進めていた。その中心となる英領インドと本国との交通の利便を高めるためには、地中海─紅海を結ぶ運河が何としても必要だった。

Suez0001 ナイルと紅海を結ぶ運河は、すでに紀元前2000年頃の古代エジプト時代に造られていたと言われている。近代に入ってからも、東方貿易を行ったヴェネツィア商人やルイ14世、ナポレオンがエジプトを貫通する運河の構想している。中でもナポレオンは、エジプト遠征に同行させた学術調査団に実際に測量をさせたが、調査団の出した結論は、紅海と地中海の水位差が10mに及ぶため工事は無理であるというものだった。
ところが実際にはその調査結果は誤りであり、実際の水位差は1~2mにすぎず、運河の建設は可能だったのである。そのことに気づいたフランスの外交官フェルナンド・ド・レセップスは、1854年にスエズ運河建設の許可をエジプト政府から獲得する。長さ168kmという世界最長の運河は、着工から10年をかけて1864年11月17日に開通した。スエズ運河の株式はフランス政府とエジプト政府で半分ずつ分けられたが、それでもヨーロッパから喜望峰回りの半分の距離でインドに達することができるようになったので、英国のヴィクトリア女王は喜び、1870年、レセップスをロンドンに招いて勲章を授けた。
しかし、主にスエズ運河を利用する船は、毎年英国船が一番多かったので、英国は運河保有会社の株を買入れるチャンスを虎視眈々と狙っていった。

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英仏独とロシアは、19世紀末には領土覇権を争って各地で様々な衝突を起こしていたが、南北戦争後の社会復興に集中しなければならないアメリカ合衆国は、1823年のモンロー宣言以来のヨーロッパとの相互不干渉の外交方針もあって、緊張が高まる海外事情に目を向けることはなかった。その間に、国内の工業化が急速に発展し、産業力が高まっていった。

Johndrockefellersen0001_2ジョンの石油精製の商売は順調だったが、彼は自分の仕事に満足していなかった。当時 の石油「精製」は単純なもので、硫酸で「洗う」だけというものだった。しかし、簡単であるがゆえに競争が激しく、品質も粗悪なものが多く消費者に迷惑を掛けていた。ジョンは、品質が安定した油を安く出荷する、という、商売の鉄則である「良いものを安く」というコンセプトで石油事業に本格的に乗り出すために、弟のウィリアムとフランクリン、パートナーたちと「スタンダードオイル精油会社」を設立する。

ジョン・デビッドソン・ロックフェラー、この時、31歳であったが、こうして設立された「スタンダードオイル」こそ、後に「帝国」と呼ばれるようになるロックフ ェラー財閥の第一歩であった。この後、アメリカ合衆国を取り巻く世界の情勢と、石油ビジネスの環境が激変することを、彼はまだ知る由もなかった。

序章(2) 【1876年 横浜】 につづく。

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蒼暗き闇の深淵~植草事件に寄せて~

01 10月16日、東京地裁で東京都迷惑防止条例違反の罪に問われた元名古屋商科大大学院客員教授植草一秀被告の判決公判があった。注目された判決は、懲役4ヶ月(求刑懲役6ヶ月)の実刑であった。
これに対し、植草一秀被告は「不当判決に強い憤りを感じている。私は無実、直ちに控訴する。無実を証明する目撃者証言の内容が、正確に報道されてこなかったことも残念。無実を明らかにするために、今後とも闘い抜く覚悟だ」と述べ、控訴する方針を示した。

この件に関しては、植草氏への国策逮捕、冤罪との視点から氏を支援するブログが数多く立ち上げられている。それらの中で、裁判での検察側主張の矛盾、疑念なども取り上げられている。(末尾参照)

植草氏の弁護活動を続けている梓沢和幸弁護士は、「隠されている情報を引き出すために危険なところに手をつっこんでいくのがジャーナリズムではないか」と述べ、メディアに期待されている公共性についてマスメディアが応えていないことに不満を述べながらも、戦前の大政翼賛会を賛美しまくったマスメディアを念頭に、現代の市民メディアの可能性に言及して、「植草さんの痛みを自分自身に置き換え、これ以上マスメディアに悪をやらせないという気持ちでこの訴訟を勝ち抜きたい」との決意を表明している。

植草氏の事件が冤罪であり、国策捜査の犠牲になったとすると、いったい誰が何のためにこのような事件を仕掛けたのだろうか、という疑問が湧き出る。
植草氏の逮捕は今回が2回目であり、前回2004年の事件は、4月8日に横浜での講演を終えた植草氏が品川駅の改札を出てエスカレーターに乗ったところで、携帯電話を使って女子高生のスカートの中を盗撮した、として警察官に現行犯逮捕された。しかし、植草氏の携帯電話はアタッシュケースの中に入っていて、盗撮に使えないことが分かったため、たまたま氏の上着のポケットの中から出てきた手鏡を使って覗きを行った、という話に切り替えられて起訴された。

この頃、植草氏は小泉政権の下で進められた金融改革に批判的な意見を発表していた。単に経済政策に対する批判以上に、りそな銀行国有化に至る不透明な経緯と、疑わしいインサイダー取引犯罪の可能性にも言及していた。

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01_2 2002年10月、内閣改造で金融担当となった竹中金融相は「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」を発足させ、銀行の当時の会計ルールだった5年間の繰延税金資産計上の期間を短期化させる案を、わずか3週間で決定し、2003年3月期決算から適用する案を公表しようとした。
分かりにくいが、将来還付される税額をあらかじめ自己資本に計上することを「繰延税金資産」という。つまり、将来戻ってくることを見込んで、会計上税金の支払いがなかったことにできる制度だ。銀行にはこれまで5年分の「繰延税金資産」計上が認められてきた。竹中氏は「金融再生プログラム」のなかで、2003年3月期決算から、「繰り入れ限度」を米国基準と同じ自己資本の1割に圧縮しようとした。

なぜ、竹中氏はこれほどの大きな基準変更を、拙速に実行しようとしたのか?
しかし、このときは銀行界や自民党からの猛反発で竹中案は実現できなかった。

一度失敗した竹中金融相は実質的な会計ルール変更に向け公認会計士協会に行動を仕掛けた。この時の協会会長は、一回目に失敗した「金融再生プログラム」のプロジェクトチームメンバーだった奥山章雄氏である。(奥山氏が代表を務める業界最大手の中央青山監査法人は、その後多くの企業の粉飾決算に関与したことが発覚し、07年7月に解散に追い込まれる。)

竹中氏のターゲットとされたのが、りそな銀行だった。
2003年3月期のりそな銀行の決算は、今まで通りの会計基準(会社法や証券取引法に則って決められた会計計算や財務諸表の作成に関するルール)に基づけば問題は無かった。しかし、監査を受嘱していた新日本監査法人は、りそな銀行の繰延税金資産を5年ではなく3年とする案を決定し、5月6日にりそな銀行に伝えた。繰延税金資産3年計上はりそな銀行の自己資本比率が4%を割ることを意味していた。
問題は、「5年」を「3年」に変更したことではなく、3月31日の決算期を過ぎてから、会計基準を変更したことである。もはや、りそな銀行にとって、この時期に通告を受けてもなんの手立てもない。
野球で例えるなら、9回に逆転勝ちしたチームが、試合終了時に「この試合は7回終了時の得点で勝者を決定する」と審判に言われるようなものだ。こういうことが通用するなら、どんなスポーツも、いかなる会社の経営も成り立たない。3月末を過ぎてからの企業の会計基準変更は、「謀略」とも言える。

01_6 これにより、りそな銀行は国有化され、2兆円近い公的資金が注入された。この後、株式市場は反転し、株価は急騰する。その際、外資系ファンドや、一部の国会議員が巨額の利益を上げたと言われる。植草氏は、このインサイダー取引疑惑を指摘し、証券取引等監視委員会が調査すべきだ、という発言をしていた。

なお、りそな問題では、会計基準変更直前の4月24日に、りそな銀行決算のキーパーソンと言われた朝日監査法人(現あずさ監査法人)の平田会計士が自殺した。彼は、何を知っていたのだろうか?

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実は、植草氏が品川駅で逮捕される2004年は、年初から新生銀行(旧長銀)の再上場を認めるべきかどうかが国会でも問題になっていた。結局、2004年2月19日に見切り発車の形で再上場が認められた結果、リップルウッド(現RHJインターナショナル)は巨大な利益を獲得した。そもそもリップルウッドへの落札が適正だったのかどうか、その点も新生銀行の再上場に関する国会論議では問題とされていた。

長銀破綻から譲渡されるまでに投入された公的資金の総額は6兆9500億円にのぼるが、リップルウッドはその長銀をわずか10億円で手に入れた。その上、1200億円の「瑕疵担保特約」というオマケまでついた。瑕疵担保特約とは「譲渡後の3年以内に、引き継いだ債権が2割以上劣化した場合は、国が簿価で買い戻す」という条項だ。融資先の企業が倒産しても、この特約を使えば、国が買い戻してくれるので損はでない。逆に、企業が立ち直って、貸した金を順調に回収できればすべて新生銀行の利益になる。リップルウッドが必ず儲かる仕組みになっていたのだ。

長銀のM&Aでは、日本政府とアドバイザー契約を結んだ米ゴールドマンサックスも、濡れ手に粟で大金を手にした。売り手側のアドバイザーとなったのだから、日本政府が有利になる条件で譲渡契約を結ぶのが当然なのに、ゴールドマンサックスは日本政府に不利な瑕疵担保特約を認めた。
国民からは轟々と非難の声があがったが、「金融危機を回避するためには、多少の犠牲はやむを得ない」との政府高官の声にかき消されてしまった。

この点でも、植草氏はテレビ等で、旧長銀が破たんしてリップルウッドがそれを買い取る経緯が非常に不透明だとはっきり言ってきた。
植草氏は、『月刊日本』2005年11月号のインタビューで、「旧長銀のリップルウッドへの落札疑惑を調べていたことが2004年事件につながったと感じている」と吐露している。

なお、RHJインターナショナル(旧リップルウッドホールディングス)のウィリアム・H・ドナルドソン上級顧問は、ニクソン政権でヘンリー・キッシンジャー氏が国務長官時代に国務次官を務めた人物で、フォード政権で副大統領だったネルソン・ロックフェラー氏の特別顧問を務めた米政財界の大物で、グレッグ・ブレネマン上級顧問は米大手監査法人プライスウォータハウス&クーパーズのCEOを務めている。日本法人(㈱RHJIインダストリアルパートナーズアジア)代表の倉重秀樹氏も、プライスウォーターハウスクーパーズ・コンサルティング・ジャパンの会長を務めた経歴を持つ。
大手監査法人と投資ファンド、政財界の深いつながりが垣間見える。本来、相反する立場に居た実力者が集まったところに、蒼暗い闇の存在を感じさせる。

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01_5 今年の1月11日、洋菓子メーカーの不二家が期限切れ原料を使用していたとして、製造販売の休止を発表した。東京証券取引所は、即日不二家株の「空売り禁止規制」の措置を取った。
ところが、1月12日財務省受付(12月30日以降の大量保有義務発生)の不二家の株主に関する情報では、ゴールドマンサックス証券など(ゴールドマンサックス証券(日)、ゴールドマンサックス(英)、ゴールドマンサックス(米))が6,720,000株の大量株式を取得していることが判明した。実に保有率0%→5.32%への大飛躍である(金融庁のホームページからの情報提供)。
しかも、「当該株券等に関する担保契約など重要な契約」のところには「株券の消費貸借により321万6千株の借り入れ」とある。要は、ゴールドマンサックス証券は321万6千株の不二家株をすでに空売りしていて、不祥事の発覚で株価がどん底に下落してから買い戻すことで、巨額の利益を獲得したのである。ゴールドマンサックスが、07年1月11日以前に不二家の不祥事を知っていたとしたら、典型的なインサイダー取引になる。不二家の監査法人も、みすず監査法人(旧中央青山)だった。
その後、この不祥事で巨額の損失を出した不二家は銀座の一等地の本社ビルを手放すが、これを買い取ったのはシティグループだった。

中央青山~みすず監査法人は、足利銀行の粉飾決算、カネボウの粉飾決算、ミサワ九州の粉飾決算、ライブドアの粉飾決算に深く関与し、06年12月には日興コーディアル証券の決算書の虚偽記載を追認していたことから、金融庁から業務停止命令を受けるなど、社会信用上の多大な問題を抱え、結局07年7月に解散した。
しかし、みすず解散の前年の06年6月には、みすず/中央青山の提携先であったプライスウォーターハウス&クーパーズが日本であらた監査法人を立ち上げ、多くの会計士と顧客はそちらに移動している。うがった見方をすれば、中央青山は、この10年間の疑わしい金融犯罪の証拠隠滅のために解散され、米大手監査法人が直接日本の会計監査事業に乗り込んできたように見ることも出来る。
なお、日興コーディアル証券は上場廃止を念頭に監理ポストに移ったが、その後、不可解な決定で上場廃止を免れ、小泉政権下で解禁された「三角合併」の第一号として、米シティグループに買収された。15億円の粉飾で上場廃止されたライブドアと、150億円の粉飾でも上場廃止を免れた日興コーディアルと、ここにも不透明な決定がある。

植草氏が訴えかけていたものは、このような深い闇のほんの入り口だったのかも知れない。不当逮捕と不当判決は、口止めのための威嚇なのかも知れない。マスメディアがその闇の隠蔽に加担するなら、市民メディアは力を合わせて真実究明の声を上げなければいけない。
このような闇の中に消えた巨額の金は、もともと国民の税金であり、国民の財産であった。その意味では、すべての国民が被害者であると言える。政治も行政も国民の利益を守ることが出来ないのであれば、国民は自ら抵抗の声を上げなければ、今のミャンマーの情勢と何も変わらない。

植草一秀元教授に聞く 痴漢えん罪事件と権力の闇

女性セブンの記事はデタラメ」植草一秀さんと梓沢和幸弁護士の話を聞く

植草氏は国策捜査の犠牲に? 「知られざる真実 拘留地にて」を読んで

知られざる真実-勾留地にて-

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名探偵コナン~骨太のトリックをあばけ!~

01_2 オレは高校生探偵、工藤新一。幼なじみで同級生の毛利蘭と遊園地へ遊びに行って、黒ずくめの男の怪しげな取り引き現場を目撃した。取り引きを見るのに夢中になっていたオレは、背後から近付いて来るもう一人の仲間に気付かなかった。オレは、その男に毒薬を飲まされ、目が覚めたら、体が縮んでしまっていた!!
工藤新一が生きていると奴らにバレたら、また命を狙われ、まわりの人間にも危害が及ぶ。阿笠博士の助言で正体を隠すことにしたオレは、蘭に名前を聞かれて、とっさに「江戸川コナン」と名乗り、奴らの情報をつかむために、父親が探偵をやっている蘭の家に転がりこんだ。

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コナン「ねえねえ、おじちゃん、これ見て。」
毛利小五郎「なんだ、坊主、インターネットなんかにかじり付いて。いやらしいサイトでも見てるんじゃないだろうな?」
コナン「ほらほら、おじちゃん、この数字、変だよね?」
毛利小五郎「なに、財務省のホームページ?おまえに、こんなものがわかるのか?」

                     □

政府は、2011年にプライマリーバランスを黒字化するために、17兆円の歳出削減が必要であると述べている。平成16年度決算によるプライマリーバランスを見ると、財務省は、プライマリーバランスは▲18兆円であると説明している。
つまり、歳出を18兆円削減できれば、プライマリーバランス(「歳入」-「歳出」)は均衡することになる。ところが、同じ年の国債発行残高は69.9兆円(普通国債だけでも42.0兆円)増加している。つまり、国債はプライマリーバランスの赤字分以上に増加している。これは、国債が特別会計の借金の穴埋めに使われているためである。

政府の言う通り、17兆円の歳出削減ができても、国債発行規模が約50兆円に減るだけで、借金が増え続けることに変わりはない。本気で国の財政を黒字化するには、800兆円の国債を本気で減らすことに手を付けなければいけない。

コナン「ほらね、これじゃあ、2011年までに17兆円を節約しても、国の借金は少しも減らないよ。」
毛利小五郎「ど、どういうことだ?」
コナン「つまり、おじちゃんが10万円のスーツを10回分割のクレジットで買うとするでしょ、毎月1万円払わなくちゃいけないよね。でも、60分の1、つまり、毎月1600円ずつしか払わないと、10ヵ月後に16000円しか返せないから、84000円足りないよね。これを置いておいてまた10万円のスーツを買う、ってことを繰り返しているんだ。」
毛利小五郎「それじゃあ、借金が膨れ上がる一方じゃないか。」
コナン「そうだよ。財務省って、借金を繰り返す生活破綻者と同じことをやっているんだよ。」
毛利小五郎「お、オレの顔を見て言うな。」

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コナン「ほら、おじちゃん、これも変だよ。」
毛利小五郎「今度はなんだ!」
コナン「『骨太の方針2006』では、2011年までに14兆円歳出を減らすんだよね?」
毛利小五郎「そ、そうだ。そうしないと『借金が雪だるま式に膨れて、財政破綻を回避できても次の世代が満足な行政サービスを受けられず、惨憺たる世の中になる』って財務省が言ってるぞ。オレだって競馬新聞以外の新聞も読んでいるんだ。エヘン。」
コナン「でもさ、2011年の歳出予想は114兆円なんだって。これって、06年より6兆円も増えてるよ。」

                     □

国と地方の歳出を合算した数字は107兆円(06年度)だ。「骨太の方針2006」が宣言しているように、5年間で14兆円の歳出を削れば、2011年度の歳出規模は93兆円になる。ところが「改革後の姿」では歳出は113.9兆円を想定。何のことはない、6兆円強の増加、06年度に比べ6.1%伸びる計算になっている。
経済財政諮問会議では「GDPの平均伸び率を3%と見て」、5年後の歳出予算を128.2兆円と計算(21兆円の膨張!)、社会保障で8兆円増の他に、しっかり公務員人件費4兆円増、公共事業2兆円増、防衛・教育などで4兆円増を組み込んでいる。ここから14兆円削減しましょう、という宣言なのだ。
高齢化で社会保障費の伸びを算入するのは分かるが、人件費については「GDPが3%伸びれば人件費は3.6%上昇する」ことが前提だという。だから公務員人件費も3.6%ベアとなり定員削減計画を加味しても4兆円増える、というのだ。
財政破綻の危機感とずいぶん距離のある推定である。民間のベアがここ何年も凍結されている中で、「公務員給与は民間と比べて高すぎる」という批判があるのに、2011年までにベア3.6%は現実的ではない。

02 毛利小五郎「自分達の給料の増加分は確保しておいて、オレたちの税金をもっと取り立てよう、ってことか。あつかましい話だな。」
コナン「公共事業も、もっと一般入札を徹底させたり、天下り先業者への随意契約なんかやめれば、予算をこんなに増やさなくてもいいんだよね。」
毛利小五郎「そうだ。まず無駄使いを減らすことが大事なんだ。」
コナン「それって、おじちゃんがいつもランねーちゃんから言われてることだね。」
毛利小五郎「うるさい。」

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コナン「ねえねえ、おじちゃん、この数字もすごいよ。」
毛利小五郎「ガイコクカワセ&¢※♀♂§☆?」
コナン「外国為替資金特別会計だよ。98兆円もあるよ。」
毛利小五郎「すごい金額だな。でも、これは国の財産じゃないか。財産があるってことはいいことだぞ。」
コナン「でも、これと同じだけ国債の借金があるんだよ。」

                     □

日本の外国為替資金特別会計は、外貨証券残高70.3兆円、総額97.3兆円にのぼっている。その大半は米国債で保有され、平成18年度には6524億ドルに上っている。
日本は、1998年6月のドル売りを最後に、ドル買い・円売りを続けている。このための資金は外国為替資金証券でまかなわれているが、買い込んだドルを売らない限り、外国為替資金証券の償還財源を得られないので、借り換えを繰り返すしかない。
2004年度末の外国為替資金証券残高は94.7兆円になる。円売りドル買いは、円安誘導政策といわれているが、実は外為特会の資産(購入米国債)の在高は、米国の経常収支の推移に符合する。

図:日医総研 「グランドデザイン2007 -総論-」より

Photo_3      

毛利小五郎「これはオレだって分かるぞ。つまりだな、この米国債を売ろうとすると為替が円高になって、日本の経済を引っ張っている輸出企業が困るんだ。だから、政府はドル資産は売らないのさ。」
コナン「でも、日本の財政は破綻寸前で、国債償還のためのお金が無いんだよね?それで、消費税ももっと上げるんでしょ?」
毛利小五郎「うーん、景気が悪くなるのも困るし、税金が上がるのも困るし、参ったな。」
コナン「それと、アメリカの財政赤字が増えると、日本の米国債購入額が増えるのもヘンだよね。」
毛利小五郎「・・・うーん。」

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Conan01 コナン「おじちゃん、これ、どう思う?」
毛利小五郎「なに、国債保有者の内訳?なんだ、半分以上が政府と日銀じゃないか。」
コナン「日銀が国債を買うことは、財政法で禁止されているんだよね?」
毛利小五郎「おお、そうか。これは怪しい!眠りの小五郎と呼ばれた名探偵の血が騒ぐぞ。」

         □

2004年度の国債所有者内訳を見ると、国債の56.3%は政府と日本銀行によって保有されている。しかも、財政法では日銀の国債引き受けは禁止されている。

日銀の国債保有額は、2000年度末から急激に増加した。民間銀行の国債保有額も2000年度にピークを迎え、一旦減少するが、その後増加に転じている。その原因は、日銀が2001年3月に踏み切った量的緩和政策にある。
日銀が民間銀行の保有する国債を買取り、これによって民間銀行の企業や個人への貸し出しが増えることが期待された。しかし、銀行は企業等への貸し出しを増やさず、むしろ中小企業から貸しはがしをして、その資金でさらに国債を買った。
銀行の言い分は、国際的なBIS規制(自己資本比率規制)では、民間への貸付は全額分母に算入されるが、国債については、算入の調整ができるからだと言う。こうして、銀行は政府から国債をどんどん購入し、日銀はそれをどんどん買い取るという連鎖が続く。

量的緩和政策で、日銀が財政法をゆがめてまで国債を引き受けた結果、政府はさらに国債を発行して借金を増やす。財政再建を唱える政府の後で、巨額の資金が特別会計へ流れ、政官財の利権の闇に消えていく。
日本の財政が破綻寸前だと声高に叫ぶなら、その犯人についてもしっかり究明してもらわなければ、安易な消費税率アップを認めるわけにはいかない、というのが国民の一致した意見であろう。

毛利小五郎「ほら見ろ、巨悪の臭いがプンプンするぞ。今こそ、この眠りの小五郎の実力を見せてやる。」
コナン「でも、おじちゃんは私立探偵だから、依頼人が居ないと仕事にならないんじゃない?」
毛利小五郎「う、そうだった。せっかく、世界の探偵史に残る大活躍ができると思ったのに。」
コナン「やれやれ。」

【参考】
日医総研「グランドデザイン2007」国民が安心できる最善の医療を目指して

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大国の利権④~アフガンのグレート・ゲーム~

Afgan 民主党小沢代表は、最新の月刊誌の論文で、「民主党が政権を取ったらアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)への参加を実現したい。」との主張を展開した。これに対し、政府・自民党は「小沢代表の考えは、憲法9条に反するのではないか」と批判している。その一方で、政府・自民党は、テロ特措法に代わる新法で、米国の「不朽の自由作戦」(OEF)での洋上給油活動を続ける意向を示している。

政府・自民党は、小泉政権が米国のアフガニスタン攻撃に対して世界のどの国よりも早く賛同を表明し、その支援を約束したことを軽く考えているのではないだろうか?すでにアフガニスタンは泥沼の内戦状態に陥っており、その原因が米国による侵攻であることが明らかである以上、そのアフガニスタンの現状に対する日本の責任は米国に次いで重い、という認識が全く欠如しているようだ。

現実に、アフガニスタンのISAFの活動では、ISAF側にも民間人にも多数の死傷者がでている。しかし、小泉元首相が日本を代表して米国のアフガニスタン侵攻を支持し、協力をしてきた以上、たとえ日本の自衛隊に犠牲者が出る可能性があろうとも、アフガニスタンの治安回復のための活動について、日本には可能な限り最大限の関与をする責任がある、という覚悟を小沢代表は日本国民全員に突きつけている。
かつて世界から「金で解決する日本人」と蔑まれ、それではと弾の飛んでこない後方支援でお茶を濁し、批判されると「憲法の制約があるから」と言い訳してきた日本人は、その最前線で何が起こっているか目を見開いて直視する義務があり、その結果に対しての責任がある、ということを小沢代表は指摘しているのだ。

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アフガニスタンは、19世紀には北方をロシア、西をペルシャ、東から南を大英帝国(インド)と接するという地理的条件によって、「“グレートゲーム”の舞台」と称され、それら大国の影響に翻弄されてきた歴史を持つ。
賢明なザヒール国王を頂く立憲君主制の国だったアフガニスタンは、大国の狭間で何とか独立を保ってきたが、73年にその国王が病気治療のためにヨーロッパ旅行に出かけた間に軍事クーデターが発生し、アフガニスタン共産党PDPA( アフガニスタン人民民主党)を中心とする共和制の国に変わった。共産党を中心とする新政権は、必然的にソ連の影響を直接的に受けるようになり、かねてより不凍港を求めてインド洋・中東に向かうルートを確保したかったソ連のブレジネフ書記長は、1979年12月、「アフガニスタン政府を支援する」と言う名目で軍事介入、10万人以上の軍隊を投入してカブールに侵攻した。
そのソ連の南下を、何としても阻止しないといけない国が、米国、パキスタン、サウジアラビアであった。東西冷戦で対峙する米国は、ソ連の拡張(=共産主義の拡張)を阻止したかったし、パキスタンは国境を接するアフガニスタンがソ連の完全支配下に入った場合、自国の安全が脅かされると感じた。サウジアラビアは、ソ連が中東の石油に手を伸ばせば、石油ビジネスへ大きな影響を受けると危惧していた。彼らは、反ソ運動をしていたイスラム教徒たち、および、イスラムの名の下にアフガンに馳せ参じてゲリラ活動を展開していたゲリラ組織に資金、武器、ゲリラ戦術を提供して、強力にサポートした。
ちなみに、現在あちこちで「アラブ・アフガン」と呼ばれる人たちがテロ活動をしているが、彼らはソ連介入のときにアフガニスタンに馳せ参じ、ゲリラ養成所で訓練を受けた外国のイスラム教徒たちである。ソ連撤退後、彼らは自分たちの国に帰り反政府活動・反米活動をしている。米国がもっとも恐れる人物、「オサマ・ビン・ラディン」もその一人である。

この抵抗運動と冷戦末期という時期が影響し、ついにソ連のゴルバチェフ書記長は、1989年2月に10年近く続いた軍事介入から手を引く決断をした。そしてそれから2年後、後ろ盾を失ったアフガニスタン共産党政権は崩壊、そのあとを引き継ぐ形で、反ソ抵抗運動の指導者たちが連合して政権を発足させることになる。アフガニスタンの人たちは彼らをムジャヒディン(=聖戦士)と呼んで賞賛し、また世界の人々もゲリラ活動でソ連を追い出した彼らに期待を寄せた。

Afgan01_2 ところが、アフガニスタンの平和と復興を信じた世界の人々の期待を裏切って、ムジャヒディンの連立政権は権力の座を巡って仲間割れを始め内戦にまで発展、これ以後、首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられた。その間の難民は400万とも600万とも言われ、パキスタン、イラン、中央アジア諸国に逃れている。
アフガニスタンの内戦はすぐに首都カブールだけでなく、全アフガニスタンに拡大、民族間・宗派間の対立以外に、同じ民族間・宗派間でも対立するようになった。アフガニスタンの紛争は、各勢力を支援する近隣諸国の思惑も重なって、出口の見えない泥沼の状況に陥った。

アフガニスタンの内戦を、もっと複雑に、そして長引かせたのが近隣諸国の無責任な連立政権への支援であった。パキスタンは、中央アジア~イランとの貿易ルートを独占し、パキスタン最大のライバル、インドとのカシミール紛争もやりやすくなるという思惑から、イスラム党を率いるヘクマティアル氏を支援し、それに対抗するために、インドはヘクマティアル派の最大のライバルであるラバニ氏を支援した。 
タジキスタンはタジク人のラバニ氏を支援し、ウズベキスタンもウズベク人のドスタム将軍を支援した。両国の支援は民族的なつながりもそうだが、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を確保しておきたかったため、との思惑も見え隠れする。
さらに、サウジアラビアは国教であるイスラム教ワッハーブ派の拡大と、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を睨んで、違う陣営に属するヘクマティアル氏とサヤフ氏を支援。イランは隣国アフガニスタンが完全なスンニー国家になっては困るので、少数派のマザリー派、アクバリー派というシーア派勢力を支援した。
この一見無秩序な援助は、各国の利益と安全保障に沿った結果であったが、このためにアフガニスタンの国内紛争は混沌を極めた。

ソ連が去った後の、アフガニスタンの連立政権下の内戦は各地に悲惨な爪痕だけを残した。南部の都市カンダハルでは、山賊と化したムジャヒディンが暴行・略奪を繰り返し、法外な通行税をとって私腹を肥やした。
そんな中、1994年にカンダハルのイスラム指導者ムラー・ムハンマド・オマル師が自分の弟子30人にわずか16丁の自動小銃を持たせ、ムジャヒディンの基地を襲撃させ、彼らを駆逐することに成功した。この勝利のあともムラー・オマルと彼の弟子たちはカンダハル各地の軍閥を倒し、勢力を拡大していった。
この新しく台頭してきた勢力が、イスラム神学生で構成される「タリバン」であった。

皮肉にも、このタリバンの出現によって、敵対していた各ムジャヒディン勢力は、ラバニ前大統領やマスード将軍を中心にまとまり始めた。こうして、「北部同盟」が誕生した。

このころのパキスタンの対アフガニスタン政策は手詰まりだった。支援してきたヘクマティアル派はラバニたちの前に思うように勢力を拡大できず、首都カブールへのミサイル攻撃を繰り返し行ったために、カブール市民にも嫌われていた。
そこで、パキスタンはカンダハルで勢力を伸ばしつつあったタリバンに期待し、以後、公然とタリバンを支援する。パキスタンは、タリバンに政権をとらせることにより、パキスタンの傀儡にしようとした。それにより、中央アジア~イランとの貿易を独占できるし、中央アジア(特にトルクメニスタン)の原油や天然ガスをアフガニスタン経由でパキスタンに導く「パイプライン建設」を有利に進めることが出来る。さらに、インドとのカシミール紛争で優位に立つこともできる。アフガニスタンに親パ政権が誕生することは、後方を気にせずに前面のインドとの戦争に集中できるのだ。
タリバンはパキスタンにとって、経済の面でも安全保障の面でも重要な存在であった。

一方、イランはシーア派ハザラ人を支援していたが、過激なスンニ派タリバンの台頭はシーア派国家イランにとって危険な存在になった。このため、イランは北部同盟を支援するようになった。
タジキスタン・ウズベキスタンの両国はそれぞれの国内にイスラム過激派の反体制組織を抱えていて、その反体制組織はタリバンとのつながりがあったため、北部同盟の支援に回った。
トルクメニスタンはもともと中立だったが、1995年、パキスタン、サウジアラビアの石油会社「デルタ石油」「ニンガルチョ社」、米国の石油会社「ユノカル」とのパイプライン建設構想が浮上すると、トルクメニスタンはタリバン寄りになった。なぜならば、タリバンこそが一番早くこの内戦を治められる考えたからだ。大きな事業の実現には、治安回復が必須である。

ロシアは中央アジア諸国の安全を守ることにより、ソ連崩壊後のCIS(独立国家共同体)でも指導的な立場をとり続けたいと考えていたし、チェチェン紛争のイスラム組織はタリバンとのつながりがあったので、北部同盟寄りの立場(とまではいかないものの、反タリバンの立場)を取った。
サウジアラビアは、元々はパキスタンとともにタリバンを支援したが、サウジ反体制活動家のオサマ・ビン・ラディンをタリバンが庇護していたため、サウジアラビアは激怒して、タリバンから手を引いた。

米国は、ソ連撤退後のアフガニスタンに関心を示さなかったが、「ユノカル社」の積極的なロビー活動により、タリバンを支持した。ユノカル社のパイプライン建設は、中央アジアの石油と天然ガスをアフガニスタン経由でパキスタン・インド洋に流すことだが、それは同時にこの地域の資源をイランとロシアには渡さないということでもある。これは米国の外交戦略に適っていた。
ところが、タリバンの人権侵害や女性に対する迫害が明るみに出ると、米国の女性団体、人権団体、そしてヒラリー・クリントン議員が猛反発し、政府とユノカル社にタリバンから手を引くことを要求。そして98年8月のケニア・タンザニア米大使館同時爆破事件で、この事件の首謀者、オサマ・ビン・ラディンをタリバンが匿ったために、米国はタリバンを完全に敵視することになる。

『タリバン』の著者、アハマド・ラシッドは、アフガニスタンの「パイプライン建設」を巡る各国の動きについて、これを「第二次グレートゲーム」と呼んだ。この「第二次グレートゲーム」のプレイヤーは、パキスタン政府、サウジアラビア王室、サウジアラビアの石油会社「デルタ石油」と「ニンガルチョ」、米国政府、米国の石油会社「ユノカル」「アモコ」、アルゼンチンの「ブリダス」、日本の「伊藤忠商事」、韓国の「大宇グループ」、イラン政府、ロシア政府、ロシアの「ガスプロム」、オーストラリアの「BHP石油」、そしてトルクメニスタン政府、と多岐に渡り、中央アジアからカスピ海地域の原油と天然ガス、そしてそれを運ぶパイプライン建設権を巡って駆け引きを繰り広げた。

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2001年9月11日の米国同時多発テロ事件が起きると、事件の首謀者と目されるオサマ・ビン・ラディン容疑者を寄留させるタリバンを倒すために、米軍はアフガニスタンに侵攻した。米軍は反タリバン勢力の北部同盟や各地軍閥と手を組み、2ヶ月足らずの間にタリバン政府を駆逐した。その後のアフガニスタンは、一方的な軍事攻撃でタリバン政府を駆逐したブッシュ大統領が、傀儡のカルザイ政権を擁立して、「テロとの戦い」と称して武力による国内平定を目指している。

2005年12月、アフガニスタンの上下両院議会が首都カブールで32年ぶりに招集された。議会の開会式で、カルザイ大統領は「民主主義への重要な一歩だ」と述べて、多くの苦難を乗り越えて議会が再び招集された意義を強調した。
しかし、集まった議員には民主的選挙で選ばれた者もいたが、249名の下院議員には、かつて内戦を繰り広げた軍閥の関係者が軒並み名を連ねており、多様な部族と軍閥割拠というアフガンの権力構造を象徴するような光景だった。

Karzai そもそもアフガニスタンに中央集権国家を作ろうという米国の発想自体に無理があった。最大民族はパシュトゥーン人(全人口の40%)だが、過半数を占めているわけではない。タジク人(25%)、ハザラ人(10%)、ウズベク人(7%)は少数民族だが、北部同盟を結成しタリバン掃討に貢献したので、彼らを政権の重要ポストからはずす訳にはいかない。あちら(パシュトゥーン人)を立てればこちら(北部同盟)がたたず。カルザイ政権はジレンマを抱えたままの発足だった。

国外への報道では、カルザイ政権下でアフガニスタンに平和が戻り、復興への道を歩み始めた、とされるが、実際のアフガニスタンの状況は、平和とはほど遠いと言わざるを得ない。
実効的な統治能力を持たず、米軍特殊部隊に身辺警護を委ねているカルザイ「傀儡」政権のもとで、各軍閥の「群雄割拠」の覇権、利権争いが続き、「混沌」からの出口は見えない。カルザイ政権の支配力はカブール周辺にしか及んでおらず、地方ではラバニ元大統領派(タジク人)やドスタム将軍派(ウズベク人)などの「北部同盟」諸派、イランの後押しを受けヘラート州を支配してきたイスマイル・カーン司令官のタジク人軍閥と、これに対抗するカリム・カーン司令官のパシュトゥン人軍閥……などといった諸軍閥が相争い、独自の紙幣を支配地域で流通させて、税金も勝手に徴収しているほどである。こうした部族間抗争は、カルザイ政権の力では到底収拾できそうにない。

さらに重大な問題は、米軍の行った近代兵器のオンパレードというべき猛攻(劣化ウラン弾による放射能汚染、クラスター爆弾、"誤爆"など)によってタリバン兵・民間人問わずおびただしい犠牲が生みだされ、難民と化した人々の多くは明日を生きる糧さえ持たず、極寒の冬に耐えきれず息絶えた人も多い。「ペシャワール会」の中村哲医師が伝えるように、食料援助なるものは市場での闇取引に供されて軍閥の懐を潤すにすぎず、飢える民衆をなんら救わない。生き延びた民衆のささやかな生活さえもが、軍閥の武力抗争によってふみにじられていく。こうした惨状は日本のジャーナリズムにおいては伝えられることはない。

2006年2月10日、デンマークに端を発したムハンマド風刺漫画騒動がアフガニスタンにまで波及、全土で数千人が抗議行動に加わり、首都カブールでは、数百人の学生や女性がデモ行進した。5月29日には、カブール北部において米軍車両が民間車両12台を巻き込む交通事故を起こし、市民5人が死亡、騒動はたちまちカブール各所に広がり、暴徒化した市民を警官隊が阻止しようとしたが収まらず、衝突で市民20人が死亡した。
この事件について、現地の週刊紙カブール・ウイークリーの編集長は米紙ニューヨーク・タイムズのインタビューに答え、「復興の遅れや治安対策の欠落に対して、市民の不満がたまっている」と悪化したままの経済状況と失業が背景にあると指摘した。

この頃から、アフガニスタン問題は別の局面に突入したようだ。
米軍のOEF作戦で「タリバン掃討」を名目に展開されている空爆で多くの民間人が巻き添えで犠牲になっている。
外国軍の誤爆で一般市民の犠牲が増え、それへの怒りに乗じて、イラク型の自爆テロがアフガニスタンでも増えている。1979年のソ連侵攻から30年近く戦争の続く同国だが、自爆テロはこれまで見られなかった。それが06年には130回を超える自爆テロが発生している。今年6月には、イラクで装甲車を破壊するために使われてきた成型さく裂爆弾(EFP)の使用が初めて確認された。

傀儡カルザイ政権を認めない反体制派と、反米でアフガニスタンに集まってくるアラブ・アフガンの義勇兵達は、米国とその連合軍の攻撃を「キリスト教十字軍によるイスラムへの攻撃」と捉え、それに対する抵抗運動を「ジハード」として団結してきている。また、一度は政権から追放されたタリバンも同国南部や東部を中心に復活を遂げ、反政府、反米の武力活動を繰り広げている。

タリバンは、アフガン各地で駐留外国軍に対する攻撃を激化させ、一週間の戦闘での死者は約300人にのぼり、イラクでの同時期の死者数を上回った。また、アフガニスタン国軍は、中部ウルズガン州でタリバンの残存勢力多数の襲撃を受け、国軍兵士4人が死亡、これに対してアフガン駐留米軍は、南部カンダハル州でタリバン残存勢力の拠点を空爆、約80人を殺害した。
このアフガン全土の混乱に、欧州を拠点にアフガニスタンの情勢分析を行っているシンクタンクが報告書を発表し、同国南部でイスラム原理主義勢力のタリバンの支配力が復活し、「戦争状態」に逆戻りしていると警告を発した。

カルザイ政権は、今年1月の支援国会議に提出した文書で「問題の深刻さと必要とされる時間を過小評価していた。貧困・雇用問題が未解決のまま、治安問題、麻薬、汚職で、これまでにない挑戦に直面している」と事態の深刻さを認めた。
アフガニスタンの経済は破たん状態で、平均寿命は45歳と世界最低水準。戦争とテロの悪循環や干ばつで生活できないため、推定人口3000万人の国で、パキスタンとイランに逃れる難民は350万人。推定13万人が国内避難民となっている。
国連事務総長が3月に発表したアフガン情勢に関する報告は、政府が不適切な人物を任命する、部族など支配的な社会・政治集団に属さない人々が無視されるなど「国民の疎外」が起き、それが「反政府勢力の再活性化の背景になっている」と指摘している。

Koizumi_bush 日本の小泉元首相が、世界のどの国よりも先に米国の「テロとの戦い」を支持した結果が、今のアフガニスタンの現状なのだ。小泉氏は退任したが、政府・自民党(および公明党)は、このことについての重大な責任を負っていることを、自覚しなければいけない。
米軍への給油活動さえ続ければ、国際社会への責任が果たせるかのような甘い認識は、米国の顔色だけを覗っているために出てくる発想であろう。アフガニスタンが、経済破綻、貧困、教育の不足などのために混乱状態から抜け出せないとすれば、日本にはまだまだ果たすことが出来る役割がある。

【参考】
ソ連介入後のアフガニスタン内戦
アフガニスタン-人権殺戮の血の海

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財務省の消費税大作戦

Otahiroko01 財務省は、日本が抱える800兆円を超える国債発行残高(国の借金)によって、国家が危機的状況にあると言い、さらに、団塊の世代への年金需給が始まる2011年までに国の財政を健全化し(プライマリーバランスの黒字化)、歳出削減によって国債残高を減らすように方向づけないと、大変なことになる、と訴える。
首相直轄の諮問機関である経済財政諮問会議は、「骨太の方針2006」および「同2007」において、「小泉内閣の構造改革と財政健全化への取り組みを堅持し、経済、財政一体改革を行い、先進国中最悪の水準にある長期債務残高を改善するために早急に財政再建への具体的改革を前進させる必要がある」と財政再建の議論を主導する。

その財務省の本当の目的は「消費税増税」であり、悲願である大型安定財源の確保である。財務省にとって消費税増税は、1994年の細川内閣の「福祉目的税」や1997年の橋本内閣での消費税率アップなどで失敗しているため、今回の大幅増税に向けては長い歳月をかけて環境整備と世論誘導を企てている。

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【 消費税導入までの大蔵省の苦闘史 】

1970年代初頭からヨーロッパ諸国へ導入された「付加価値税」は、当時から日本の政策当事者にも注目されていた。
大蔵省(現財務省)が導入を目指した「一般消費税」の試案は、1978年の政府税制調査会でまとめられ、1979年導入を巡って議論されてきた。しかし、1978年に発足した大平内閣は当初、歳出削減を優先するスタンスを取って、早期導入に消極的な態度を見せた。その後、国際通貨危機、オイルショックによる財政危機を背景に、一般消費税導入の論議が高まり、大平内閣は赤字国債解消を目的とする消費税導入を掲げて選挙に臨んだが、世論・野党のみならず、自民党内からの強い批判も出て大敗する。

大平首相の急死後、政権を引継いで1980年にスタートした鈴木善幸内閣では、完全に緊縮型の財政運営となった。公債の発行減と公共投資の減少のために、新幹線などの大型公共投資は実施を凍結され、またゼロシーリングの予算編成によって、あらゆる歳出が節減の対象になった。実は、これは世間が一般消費税導入に対して、「政府支出に無駄が多いのに増税とは何事か」と強く反発したことを受けて、大蔵省が仕掛けた環境整備の一環であった。
82年には、鈴木首相は「財政事情非常事態」を宣言し、財政破綻によって明日にでも日本が潰れるかのような危機感を国民に与えた。(当時の国債の発行残高はわずか100兆円であり、GDP比はたったの36%であった。今から考えれば、超健全財政であったにもかかわらず・・・。)

1982年に発足した中曽根内閣は「増税なき財政再建」を掲げたが、財源補填のために法人税増税を行うことによって、かえって経済団体に付加価値税に注意を向けさせることに成功した。そのような世論の変化を踏まえ、売上税関連法案の国会提出に至るが、社会、公明、民社、社民連の野党4党が「売上税粉砕等闘争協議会(粉闘協)」を結成し、院外でも労働団体との共闘体制をとったため、これも廃案に追い込まれた。

31987年に発足した竹下内閣は、中曽根内閣の売上税導入失敗を教訓に、高齢化社会に おける福祉財源という新しい名目のもとに消費税導入を目指した。
88年6月末に、自民党税調の「税制抜本改革大綱」を土台にして発表された消費税構想は、基本的には売上税の仕組みと大差あるものではなかったが、自民党の巧みな業界団体への工作と締めつけによって、これらの業界の反対運動は加熱することがなかった。党税調は、2ヶ月間に、のべ338の業界団体から意見聴取をおこない、納税業者の枠を狭めたり、所得の把握がし難くくなるような配慮を凝らしたりするなどして、巧みに業界や中小零細業者の反対論を分断した。また、業界団体への締めつけも強められた。こうした自民党や政府の入念な工作と戦術で、大半の業界団体は非課税措置の優遇を求める条件闘争の立場に立った。流通、中小業者を中心に反対運動はあったが、全体としては売上税闘争の高揚からは程遠いものにとどまった。
一方、野党各党は、88年の臨時国会では共闘体制を組むことができず、一部修正をかちとっただけで消費税導入を許すことになった。労働各団体は、労働戦線統一への思惑もあって、こうした野党間の足並みの乱れに有効な対処ができなかった。連合は、消費税反対、不公平税制の是正という点では一致していたが、金属労協グループのように直間比率の見直しに積極的な姿勢をとり、消費税を歓迎する動きもあった。

こうして、1989年、竹下政権下で、消費税は導入されるが、その不人気は、消費税導入とほぼ時を同じくして政治問題化したリクルート事件とあいまって、同年夏の参院選において、自民党が過半数割れを喫する一因となった。

政府、大蔵省は、10年間を掛けて「日本の財政は危機だ」「財政破綻は近い」という危機感を煽る宣伝を行い、組織的なプロパガンダで財政危機を唱えた。当時の財政は今から見れば超健全であり、全く問題はなかったわけだから、世間のほとんど全部の人々が騙されて、消費税の導入のための世論が作り上げられたことになる。
そこに至るまでには、個人や法人の直接税である所得税が限界まで引き上げられ、大型公共事業が凍結され、最後は、個別に業界団体や労働団体が分断され、消費税反対闘争の盛り上がりが押さえられた。こうした消費税導入までの苦闘は、今、その消費税税率の大幅アップ作戦で活かされようとしている。

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【 消費税増税への財務省の作戦 】

Zaimusho02 1998年の小渕政権の時に発行された巨額の国債の償還が始まる2008年問題、団塊の世代が社会福祉費の支払い対象に入ってくる2010年問題など、日本の財政再建の前には大きな壁がそびえ立っている。財務省は、これらを乗り越えるには消費税の大幅増税しかない、と考えている。
一方、細川連立政権や橋本政権での「段階的な引き上げ」の失敗を踏まえて、一気に大幅引き上げするためにはその下地作り、環境作りがいかに重要かも正しく認識している。そして、その布石は小泉政権の時から着々と打たれてきた。

「改革なくして成長無し」「痛みをともなう改革」は、最終的に財務省が目論む消費税税率の大幅アップへのロードマップとなっている。
財政再建には消費税率の引き上げが不可欠だと承知しながら、小泉元首相は在任中の消費税率引き上げを封印してきた。小泉政権下で行われた定率減税廃止、医療費負担増、住民税改訂、所得控除の縮小または廃止、など次々と打ち出される国民負担増は、いずれ消費税税率アップが議論に乗った時に、政府側が取引材料に使うことが出来る。また、「消費税を上げないと、国民の生活がどんどん厳しいものになって行きますよ」、という脅迫にもなっている。
(そもそも、「国の歳出の4割を占める」と誇張して伝えられる社会保障費も、特別会計を含めた国の連結ベースの歳出に対しては1割に満たないし、その増加率も1%をキープしている。ことさら目を吊り上げて個人負担増を推し進めてきたのは、歳出削減以外の別の目的があると考えられて当然であろう。)

「骨太の方針2005」以降、「財政再建が出来なければ借金が雪だるま式に膨れて、財政破綻を回避できても次の世代が満足な行政サービスを受けられず惨憺たる世の中になる」と財務省は言う。そのような財政再建キャンペーンは、消費税導入時の82年から始まって実に25年間もの間途切れることなくずっと行われてきた。現実に、この間も公債が発行され続けているのだから、借金は増え続けている。しかし、もし「財政事情非常事態宣言」や「財政再建キャンペーン」の唄い文句が正しいのなら、日本の財政はとっくの昔に破綻していなくてはならないはずだ。
そうかと思うと、財政の危機を唱える一方で、「テロ特措法」でのインド洋での有志連合軍の艦船への燃料の無料提供、イラク復興支援経済協力費として1188億円の補正予算(平成16年度)、7000億円超の在日米軍移転費用負担など、財政破綻に瀕している国の支出とは思えない大盤振る舞いが続く。

政府、自民党は民主党が主張する「増税なき財政改革」を荒唐無稽と笑うが、「消費税税率アップあり」で進められている現在の「構造改革」こそ、国民の目を欺こうとする財務省の大作戦であることは、見抜かれている。やはり、財務省官僚と癒着していない政党に政権を取ってもらって、国民の目線で特別会計などこれまで隠されてきた国の財政に切り込んでいかないと、国民の生活が大変なことになってしまう。

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