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文明の黙示録(6)

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                   第一章 帝国の興亡 (2)

                   【 1914年 アントワープ 】

0001_2ベルギーの アントワープは、北海につながるスヘルデ川の右岸に位置する世界最大級の港のひとつであり、ヨーロッパではロッテルダムに次ぐ港である。ダイヤモンド産業の中心地として知られ、ダイヤモンド職人が集まり、カットや研磨の高い技術で、世界のダイヤモンドセンターとしてのアントワープの地位は確実なものになっている。

1899年、南アのオランダ系移民の末裔であるボーア人居住地区にダイヤと金が大量に埋蔵されていることが分かると、英国は戦争を仕掛けてその鉱山を獲得、ロスチャイルド財閥の支援を受けたユダヤ人セシル・ローズはデビアス鉱山会社を設立し、南アフリカのダイヤを独占することに成功した。
ダイヤモンドの採掘法はパイプ鉱山法と言って、地面に縦穴を掘り、必要な深さに達したら、そこから横に掘り進める方式だった。キンバリー鉱山のビッグホールと呼ばれる採掘穴は深さ1200メートルに達し、人間が掘ったもっとも深い穴と言われている。熱くじめじめした地中でダイヤ掘りの危険な作業を強いらる黒人たちが反抗しないように、彼らから人間としての誇りを奪い、奴隷的な労働に従うようにするために、南アでは「アパルトヘイト」政策が採用された。

デビアス社は、その政治力と資金力によってダイヤモンドの生産者による連合(DPA=ダイヤモンド生産者組合)を作り、生産量の調整をして価格をコントロールする仕組みを築いた。さらに生産されたダイヤは全てDTC(ダイヤモンド貿易会社)が一括で買い上げ、DTCで買い上げたダイヤはまとめてCSO(中央販売機構)という組織によって販売されるという、強力かつ強大なシステムを作り上げた。こうして、ダイヤモンドの流通はすべてデビアス社を通す仕組みが出来上がった。

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第一次世界大戦のドイツ軍の戦術は、シュリーフェン・プランと言って、戦争勃発後にベルギーを通過してフランス北東部へと侵入し、南方へと方向転換してアルザス・ロレーヌ地方においてフランス軍を包囲する計画だった。
東部国境でロシアと、西部国境でフランスと戦わなければならないドイツ軍は、防備の手薄な中立国ベルギーを通過して、短期でフランス軍を叩き、すぐさま東部戦線に戦力を集中してロシアと対戦する考えであった。この計画に従って、ドイツ軍部隊は1914年8月4日にベルギーに侵攻する。しかし、ロンドンのロスチャイルド家はベルギーに抱えるダイヤモンド・シンジケートを守る必要に迫られていたため、英国はすぐさまドイツに宣戦布告し、ヨーロッパ全土で戦争の火蓋が切られた。
ベルギーの主戦場では複数の要塞が建造されており、予想しなかった抵抗によってドイツ軍の進撃が数日間食い止められた。あらかじめ、英国とロスチャイルド家による準備が整えられていたようだ。短期決戦が不可能となったドイツ軍は、塹壕線を築いて持久戦に耐えるしかなく、その後3年間継続される西部戦線が構築される事になった。しかも、東部戦線のロシア軍はドイツの予想よりもはるかに早く国境を越えてドイツ領に侵入してきた。
シュリーフェン・プランが頓挫したドイツは、同盟国のオーストリア軍にロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた南方の軍隊を北方のロシア軍と対峙させるために再移動させざるを得なくなり、戦線が混乱してセルビア戦での苦戦の原因となった。

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0001 ドイツと同盟を結んでいたオスマントルコは、ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に参戦した。トルコはロシアのカフカス地方でロシア精鋭部隊に正面攻撃を強行して兵力の大半を失ったが、ガリポリ半島では、後にトルコ革命の指導者となるムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍が奮闘し、英国軍を相手に優勢に戦闘を進めていた。
英国は、トルコに対して反乱を起こそうとしていたアラビア遊牧民のベドウィン族を味方にするため、1915年、高等弁務官ヘンリー・マクマホンがメッカの知事フセイン・イヴン・アリに対してアラブ国家の独立を承認し、支援することを約束した(フセイン・アクマホン協定)。
1916年、カイロの英陸軍司令部に勤務していたトマス・E・ロレンスは、フセインの次男ファイサル王子の一族を指導して反乱軍を組織、そして、難攻不落といわれたトルコの要塞アカバを攻略し、1918年10月、英国軍とアラブ軍はダマスカスに入城、トルコの敗戦を決定的にした。
この間英国は同盟国フランスとの協力が不可欠であったため、1916年、先のフセイン・マクマホン協定とは相反したサイクス・ピコ協定を締結し、大戦終了後におけるアラビア半島の利権を英仏で分割する取り決めを約束していた。フランスはシリアとレバノンの支配権を、英国はパレスチナ、ヨルダン、メソポタミアを取得し、地下に眠る巨大な石油資源を取得する手はずになっていた。
アラブ国家の独立を約束した「フセイン・マクマホン協定」と、英仏でのアラブ分割を決めた「サイクス・ピコ協定」、本国ではユダヤ人国家建国を約束した「バルフォア宣言」を出すなど、三つの相反する約束を結んだ英国は、三枚舌外交と言われ、現代のパレスチナ問題のそもそもの原因として批判されている。

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アメリカ合衆国は、モンロー主義に基づきヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取り、戦争特需で好景気を謳歌したが、戦争が膠着してくると1917年の初めにドイツの潜水艦によるアメリカ客船への攻撃を口実にドイツへ宣戦布告して参戦した。
ロシアでは、戦争が長期化するにつれて兵士と民衆の不満が増大し、1917年3月、サンクトペテルブルクで起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言した。ロスチャイルド財閥に支援されたウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼ボリシェヴィキ党は、こうした混乱を、権力を獲得するために戦略的に利用し、10月に臨時政府を打倒した。ロシア帝国は消滅し、戦争からも離脱した。
日本は日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦し、中国のドイツ関連施設を攻撃、1917年にはインド洋と地中海で連合国側商船の護衛と救助活動を行った。これらの功績により、大日本帝国も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、国際連盟の常任理事国となった。

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オスマントルコ帝国の解体によって、念願のアラビアの資源利権を手にした英国だったが、スンニー派の守護者でマホメットの血統をひく王族であるハーシム家と結んだことが裏目と出る。イスラム教全体では、ハーシム家を正統とするスンニー派が圧倒的な勢力を占めていたので、全イスラム教徒を糾合するうえで有利だと判断したのだったが、アラビア半島では、イスラム原理主義思想であるワッハーブ派の教義の団結力の方が優勢だった。
Abudduleazisu0020001_2 1921年に始まったアブドゥル・アジズに率いられたワッハーブ派のサウド家とハーシム家の抗争は、最終的にサウド家が勝利し、1926年、サウド家によるアラビア半島統一が達成された。サウド家の背後では、第一次世界大戦でアラビア半島の利権争いに加われなかったアメリカが動いていた。こうして、中東最大、すなわち世界最大の埋蔵量を誇るサウジアラビアの油田地帯を、ロックフェラー資本が握ることになった。

周到な現地調査の上で、アラブ民族をまとめ上げるためにハーシム家と組むことを進言したロレンス大佐は失意の内に解任され、1935年、英国でオートバイを運転中の事故で死亡した。「アラビアのロレンス」の死については、暗殺説も今なお根強く伝えられている。

第一章(3) 【1919年 ベルサイユ】 につづく。

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