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文明の黙示録(5)

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                   第一章 帝国の興亡 (1)

                   【 1914年 サラエボ 】

1914_wwi_alliances0001 19世紀後半には、南アフリカでもエジプトでも、トルコやカリブ海でも、英国の勢力は次第に大きくなっていった。ところが遅れて高度な工業化を達成したドイツもまた、鉄血宰相オットー・ビスマルクのアフリカ進出以来、トルコや東ヨーロッパに深くまで利権を拡大しはじめ、20世紀に入ると、両国の関係は、もはや対決が避けられないほど緊迫していた。

後進新興国のドイツでは、ダイムラーとベンツによるガソリン内燃機関の発明や、電信分野で天才ジーメンス兄弟が大西洋横断通信という偉業を成し遂げ、発電機や電気鉄道でも先進技術を開発した。さらににジーメンス商会は、鉄鋼製造のための熔融炉を考案し、現代の物質文明の礎石を築いた。
ドイツの勢いはとどまるところを知らず、1903年には、ドイツ海軍が初めてディーゼルエンジンを装備した潜水艦を進水させて世界を震え上がらせた。1904年にはドイツ銀行がルーマニアの油田に進出し、ドイツ石油を設立した。石油業でも、ロスチャイルド対ロックフェラーの争いにドイツ資本のクルップが参戦し、三つ巴の利権争奪戦に発展していった。

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一般的な理解では、第一次世界大戦は、バルカン半島の複雑な民族問題によるサラエボの事件をきっかけとした、英仏と独の植民地の奪い合いの戦争だったとされる。つまり、英国とフランスが協調して南方植民地政策(南アのケープタウン、エジプトのカイロ、インドのカルカッタを抑える3C政策)を推し進めていたのに対して、ドイツが資源と植民地の再配分、再分割を要求して3B政策(ベルリン、バグダッド、ビザンチウム=コンスタンチノープル)を掲げて衝突した「帝国主義戦争」だ、というわけだ。
彼らが植民地の争奪に熱中したのには理由がある。英国が1892年に海外との一般貿易によって手にした純利益と、植民地における純利益と比較すると、後者の方が3倍も大きかった。それが20世紀に入ると、コツコツと一般貿易に精を出した場合の利益より植民地での利益の方が5倍を超えるようになっていた。この驚異的な数字を生み出したものは、鉱物(特に金とダイヤモンド)と石油資源の利益をだった。

英国の中東への進出を後押ししていたのが、イングランド銀行、ロスチャイルド家、それにべアリング商会だった。19世紀初頭にオスマントルコ帝国領土内のアラビア地域で石油が発見されたことから、彼ら金融資本家にとっても、中東の利権の獲得が重要なものとなっていた。
13世紀末にオスマン1世によって始まったオスマントルコ帝国は、最大版図は東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る巨大帝国であったが、すでに広大な領土を統治する国力はなくなっており、この古い帝国の解体による利権獲得が国際金融資本家たちの狙いであった。その前には、利権がまともにぶつかる新興産業資本を持つドイツが立ちはだかり、どうしても潰さなければならない相手になっていた。

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0001_2 この頃、世界の歴史を変えるもうひとつの大きな動きが始まる。ヨーロッパに興ったシオニズム運動と、ユダヤ人のパレスチナ入植開始である。
19世紀後半、帝政ロシアにおける東欧ユダヤ人の虐殺(ボグロム)に端を発するユダヤ人の大移動に対し、彼らをこの迫害と離散から救うために東欧の社会主義学者達が「ユダヤ人国家を建設する」という「シオニズム」を理論化し、パレスチナ入植促進委員会が設立され最初の入植が行われた。パレスチナに入植したユダヤ人を支援したのは、ユダヤ系財閥のロスチャイルドだった。

パリ・ロスチャイルド家のエドモン・ド・ロスチャイルドは、1882年、最初のリション入植者への援助をはじめた。この地は、現在はイスラエル農業の中心地の一つだが、当時は水不足に悩まされ、農作は至難だった。エドモンは技術者とボーリング機械を現地に送り、総経費2万5千フランの資金を投じて地下水脈を掘り当てた。第一次パレスチナ入植ブームがあったのは1900年前後のことだが、1903年の記録によると、現在のイスラエル海岸部に点々と28の入植地が開かれていた。そのうち19まではロスチャイルドの全面的、あるいは一部支援によるもので、さらに将来のユダヤ人の町の建設のために、パリ・ロスチャイルドの資金により広大な土地が買い入れられた。
オーストリアのユダヤ人作家、テオドール・ヘルツル著の『ユダヤ人国家』が出版されると、シオニズム運動がますます勢いを増し、英国の外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアは、ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に宛てて「パレスチナにユダヤ人国家をつくる案件のための覚書」を送った(1917年)。後に「バルフォア宣言」として、現代のパレスチナ問題の遠因と評される問題の書簡だが、当時英国の政界上層部が、いかにロスチャイルド一族を重視してかが窺われる。

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オスマントルコの勢力がまだ残っていたアラビア地域で、英国は周到な諜報活動を行った。アラブ民族の間に存在するオスマントルコへの反感を利用することにより、英国は反乱分子として英国側の利益に添って動く現地人を見出すと、彼らに積極的に教育を施し、旧体制を倒す正当性を植えつけた。
英国人は人類学者、考古学者等からなるチ-ムをつくり、中東のすみずみまで旅して回った。彼らは、それぞれの地域の実力者、住民の考え方や不満を探り、詳細な記録を集めた。その作業の過程で、優秀とおぼしき若者を集めると、将来のために教育し、中には、オックスフォードゃケンブリッジ大学に送られて学問を修める者も出た。

Te_lawrence0001_2 1913年、約束の地「イスラエル」建国のために荒地と格闘するユダヤ人入植者の姿を見つめる一人の英国人青年の姿がシナイ半島にあった。
25歳のウェールズ生まれのこの青年は、トーマス・エドワード・ロレンスといった。ロレンスは母への手紙で、パレスチナがローマ時代の繁栄を取り戻すには「ユダヤ人が耕作すれば、それも早ければ早いほど万事がうまくいく」と書き送っている。それほど、熱心に働くユダヤ人入植者たちの姿が印象に残ったようだ。
ロレンスは、1907年にオックスフォード大学ジーザス・カレッジへ進学し、オックスフォード在学中から中近東を訪れてレバノンの十字軍遺跡などを調査している。1911年の卒業後も、在学時代の恩師にあたるデービット・ホガース博士とともに大英博物館の調査隊に参加してトルコへ渡っており、若い頃からアラブ人と接触し、アラビア語も習得していた。この時、ホーガス博士は外務省管轄下のアラブ局の局長になっていて、ロレンスも英国特命機関の諜報員として、アラビア半島を周ってオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務に当たっていたと考えられている。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロレンスはカイロの陸軍情報部に転属になり、「アラビアのロレンス」として今日に伝えられる大活躍をする。

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その大戦の口火を切ったのは、サラエボの凶弾だった。1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエボを視察中に、セルビア人の青年ガブリロ・プリンチプによって暗殺された。事件の背後にセルビアの政治勢力があると見るオーストリア・ハンガリー帝国は、セルビアに最後通牒を突きつけた。このころには、英仏露の三国協商と、独墺伊の三国同盟の大きな枠組みに、それぞれ複雑に小さな安全保障条約が絡まっていたため、この事件をきっかけとして連鎖的に各国が戦端を開いて、第一次世界大戦が勃発した。

第一章(2) 【1914年 アントワープ】 につづく。

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