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文明の黙示録(1)

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                    序章 (1)

             【 1870年 クリーブランド 】

01 アメリカ5大湖のひとつ、エリー湖の南に位置するクリーブランドは、カヤホガ川の河口に位置し、それに沿うエリー運河とセントローレンス運河の中継点という、交通の要所として発達してきた。特に、エリー運河はハドソン川につながっていて、19世紀半ばまではニューヨーク州の州都アルバニーまでの物資運送の動脈となっていた。鉄道がまだ普及していない時代は、運河輸送が最も重要であった。
クリーブランドの冬は厳しく、「レイクエフェクト」と呼ばれる北風によって、気温が零下20度以下となることもある。長い厳寒の冬に運河が凍結することが、この時代の人々の大きな悩みであった。

1853年、クリーブランドの南のストロングビルという小さな田舎町に、ある家族が移り住んできた。父親のビルは、怪しげな健康薬品や健康食品を売っていた上に、だらしのない性格で女ぐせも悪く、町での評判は良くなかった。一方、母親のエリザは敬虔なバプティスト教徒で、引っ越してきたその日から教会へ通うことを怠らなかった。
長男のジョンは地元の商業専門学校に入学したが、父に似ずに優秀な頭脳を持っていて、複式簿記や商法の授業では学年一の成績を修めた。ジョンは母親譲りのまじめな性格で、貧乏も苦にせず、一生懸命勉強に励んだ。商業学校を卒業したジョンは、16歳で地元の農業商社に勤め、経理を中心に会社の経営に関わる仕事も任されるようになっていった。

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この頃のアメリカ合衆国は、南部と北部で経済、社会、政治的な違いによる摩擦が拡大していて、1860年11月の大統領選挙で奴隷制に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選すると、12月にはサウスカロライナ州が早くも連邦からの脱退を宣言、翌1861年にはミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も連邦からの脱退を宣言し、2月4日には7州でアメリカ連合国を設立した。3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に連合国を結成した南軍が、連邦のサムター要塞を砲撃して南北戦争の戦端が開かれた。
0001当初、短期間で決着がつくと考えていたリンカーンの予想に反して、南軍の戦意は高く、 1864年の夏には、南軍の一部隊は連邦首都ワシントンD.C.にまで迫った。しかし、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになり、新たに北軍総司令官に就任したグラントによって北軍の戦線が立て直されると、1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落し、南北戦争は終了した。

南北戦争が終わって、町には平和が訪れたが、ジョンはオハイオの農業の将来は明るくない、と感じていた。というのは、南北戦争の最中にカリフォルニアで金鉱が多数発見されると、鉄道網が急速に広がっていき、いずれ西部の肥沃な農業地域からの農作物が、鉄道によって直接東海岸に送られる日が来ると分かっていた。そうなると、オハイオで盛んな小麦の製粉工場は農産地の周辺に移ってしまうし、運河輸送の中継地としてのクリーブランドの役割も少なくなるだろう。
そこで、ジョンは1863年に、エクセルシア精油会社の共同経営者へ転身する。1859年にペンシルベニア州西部で油田が発見されて以来、そのオイルクリーク周辺で相次いで油田が掘削されて、オイルラッシュと言われるほどになっていたので、中西部で産出された石油をオハイオに集めてきて、精製した灯油を東海岸の消費地に運ぶビジネスは、今後きっと発展するだろうと思われた。ジョンの、商流を大きなビジョンで捕らえるビジネス・センスの高さは、すでにこの頃から発揮されていたのだ。

この時代の石油は、暖房用よりも照明(ランプ)用としての用途が大きく、その為に精製加工が必要だった。やがてドイツの若き天才二人がガソリン内燃機関を完成させると、ガソリン燃料用としての石油の価値は飛躍的に高くなるが、ジョンはまだそのことを知らなかった。

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その頃、そのドイツの二人の天才は、偶然にも南西部のバーデン大公国でガソリンで動く内燃機関の研究に没頭していた。ハイルブロン市のゴットリープ・ヴィルヘルム・ダイムラーと、カールスルーエ市のカール・フリードリッヒ・ベンツである。彼らが自動車の動力になるガソリンエンジンの最初の実用品を完成させるのは、あと10年ほど先になる。
ダイムラーとベンツがガソリンを燃料とする小型内燃機関の開発を急いだのは、この頃急速に工業化が進んでいたドイツが、工業分野で先行する英仏に対抗して、領土拡大するために必要な交通運送手段に使用するためだった。

18世紀に産業革命で工業化が進んだ英国は、海外に新しい市場と原料の供給地を求め、中近東~アジアの植民地拡大を進めていた。その中心となる英領インドと本国との交通の利便を高めるためには、地中海─紅海を結ぶ運河が何としても必要だった。

Suez0001 ナイルと紅海を結ぶ運河は、すでに紀元前2000年頃の古代エジプト時代に造られていたと言われている。近代に入ってからも、東方貿易を行ったヴェネツィア商人やルイ14世、ナポレオンがエジプトを貫通する運河の構想している。中でもナポレオンは、エジプト遠征に同行させた学術調査団に実際に測量をさせたが、調査団の出した結論は、紅海と地中海の水位差が10mに及ぶため工事は無理であるというものだった。
ところが実際にはその調査結果は誤りであり、実際の水位差は1~2mにすぎず、運河の建設は可能だったのである。そのことに気づいたフランスの外交官フェルナンド・ド・レセップスは、1854年にスエズ運河建設の許可をエジプト政府から獲得する。長さ168kmという世界最長の運河は、着工から10年をかけて1864年11月17日に開通した。スエズ運河の株式はフランス政府とエジプト政府で半分ずつ分けられたが、それでもヨーロッパから喜望峰回りの半分の距離でインドに達することができるようになったので、英国のヴィクトリア女王は喜び、1870年、レセップスをロンドンに招いて勲章を授けた。
しかし、主にスエズ運河を利用する船は、毎年英国船が一番多かったので、英国は運河保有会社の株を買入れるチャンスを虎視眈々と狙っていった。

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英仏独とロシアは、19世紀末には領土覇権を争って各地で様々な衝突を起こしていたが、南北戦争後の社会復興に集中しなければならないアメリカ合衆国は、1823年のモンロー宣言以来のヨーロッパとの相互不干渉の外交方針もあって、緊張が高まる海外事情に目を向けることはなかった。その間に、国内の工業化が急速に発展し、産業力が高まっていった。

Johndrockefellersen0001_2ジョンの石油精製の商売は順調だったが、彼は自分の仕事に満足していなかった。当時 の石油「精製」は単純なもので、硫酸で「洗う」だけというものだった。しかし、簡単であるがゆえに競争が激しく、品質も粗悪なものが多く消費者に迷惑を掛けていた。ジョンは、品質が安定した油を安く出荷する、という、商売の鉄則である「良いものを安く」というコンセプトで石油事業に本格的に乗り出すために、弟のウィリアムとフランクリン、パートナーたちと「スタンダードオイル精油会社」を設立する。

ジョン・デビッドソン・ロックフェラー、この時、31歳であったが、こうして設立された「スタンダードオイル」こそ、後に「帝国」と呼ばれるようになるロックフ ェラー財閥の第一歩であった。この後、アメリカ合衆国を取り巻く世界の情勢と、石油ビジネスの環境が激変することを、彼はまだ知る由もなかった。

序章(2) 【1876年 横浜】 につづく。

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