« 文明の黙示録(1) | トップページ | 文明の黙示録(3) »

文明の黙示録(2)

Photo_3

                      序章 (2)

                   【 1876年 横浜 】

0002 ロシアの寒村にユダヤ人として生まれたシャガールの「バイオリン弾き」という名画は、古代ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事をヒントに描かれている。
人気ミュージカル舞台の「屋根の上のバイオリン弾き」では、20世紀初頭の帝政ロシアの小さな村の農民の生活を軸に、アレクサンダー3世の反ユダヤ政策による「ポグロム」と呼ばれた反ユダヤ暴動や、ユダヤ人追放運動を背景した物語だ。事実、19世紀から20世紀初めにかけてロシアや東ヨーロッパでは、激しいユダヤ人迫害があり、多くのユダヤ人がアメリカや英国に移住せざるを得なかった。

ロンドン郊外に住むこの一家も、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきたユダヤ人だった。両親は、多くの移民たちがそうしたように、荷車に雑貨品を積んで売って歩く行商人として、一家の貧しい暮しを支えていた。11人の子どもの中で、下から二番目の男の子は才気煥発で、父はこの息子の将来に期待を寄せていた。
マーク(マーカス)・サミュエルが18歳の時、父は彼に、極東行きの船の三等船室の片道切符一枚を渡した。父は、自分が年をとってきているので、10人の兄弟姉妹たちのために、一家のビジネスに役立つことを旅行中に考えて欲しい、ということを彼に伝えた。
1871年、マークはロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である日本の横浜までやってきた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

地球の裏側では、オハイオ州クリーブランドでスタンダードオイル社を設立したジョン・D・ロックフェラーが、急速に発達した鉄道網を利用して、油田から原油を精製工場まで運送し、出来上がった加工油を消費地まで送る、という生産から物流までの一貫業務を確立していた。
さらにジョンは、鉄道会社と交渉して鉄道運賃の二重価格を作り、スタンダードオイルとその同盟する石油精製会社の輸送運賃を、同盟していていない会社のそれと比べて安くする仕組みを作り上げた。大手鉄道会社各社も、輸送運賃価格と輸送需要の安定確保を狙って、ジョンのスキームを受け入れた。
こうして鉄道会社と固く結んだスタンダードオイルは、クリーブランド近辺の独立系石油精製会社と同盟を広げ、更には経営権をも獲得して着々と傘下に治めていった。

価格決定権を奪われた原油採掘業者側は、連合してスタンダードオイルへの原油の供給をストップしてこれに対抗した。これは1970年代から80年代にかけてのOPEC(石油輸出国機構)が先進国の巨大石油資本に対抗した方法と同じだ。しかし、生産連合側の泣きどころは、経済的にガマンできなくなった構成員が脱落して生産を増やしてしまうことだったが、OPECの崩壊同様、ペンシルベニア州の原油採掘業者の連合も次々にスタンダードオイルの軍門に屈した。

スタンダードオイルは全米の石油精製会社を、膨大な力(鉄道網を使わせない、原料である原油を供給させない、安売り攻勢をかける等々)で次々に傘下におさめ、1877年には全米シェアの90%を獲得した。さらにスタンダードオイルは、新たに現れた新しい石油輸送手段である「パイプ・ライン」も、株式買占めなどの方法で支配する一方、石油の「小売部門」も傘下に治めていった。
こうして、原油産出~原油輸送~石油精製~石油製品輸送~小売り、という石油にかかわる全部門の垂直統合を全米で行っていき、ロックフェラー石油王国の中枢として、1882年に「スタンダードオイル・トラスト」を設立する。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

話は少し戻って、単身横浜の港に降り立ったマークのその後だが、ロンドンを出るときに持っていた彼の所持金は、父から渡された5ポンドだけだった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネで、知人も住む家もなく、英国に戻る乗船券も持たない身には、何とも心細い金額だった。
マークは、とりあえず湘南の海岸のつぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。ある日、彼は日本の漁師たちが波打ち際で砂を掘っている姿に目を止めた。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝はとても美しかった。

0001 マークは、この綺麗な貝を細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。その日から彼は、せっせと貝を拾い始め、その貝を加工した商品を父のもとに送った。
ロンドンでは、マークの送った貝殻細工の商品を父が手押し車に乗せて売り歩いた。当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。

やがて父は手押し車の行商をやめて、小さな一軒の商店を開いた。評判が評判を呼んで客足が増え、やがて父はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、高級住宅街のあるウエストエンドへ移すなど、この貝殻細工をもとにした商売は、どんどん発展していった。

この頃、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の完成により、ヨーロッパとアジアの航海日数が格段に短縮されため、国際貿易はますます活発になっていた。
マークは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類を英国に輸出する商売を始めた。輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

英領インドを中心にアジア地域一帯に広大な植民地を持つ英国にとって、1869年のスエズ運河完成による新航路は、航海日数の短縮というメリットがある反面、高額の通行料を支払わなければならない上に、フランス政府とエジプト政府が運河会社を所有していたため、安全保障の面でも問題があった。
1875年11月14日の夕刻、英国首相ベンジャミン・ディズレーリは、ユダヤ人の大富豪ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド邸で主人のライオネルと夕食をともにしていた。そこへ召使が一通の電報をもってきた。それは、財政が困窮していたエジプト政府がスエズ運河の株を売り出そうとしている、という極秘情報であった。価格は1億フラン(400万ポンド)だという。
ロスチャイルド家は、世界中に情報ネットワークを張りめぐらせていて、時には政府や諜報機関も得られないような情報を持っていることさえある。

首相は逡巡することなく「よし、買おう」と言うと、その買収の費用全額をロスチャイルド家から借金することに決めた。
「担保は?」と聞くライオネルにディズレーリは「英国政府が担保です。」と答えた。ライオネルは「よろしい、ご用立てしましょう」と簡単に答えると、翌日には400万ポンドがきっちりとディズレーリの元に届けられた。そして48時間後には、エジプト所有のスエズ運河株式会社の株が英国政府に渡った。ただし、ロスチャイルドの手数料が2.5%(10万ポンド)とされていること、また5%の利子が加算されていたことが判明すると、高額の手数料と利子をめぐって英国議会は紛糾した。それでも、女王の喜びの言葉と、民衆の歓呼がすべての異議を消し去った。
英国にとって、西アジアからインドにかけての帝国主義的戦略において、スエズ運河の管理に圧倒的な発言権を得たことは非常に大きな価値があったことが、この後の歴史によって証明されることになる。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

1883年にドイツのダイムラーとベンツが、それぞれ個別にガソリン・エンジンを発明すると、それまで主に石炭を燃料とする蒸気自動車であったものが、石油(ガソリン)を燃料とする自動車となり、自動車は急速な進歩をとげていくことになる。また、1893年にはドイツのルドルフ・ディーゼルによって軽油で動くディーゼル・エンジンが発明され、船舶・鉄道・トラックなどの大型輸送機関の動力に用いられると、交通機関に革命的変化がもたらされた。
このように、世界中のビジネスマンのあいだでは、石油が非常に大きな話題になっていった。石油の需要は確実に増加しつつあり、アメリカ合衆国ではロックフェラーが石油王への道を突き進んでいたし、帝政ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。

Royal_dutch_shell_logo マークも石油ビジネスに興味を抱き、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本にインドネシア産の石油を売り込み始めた。
ところが、マークの石油ビジネスが順調に拡大して、やがて英国のアジア艦隊に石油を供給するようになると、マークの会社を確固たる英国企業とするために、英国人の経営陣に会社を譲るようにとの圧力がかかった。マークは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。そしてもうひとつは、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。若き日に、湘南の海岸でひとりで貝殻を拾ったビジネスマン人生の第一歩を忘れない、というマークの思いだった。そして、新しい会社「シェル石油」は、貝殻を描いた商標で世界中で広く知られるようになる。

ところで、マークのインドネシアでの石油買い付けに協力したのが、ロイヤル・ダッチ石油会社だった。ロスチャイルド財閥が支援するロイヤル・ダッチは、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の石油開発を進めており、そこで産出した石油の販売を、日本を中心にアジアに広い販売地盤をもつシェルに委託した。
ロスチャイルドは、このオランダと英国の2社の合併を推進し、1902年にロイヤルダッチシェル社を発足させた。このロイヤルダッチシェルが、やがて世界の石油資源を巡って、アメリカのロックフェラー財閥と角逐することになる。

序章(3) 【1879年 バクー】 につづく。

Banner_01

←宜しければ、応援クリックお願いします。

人気blogランキングへ

|

« 文明の黙示録(1) | トップページ | 文明の黙示録(3) »

「経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/135811/8495033

この記事へのトラックバック一覧です: 文明の黙示録(2):

« 文明の黙示録(1) | トップページ | 文明の黙示録(3) »