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文明の黙示録(31)

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                   第三章 帝国の崩壊 (5)

                   【 2007年 バリ 】

Dobai01 20世紀は人類にとって、空前の発展の世紀であった。その前の世紀に始まっていた産業革命は「蒸気機関」という動力を生み、工業社会を拡大したが、20世紀に入ってからは、石油製品と電力によって地球的規模の経済成長がなしとげられた。一方で、20世紀の経済成長の原動力である「石油と電力」は、同時に地球の歴史にかつて無い規模での「CO2排出」をもたらした。20世紀は、電力と石油の大量消費に始まり、電力と石油の大量消費の見直しに終わる世紀、ととらえることができる。

国連機関であるWMO(世界気象機関)とUNEP(国連環境計画)が共同で設置しているIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が2001年にまとめた第三次報告によれば、2100年までに大気中のCO2濃度は540~970ppmに増大し(現在は370ppm)、地球平均気温は1.4~5.8度、海水準は9~88センチ上昇すると予想されている。これによって低地や島国の水没や、乾燥地域のいっそうの乾燥化と湿潤地域の豪雨の増大による農業生産への影響、マラリアなどの熱帯地方の感染症が広い地域への拡大、急激な変化に生態系が適応できないことによる希少種の絶滅、などが危惧されている。
2006年、気象庁のスーパーコンピューターの計算による地球温暖化の予測では、二酸化炭素濃度がこのまま上昇すれば、オホーツク海は100年後に水温が3~4度上がり、海氷が消えるという結果が出た。

CO2は現代文明においては、産業活動や自動車、冷暖房など、人びとの基本的な生活の中で不可避的に発生する。先進国には、CO2削減のための様々な技術的検討も要請されるし、また生活様式そのものへの意識の転換も求められている。しかし一方で、いま現在50億の人口を有する途上国は、今後の人口爆発、経済成長とともエネルギー消費が爆発的にのびていくと予想される。
19世紀以降、人類が築いてきた文明は、民主主義や自由主義、社会主義などのイデオロギーであり、経済と金融であり、軍事力と戦争であった。しかし、今その文明の前に現れた「環境」という大きな課題は、現在の世界システムを動揺させつつある無視できない問題となっている。そして、化石燃料の燃焼に伴う地球温暖化は、20世紀の地球的な経済成長によって生み出されているだけに、現代文明とどう両立させるか、人類の英知が試されている。

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最初に地球環境に関して国際的に討議されたのは、1972年にスウェーデンのストックホルムで開催された「国連人間環境会議」だった。この頃すでに、北欧諸国では酸性雨や環境汚染などの環境問題が顕在化し、人々の意識が高まっていた。
ストックホルム会議では、大気汚染などの公害や環境の破壊がこのまま進めば、人類は生存さえも怪しくなる、との危機感の共有を目指したが、米ソ冷戦時代であったことと、先進国がそれぞれ高度経済成長を遂げていたことから、環境への意識は高まったものの、環境保護に関する行動計画はほとんど実現しなかった。

その後、1987年には当時大問題となっていたオゾン層破壊の原因であるフロンガスを規制するモントリオール議定書が締結されるなど、地球規模環境問題を話し合うベースは少しずつできていったが、地球環境危機に国連が本格的に取り組んだのが、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた「地球サミット」であった。
地球温暖化問題が国際交渉の舞台に上がったのは80年代の終わり。1992年には、地球サミットに合わせ、気候変動枠組み条約が作られた。リオデジャネイロ会議では、かなり突っ込んだ話し合いが行われ、「先進国は2000年までに温室効果ガスの排出量を安定化させる」という条約の決議を目指したが、アメリカの猛反対によりこの条約では具体的な数値目標は掲げられなかった。

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Kyoto01 米ソ冷戦が終結し、アジアや中南米の国々が経済成長路線に入ってくると、環境問題の深刻さが浮き彫りになってきた。ここへ来て科学的な研究も進み、地球環境破壊の影響が明らかになるにつれ、先進諸国も自己都合での問題の先送りをやめて、国際的枠組みで環境保護に取り組む方向に国際政治が動かされていった。1997年の京都会議では、日本、アメリカ、EUの先進工業国にCO2削減の数値目標が掲げられ、また、アメリカの強い提案により森林の吸収源をカウントする仕組みや先進国同士で排出できる枠を取り引きする仕組みが導入された。

EUは、京都会議ではCO2削減に積極的だった。これは、1995年に環境問題に関心の高いスウェーデンやフィンランドがEUに加盟したことが影響しているが、それ以外にも、CO2の排出量を取引できる制度が導入されると、エネルギー効率の悪い東欧を援助し、そこで削減した多くのCO2排出量をEU割り当ての削減排出量分に当てられるという読みがあった。(実際に2004年、EUローマ会議によって一気に10カ国がEUに加盟することになる。)
クリントン政権のアメリカもまた強気だった。米民主党の大きな支持母体となりつつあった環境団体を強く意識し、削減実施を強調し、京都会議ではCO2削減に消極的だったロシアも説得した。アメリカもまた、中南米諸国と共同実施すれば、少々の割り当て削減量も達成できるだろうという読みがあった。もっとも、中南米諸国はCO2の削減を押し付けられるのを恐れて、アメリカとの共同実施には反対したが。
日本は、環境問題でイニシアチブを取りたい環境省と、経済成長の足かせになることを懸念する通産省の間で綱引きが続いたが、開催国としての面子を立てたい外務省の後押しによって6%の削減目標を受け入れた。

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ところが、2001年3月、アメリカに共和党のブッシュ政権が発足すると、ブッシュ大統領が突然京都議定書からの離脱を世界に向けて宣言した。10年の交渉の成果として作られた京都議定書を、一方的にひっ くり返すような発言に世界中からアメリカを非難する声が殺到した。アメリカが立場をひるがえしたのは、ブッシュ大統領や政権幹部とアメリカ石油メジャーとの親密な関係によるものであることは明らかだった。事実、世界最大の石油企業エクソンモービルは、ブッシュ大統領の選挙資金の大献金先であった。
日本とEUは選択に迫られた。ひとまずアメリカ抜きで京都議定書を発行するか、それとも、アメリカといっしょにもう一度ゼロから話し合いをやり直すか。EUはアメリカ抜きでも条約を発効させようと意気込んだが、ブッシュ政権とべったりの関係だった日本の小泉首相は、「アメリカを説得する」というあいまいな態度を取りつづけた。結局、世界の多くの国が参加して作った京都議定書を台無しにしたのは、日本とアメリカだった。

2007年6月、ドイツのハイリゲンダムで開かれた主要国首脳サミット(G8サミット)では、「世界経済」「アフリカ」を主要議題として議論され、世界経済では、特に気候変動が大きなテーマとなった。 今日現在、温室効果ガス削減の枠組みとして京都議定書があるが、最大の排出国であるアメリカは京都議定書から離脱しており、中国やインドなどの主要排出国には削減義務が課されていない。そのため、サミットでは、ポスト京都議定書の新しい枠組みづくりが重要な課題として取り上げられた。
排出削減の新しい目標を定めるにあたっては、主要排出国を含めて、2050年までに地球規模での排出量を少なくとも半減させるという日本などの決定を真剣に検討するとの内容が、首脳文書に盛り込まれた。さらに、全主要排出国を含む2013年以降(ポスト京都議定書)の包括的な合意の達成に向け、2007年12月にインドネシアのバリで開催される国連気候変動会議に参加するよう、すべての締約国に呼びかけることも合意された。

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Earth01 人類はいま文明の大きな転換期にある。現在の地球環境の問題を放置して、このままアメリカ型の大量生産、大量消費文明を続けていくと、2050~2070 年頃には現代文明は終焉を迎える、という指摘もある。地球環境問題の解決は、市場原理主義をどう超克できるか、国際的な企業資本の求める利潤とどう折り合いをつけるか、にかかっている。
自然と人間が調和した共存型のライフスタイルや世界観による21世紀の新しい文明を、私たちは作り上げることができるだろうか。

                     【  完  】

長らくご愛読いただきましてありがとうございました。「文明の黙示録」は、今回で完結いたします。石油文明と言われる現代世界が生み出した国際石油資本や国際金融資本が、平和においても戦争においても国際政治で大きな役割を果たすようになった流れを浮き彫りにして、低迷する今日の日本の病根を明らかにする一方で、これらからの日本の針路を見出したい、と考えて1世紀少々の時間を俯瞰してきました。本来は各トピックスの出典を明らかにすべきですが、多くの資料に手を広げすぎてしまい、まとめきれなくなってしまいましたことをご容赦下さい。(筆者)

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文明の黙示録(30)

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                   第三章 帝国の崩壊 (4)

                   【 2005年 マルデルプラタ 】

Stop_bush01 2005年11月、アルゼンチンのマルデルプラタ市に米州34カ国(除くキューバ)の首脳レベルが集まり、第4回米州首脳会議(米州サミット)が開催されたが、FTAA(米州自由貿易地域)をめぐってアメリカと主要南米諸国(ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン)とが対立し、結果は、交渉が事実上凍結され、FTAAは完全に頓挫した。

冷戦下でアメリカは、この地域に誕生した社会主義政権にたびたび介入、軍事力で政権を転覆し、IMF(世界通貨基金)や世界銀行などを通じて経済の構造改革を求めてきた。しかし、そうしたアメリカの介入が、軍事独裁政権を生み出し、思想の弾圧や虐殺などが繰りかえされ、貧困をもたらした。ラテンアメリカの国々は、経済再建のため、1970年代から90年代にかけてアメリカ主導の規制緩和、民営化、外資の導入といった新自由主義経済を受け入れてきたが、その結果は、世界最悪と言われる「格差社会」が現出したのである。
アメリカが進めようとしているFTAA構想では、関税を撤廃し、多国籍企業により大きな自由を与えることで経済を活性化させようとするものだが、その実態はアメリカの大手資本による市場での利益収奪に他ならない、と理解しているブラジルを始めとする左派政権の国々は、団結してアメリカが主導する南北アメリカの政治、経済の統合にノーを突きつけた。

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01 新自由主義にもとづく経済統合は、FTAAに先行してアメリカ、カナダ、メキシコを統合する北米自由貿易地域(NAFTA)が1994年から実施に移されたが、そこでも貧富の差が拡大し、特にメキシコでは労働者、農民、先住民の生活破壊が顕著に現れた。NAFTAによるメキシコ経済と人民生活の破壊と荒廃を見せつけられたラテンアメリカ諸国では、1990年代後半から反新自由主義の闘いが大きく高揚しはじめ、2000年代に入って大きなうねりとなり、新自由主義にはっきりと反対する政権が次々と登場するまでになったのだ。
ブッシュ大統領は、米州首脳会議での敗北を悟って、最終文書が出される前にアルゼンチンを早々に立ち去ったが、その後訪れたブラジル、パナマでも激しい市民の抗議行動に遭い、パナマではブッシュの肖像が焼かれた。

世界の富をアメリカに吸い取るためのグローバリゼーションと新自由主義に反対するラテンアメリカ諸国は、アメリカ主導の米州サミットに対抗して、キューバも参加する「人民サミット(People's Summit of the America)」を組織しているが、今回も第4回米州サミットに対置して、11月1日から第3回米州人民サミットを開催し、「アメリカによる中南米への帝国主義的・新植民地主義的・債務奴隷的支配に対する“ノー”」というスローガンを打ち出した。

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1980~90年代の東アジアの多くの国は、「奇跡の経済発展」と呼ばれる急激な経済成長を遂げた。韓国、台湾などのNIESに続いて、ASEANも高度成長への離陸を開始し、21世紀は「アジアの時代の到来」と期待されていた。
しかし、1985年のプラザ合意によって日本が大幅な円高ドル安を受け入れ、アメリカの巨額財政赤字の解消政策に組み込まれた結果、東アジア諸国は、貿易、投資の自由化をハイテンポで進めることになった。円高で輸出競争力を失った日本企業が、生産拠点を東アジアに移すことになり、東アジア各国は、外資(特に日本企業)を受け入れて自国経済発展のテコにしようとしたのである。
その際、自国の通貨をドルに連動させる「ドル・ペッグ制」というシステムを採用して、日本企業に通貨不安を与えないようにしたことがアダとなり、アジアの通貨市場に世界中からドル資金が流入して、ジョージ・ソロスに代表されるような大規模ヘッジファンドに市場を食い荒らされてしまった。1997年のアジア通貨危機である。97年7月、タイの通貨バーツの暴落に始まった通貨の暴落は、マレーシア、インドネシア、韓国へと飛び火し、多くの現地企業が倒産、工場は閉鎖、操業中止に追い込まれ、町には失業者があふれ、人々の生活は急激に苦しくなった。

そもそもの原因は、アメリカの経済学者がそそのかすグローバリゼーションを信じ、アジア各国が金融市場を自由化し、外資進出企業に対する優遇措置と資本取引に対する規制緩和を進めた結果、ヘッジファンドや欧米の投資銀行などがぞくぞくと乗り込んできたのだ。最初は、大量の資金が世界中から集まりバブルが膨らむが、ひとたび資金が流出しはじめたときには、通貨当局は売りに出た自国通貨を買い取らざるをえず、経済はガタガタになり、失業者の群れと都市周辺のスラム、荒廃した農村と環境破壊だけが残った。
一方のヘッジファンドは、各国政府の通貨準備をはるかに超えた売り浴びせと暴落後の買い戻しという市場操作によって、労せずして巨万の利益を手にした。

02 アジア通貨危機の戦犯として、マレーシアのマハティール(前)首相はジョージ・ソロスを名指しで批判し、アメリカ主導のAPEC(アジア太平洋経済協力機構)をけん制しながら、アメリカの影響力を排除した形でのアジア自体の地域協力体制を強調している。
現実に、2007年9月にシドニーで行われたAPEC首脳会議は、省エネルギーの推進や森林面積の拡大といった地球温暖化対策への取組みに関する話し合いが中心となり、拘束力のない努力目標を謳った「シドニー宣言」を採択したに留まったが、それに対して、11月にシンガポールで行われた東南アジア諸国連合と日中韓3か国によるASEANプラス3首脳会議では、今後10年間の地域協力の方向性を示す「東アジア協力に関する第2共同声明」を採択、東アジア共同体実現に向けて具体的作業が始まった。東アジア諸国は、完全にアメリカを見限った。

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1992年のマーストリヒト条約締結によってヨーロッパ15カ国の地域統合を実現したEUでは、経済統合によって生まれた共通通貨「ユーロ」によって、外国貿易決算や外貨準備をドルへの依拠から転換させることに成功した。その結果、ドルペッグ制と金融自由化によって世界中を駆け回るドル資金の大量の流入によるバブルの膨張とその崩壊という、金融リスクを回避することにおおむね成功している。
さらにEUは、、より積極的にアメリカン・スタンダードに対抗する独自の価値観を確立し、アメリカと対立する主張も打ち出している。例えば1999年にシアトルで行われたWTO閣僚会議では、自由貿易に価値を置き貿易規制の撤廃を主張するアメリカに対し、EUはもっと環境基準や安全性を盛り込むことを要求した。具体的には遺伝子組替え食品や、ホルモン剤使用牛肉の輸入規制を要求している。
現在の国際貿易交渉の構図を見ると、アメリカが市場原理主義的な立場から大資本に有利なルールを主張し、EUは貿易ルールづくりの段階からさまざまな規制を残すべきだと主張して対立するという構図がある。一部の規制や市場保護を容認するEUの考え方は、資本主義の基本的なあり方としてアメリカの市場原理主義とは距離を置き、アメリカ的グローバリズムの暴走に対抗する勢力となっている。

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Abe_koizumi01 その点では、日本はいまだにアメリカへの恭順姿勢を堅固に示している。小泉政権が行った構造改革は、まさに新自由主義改革そのものであり、他国の例に違わず規制緩和で賃下げが進み、政府が「景気回復」と公表する中で家計の所得は減少し、地方を中心に市民の生活が深刻化した。日本の場合、経済全体の貯蓄が大きいために対外債務危機にはならないが、デフレ不況が深刻化し、不良債権処理を進めた銀行の貸出しも増えるどころか減少し、国債の購入が増えている(これは、90年代のラテンアメリカ諸国と共通の現象である)。
日本はアメリカからの「年次改革要望書」に基づき構造改革をしており、アメリカの資本が利益を得やすいように規制緩和や市場開放を進めているが、世界の大きな流れが新自由主義から転換する方向にあり、アメリカから距離を置く外交への転換が進んでいる中で、異質な情景となっている。
それでも、2007年7月に行われた参議院選挙では自民党と公明党の与党が大きく議席を失い、そうした政府の姿勢に国民がノーを突きつけた結果となった。日本の場合は、新自由主義を脱するためには対米輸出に依存する産業構造の転換が必要なため、大企業の利権団体である経団連も政府や霞ヶ関と組んでアメリカべったり路線を支えているが、本当の「改革」は市民の意識向上の中から生まれてくるだろう。

第三章(5) 【2007年 バリ】 につづく。

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文明の黙示録(29)

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                   第三章 帝国の崩壊 (3)

                   【 2004年 ローマ 】

Puchin02 ロシアでは、エリツイン時代にエゴール・ガイダル首相が推し進めた急進的資本主義化の下で、政財癒着による極端な企業優先政治や急激な価格自由化がハイパーインフレを招き、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と格差社会拡大を招いた。1999年に健康上の理由で引退したエリツィンに大統領代行に指名された元KGB出身のウラジミール・プーチンは、大きな政治力を持つようになった財閥企業を脱税・汚職などで追求し、企業の政治介入を排除し、企業にしっかり税金を納めさせることで国家財政を再建することに成功した。
2000年の大統領選挙で圧倒的な人気を集めて過半数の得票を受け正式に大統領となったプーチンは、愛国主義を掲げて「強いロシア」を目指すタカ派的・強権的な政治姿勢を強めた。プーチン政権は、貧富格差を拡大させた市場原理主義一辺倒のエリツィン時代の政策を転換し、企業の国営化を行い、国内にある豊富な天然資源開発を武器に、アメリカとは距離をおく外交で、ソ連時代の全体主義への回帰を強めていっている。

「強いロシア」を支えている天然ガス資源は、世界の天然ガス埋蔵量の27%を占め、ロシアは世界最大の天然ガス産出国となっている。西欧諸国は、消費する天然ガスの4分の1をロシアに頼っており、ドイツなどはアメリカから距離を置き、ロシアとの連携を強める方向に動き出している。また、9.11アメリカ同時多発テロ事件以来、アメリカ国内には中東諸国との関係を見直す動きがあり、危機感を持ったサウジアラビアはロシアに接近している。サウジアラビアは、ロシアの「イスラム諸国会議機構(OIC)」への加盟を支持し、ロシアとイスラム世界を結ぶ「非米同盟」の関係が強化されることになった。
また、ロシアは2005年には上海協力機構に加盟し、中国との関係強化も図っている。2007年8月、上海協力機構は、「平和の使命2007」という合同軍事演習を、中国新疆ウィグル自治区やロシアのウラル地方で行った。この演習はあくまで対テロのための演習という名目だが、対NATOあるいは対アメリカへの牽制と見られている。

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04 アメリカの証券会社ゴールドマン・サックス社のエコノミストが、2003 年10 月に発表した投資家向けリポートによると、2050年の国別の経済規模は、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順となり、中国が世界最大の経済大国になる、と予測されている。
共産党支配の政治体制の中で、資本主義経済の導入に成功した中国は、驚異的な勢いで経済成長を続けている。そして、その急速な経済成長に伴うエネルギーの大量消費を賄うために、世界規模の資源外交を展開している。胡錦濤国家主席は、2004年11月、ラテンアメリカ4カ国(ブラジル、アルゼンチン、チリ、キューバ)を訪問し、エネルギー資源確保の交渉を行った。2000年の中国のラテンアメリカ諸国からの輸入は50億ドル弱であったが、2004年には220億ドル程度にまで急増している。
ラテンアメリカ諸国にとっても、貿易相手国としての中国の重要性が高まっている。胡主席は、ブラジルを「戦略的パートナー」と位置づけ、今後2年間で約100億ドルを投資、貿易額も3年内に200億ドルになる、と表明した。中国は、ブラジルの豊富な資源を手に入れるために、ブラジル沖合の海底油田の共同開発と天然ガス・パイプラインの共同建設への投資を決定してる。アルゼンチンでも今後10年間で鉱業、鉄道、その他のインフラ分野で総額197億ドルを投資することで合意し、チリとは共同で銅山開発の計画を進める、と合意した。

こうした中国のラテンアメリカでの勢力拡大に対し、アメリカも神経質にならざるを得ない。特に中国がキューバやベネズエラでとの関係を深めると、アメリカの対キューバ経済制裁の効果が無意味になり、またベネズエラからアメリカへの石油輸出が低下する可能性がある。
胡主席はカストロ議長との会談で、「たんなる友人ではなく兄弟である」と述べ、経済、技術分野での協力を約束している。こうした中国の政治的影響力の拡大は、アメリカの対ラテンアメリカの外交政策を根底から覆すかもしれない。

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03 アメリカの国際法に違反したイラク戦争に反対したドイツ、フランスをはじめとする欧州連合(EU)は、対米協調を維持しつつも、アメリカ一極支配を相対化させる位置を占めてきている。2004年10月にローマで加盟国首脳らが欧州憲法条約に調印してから、EUは旧社会主義国(東ヨーロッパ)も加盟国に加え、平和的手段によって欧州大陸の統合を促進してききた。近年新しく加盟した国々も資本主義国家として急速に力をつけつつあり、それが経済ブロックとしてのEU全体の経済力を上昇させている。欧州共通通貨であるユーロの地位はますます高まり、ユーロ非加盟国における利用も拡大している。
安全保障の面でも、EUはアメリカの影響力の強いNATOから独立して新しいEU独自の軍事力を持ち、アメリカに頼らずに全世界的な軍事作戦を可能にしようという方向に向かっている。具体的には、EU諸国が共同して最新鋭軍事兵器を開発し、互いに持つ軍情報を共有することで、軍事力を強化しようという動きだ。EU諸国が開発した最新鋭戦闘機の「ユーロファイター」は、現世界でNo1の空戦戦闘力を誇り、EU軍の世界的な軍事作戦行動を可能とためのEU軍輸送航空機の大量生産も着手されている。
EUは経済領域だけでなく、外交・安全保障領域でも共通の政策を持つ単一の巨大な国際勢力となりつつあり、アメリカをパートナー、ライバルのいずれと見なすのか、21世紀の世界秩序を大きく左右するだけに、アメリカ側も楽観視していられない。

「親米的」とされるフランスのサルコジ大統領も、「地中海連合」を提唱して、東アフリカ諸国を含めた地中海地域でのフランスのプレゼンス強化をめざしているし、ドイツのメルケル政権はロシアに接近して新たな協力関係を構築しようとしている。逆に、ブッシュ大統領の盟友だった英国のブレア首相は、イラク戦争参加への国民の不満の高まりの中で退陣に追い込まれた。アングロサクソン同盟で緊密な関係にあった英国も、アメリカとの距離をとり始めている。

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中日韓3カ国と東南アジア諸国連合(ASEAN)は2007年11月20日、シンガポールで第11回「ASEANプラス3」首脳会談を開いた。ASEANプラス3協力も10周年を迎え、この間、中国の経済成長を背景に東アジア全体の経済力は高まり、国際的地位は向上し、発展の展望はさらに明るさを増した。2010年前後に東アジアの経済共同体を、2020年までには安全保障を含めた東アジア共同体を目指す、という「東アジア共同体構想」は、実現に向けての歩を早めている。
日本の福田首相も、東南アジア諸国連合との首脳会議で、貿易自由化を柱とする経済連携協定(EPA)の締結に合意した。これにより、経済面での日本とASEANとの結び付きは大きく前進すると期待されている。そもそも、「東アジア経済圏」や「東アジア共同体構想」はアメリカを疎外するものだ、と反発するアメリカに気兼ねして、東アジア共同体構想に一番消極的だったのが日本だった。そうしたアメリカの意向を受けて、小泉政権時代には靖国参拝や歴史認識問題によってアジア地域への関与を縮小させてきた。しかし、2007年7月の参議院選挙で自民党が惨敗したことで、こうしたアメリカ追従一辺倒の日本の外交路線も転換せざるを得なくなってきたわけだ。
東アジアでも共通通貨が生まれることになれば、アメリカのドルの権威はますます失墜するので、ここでもアメリカの世界秩序の戦略は見直さざるを得なくなるだろう。

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Bush41 皮肉にも、冷戦崩壊によって世界の一極支配を目指したアメリカのネオコン勢力は、アフガニスタンやイラクへの武力侵攻で失敗し、その間にロシア、中国、EUといった新しい勢力が台頭してきた。アメリカは、逆に世界の中での孤立が深刻となり、中東やラテンアメリカ地域での反米勢力の拡大を招いた。パレスチナ情勢でも、パレスチナ人民とイスラエルの対立激化など、アメリカが抑え込もうと狙った地域の不安定化はいっそう進み、アメリカ主導の「和平構想」は完全に吹き飛んでしまった。
これらを背景に、ラムズフェルド前国防相、ボルトン前国連大使、ウルフォウィッツ前世界銀行総裁、ペース参謀本部議長など、ブッシュ政権を支えたネオコン勢力の中心人物が次々とその地位を追われ、政権を去っていった。経済の面でも、クリントン政権時代にせっかく立ち直りかけた財政が、ブッシュ政権によって再び巨額の「双子の赤字」という構造問題に後戻りし、基軸通貨=ドルの相対化も進んでいる。アメリカ経済を支えてきた旺盛な消費も、その基礎となってきた住宅バブルが崩壊し、サブプライムローンによる市場の混乱でバブル崩壊寸前の状況だ。
すでに「死に体」と言われるほどの政権支持率に苦悩するブッシュ大統領は、こうして2008年一杯で任期を満了して、ホワイトハウスから去って行くことになる。

第三章(4) 【2005年 マルデルプラタ】 につづく。

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文明の黙示録(28)

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                   第三章 帝国の崩壊 (2)

                   【 2003年 バグダッド 】

Bush01 2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件直後に、「テロとの戦い」を訴えてアフガニスタンに軍事攻撃を仕掛けたブッシュ大統領は、2002年初頭の一般教書演説において「悪の枢軸」として、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国を名指しで非難した。特にイラクに対しては、大量破壊兵器を保持しているとして、政府関連施設などの国際機関による査察を繰り返し要求、イラクはこれに応じて4年ぶりに全面査察が行われたが、アメリカは納得のいく結果ではなかったとさらに非難した。
2003年3月17日、ブッシュ大統領はテレビ演説でイラクに対して軍事攻撃の最後通牒を行い、2日後の3月19日、アメリカ軍は英国軍などと共に「イラクの自由作戦」に則って、イラク空爆を開始した。

国連では、アメリカのイラク攻撃に対してフランス、ドイツ、ロシア、中華人民共和国などの常任理事国が強硬に反対を表明した。アメリカの行動を支持した英国でも、ブレア政権の閣僚であるクック枢密院議長兼下院院内総務、ハント保健担当、デナム内務担当両政務次官などが相次いで辞任して、ブレア首相に抗議した。
日本の小泉首相は、イラクが大量破壊兵器を持っている、というアメリカの主張を鵜呑みにして、全面的な支持を表明した。

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イラクのサダム・フセイン政権排除は、右派シンクタンクのPNAC(新しいアメリカの世紀プロジェクト)がクリントン政権に対して武力攻撃を提唱して以来、アメリカのネオコンにとっては極めて優先順位の高い政策課題になっていた。特に、チェイニー副大統領はCIAに熱心にイラク情報を提出させて、世間が納得するような「イラクの脅威」を探し出そうとしていた。
2001年暮れに、イラクがアフリカのニジェールからウランを入手しようとしている、との報告があると、副大統領の事務所はただちにその確認を求め、2002年2月に調査のためにニジェールに派遣されたジョセフ・ウィルソンは、調査の結果としてそのような疑惑は根拠がない、と報告した。
ところが、ブッシュ政権は2002年夏には対イラク開戦を決定し、イラクがアルカイダを支援して9.11テロに間接的に関わっていたこと、大量破壊兵器を開発していること、アルカイダに大量破壊兵器を輸出する可能性が高いこと、を強調して発表した。

ジョセフは2003年7月6日付けのニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報が捻じ曲げられている、と寄稿してホワイトハウスの「陰謀」を暴露した。だが、その直後の7月14日、ワシントンの政治コラムニストであるロバート・ノバクが、ジョセフの妻はCIAエージェントである、と報じた。CIAエージェントの身分の暴露は、アメリカ合衆国の法律である「情報部員身分保護法」により禁止されている。
ジョセフは、妻がCIAの秘密工作員であることを明らかにしたのはホワイトハウスによる報復であると述べ、テレビなどのメディアを通じその違法性を訴えた。こうして事態は「CIA秘密工作員身分漏洩事件」へと発展し、ブッシュ政権を揺るがす大スキャンダルになっていった。

Photo 2003年12月30日、司法省のパトリック・フィッツジェラルド特別検察官は、司法長官命令により、この事件解明のために捜査を開始したが、政府高官らの圧力や嫌がらせ、マスコミの情報源の秘匿などの圧力によって捜査は非常に難航した。この捜査の最中の2005年7月18日には、フィッツジェラルド暗殺未遂事件も起きた。だが、フィッツジェラルドは22ヵ月に及び取り調べを行い、FBIや大陪審に対する偽証などに焦点を絞り、遂に事件を立件した。
連邦大陪審は2005年10月28日、リチャード・チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーを偽証、嘘誓、司法妨害の罪で起訴した。リビーはすべての責任を被り、副大統領補佐官の職を辞したため、チェイニー副大統領とブッシュ大統領の次席補佐官カール・ローブについての起訴は見送られた。

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2004年10月6日、ドルファー中央情報局(CIA)特別顧問を団長とする米政府大量破壊兵器調査団は、上院軍事委員会への報告で、ブッシュ政権がイラク戦争開戦の根拠とした大量破壊兵器に関して、「イラクには大量破壊兵器はなかった」、「開発計画もなかった」と断定した。しかもドルファー最終報告によれば、開戦前夜どころか、査察が中断された1998年の遙か以前、1991年末の段階で、すでにイラクは核兵器も、生物兵器も、化学兵器も保有していなかったこと、計画も放棄されたことが明らかになった。
戦争直前の国連安保理やIAEA等の国連機関、国際世論の圧倒的多数がイラクの大量破壊兵器の保有に懐疑的で、査察継続を主張していたことが完全に正しかったことが確定された。

2007年5月10日、英国のブレア首相は任期を3年も残して早期退陣した。発足時には70%を超えていたブレア政権の支持率は、20%台にまで凋落していた。ブレア政権の最大の失政はイラク参戦だった。国際法に違反して対イラク戦争を実施したアメリカを全面的に支持していたブレア首相も、イラク参戦の理由にしたフセイン政権の大量破壊兵器については「(情報が)間違っていた」と謝罪した。
「フセインが見つからないからといって、フセイン大統領が存在しなかった、とは言えないでしょう。同じように、大量破壊兵器が見つからないからと言ってそれらが無いとは言えない」、と強弁した日本の小泉首相と自公政権は、この問題にほっかむりを決め込んだ。

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イラク戦争開戦直後のアメリカ軍を中心とした有志連合軍の航空機のピンポイント爆撃と巡航ミサイル攻撃によって、イラク軍の指揮系統は早期に崩壊し、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。陸上部隊の展開も迅速で、2003年4月9日にはバグダッドに侵攻して大統領宮殿を占拠し、街の中心にあったフセイン像を引き倒した。
5月1日の「戦闘終結宣言」によって、連合軍の圧倒的勝利という姿で、イラク戦争は終わり、その後は、米国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治に移り、復興業務が行われることとなった。復興業務には米ハリバートン社、米ベクテル・インターナショナル社らアメリカの民間企業がいくつも参加し、本来は軍が行ってきた食糧や物品、軍事物資の輸送業務を行った。
イラク復興業務の民間への開放は、チェイニー副大統領らブッシュ政権閣僚の肝いりで始められたが、参入企業の多くがブッシュ政権の閣僚を取締役に据えているなど、戦争利権の特定企業への分配という不明朗な側面が指摘されている。

Iraq001_2 だが、フセイン政権が倒れた後もイラクの戦闘状態は続き、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついていても武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手には、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となった。このため、イラク業務に参加した民間会社は、独自に民間軍事会社とよばれる企業に武装護衛兵の派遣を委託したが、民間軍事会社の雇った多数の傭兵がイラクに入ったことで、反米イスラム武装勢力との戦闘はますます激化した。

そんな中、2007年9月には民間軍事会社(Private Military Company=PMC)ブラックウォーターUSA社の傭兵が、イラクの民間人17人を射殺する事件がおき、米軍の軍規にも、アメリカやイラクの法規にも拘束されない武装兵士の存在が問題化した。アメリカ政府は、射殺された17人の内、少なくとも14人の射殺には正当性が認められない、と公表したが、法的な処罰はできなかった。

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Sadam01 イラクのサダム・フセイン大統領は、米軍がバグダッドを占領した時にはすでに姿をくらましており、数ヶ月間行方不明であったが、2003年12月14日、ティクリート近郊の隠れ家に潜伏している所を米軍に発見され、拘束された。その後、イラク住民虐殺などの罪で起訴されたフセインは、2006年12月30日未明に死刑執行された。イラクでは、一時スンニー派とシーア派の武装勢力の間での宗派間抗争が起こったが、やがて両派は結束して占領米軍に対するレジスタンス運動を展開するようになった。
2007年11月の時点でイラク情勢は泥沼状態で、、有志連合軍の犠牲者は4000人を超えている。米軍の死傷者数は、12000人を超えた。

第三章(3) 【2004年 ローマ】 につづく。

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文明の黙示録(27)

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                   第三章 帝国の崩壊 (1)

                   【 2002年 バンジシール 】

Solger01 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の黒幕を、オサマ・ビンラディンと彼が率いる国際テロ組織アルカイダと断定したアメリカは、ビンラディンを保護するアフガニスタンのイスラム原理主義政権タリバンを倒すため、10月7日からアフガニスタンに対する空爆を開始した。そして、11月13日にはアメリカの支援を受けたアフガニスタン北部同盟軍が首都カブールを制圧してタリバンを駆逐した。
2002年6月のアフガニスタンの国会は、アメリカの圧力を受けて、ハミド・カルザイ氏を暫定大統領に選出し、その後、2004年10月に行われたアフガニスタンで初めてとなる直接選挙により、カルザイは正式に大統領に就任した。

アフガンスタンの多数派民族であるパシュトゥン族出身のカルザイは、1980年代中頃のソ連に対するレジスタンス活動の際にアメリカに接近し、CIAに協力するかたちでイスラム兵士(ムジャヒディン)に武器や資金を流すようになった。ソ連撤退後には、カルザイはアメリカの巨大石油グループであるユノカル社の顧問として、中央アジアのイスラム諸共和国からパキスタンまで、アフガニスタン経由で石油パイプラインを建設する計画を推進していた。
アフガニスタン大統領となったカルザイは、再びアメリカの石油資本のパイプライン施設計画に着手するが、治安維持活動の名目でカルザイ傀儡政権を守るために駐留するアメリカ軍に対して、2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起し、首都カブールでの攻撃やテロも頻発するようになり、アフガニスタンの混乱は現在も収まる様子がない。

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Masud01話は遡るが、9.11アメリカ同時多発テロ事件の2日前、アフガニスタンの北部同盟のリー ダー、アハマッド・シャー・マスード将軍が取材記者を装ったテロリストの自爆テロによって暗殺された。マスードは、ソ連侵攻の際に祖国を守るためムジャヒディン(イスラム戦士)をまとめて、10年間に渡ってソ連軍と徹底的に戦い、ついには撤退を余儀無くさせた「バンジシールの獅子」と呼ばれた英雄であった。マスードは92年に暫定政権を打ち立て首都カブールに入ったが、民族同士の権力争いが勃発し、首都カブールにもロケット弾が打ち込まれるほどの内戦状態になると、「これ以上街が破壊されるのも、市民を傷つけるのも耐えられない」とカブールを撤退する。
マスードは、少数派民族のタジク人であったにも関わらず、他の少数派各民族は言うまでもなく、多数派パシュトゥン人にまで人望の厚かった英雄であった。マスードを暗殺したのが、タリバンの放った刺客だったという情報が広まると、北部同盟をはじめとする反タリバン勢力は、マスード将軍の「弔い合戦」に結束し、アメリカ軍と協力してタリバン政権を倒した。

ところで、タリバン政権は、公式に「マスード将軍暗殺に関与していない」ことを表明している。マスードが生きていたら、タリバンが倒れた後のアフガニスタンの大統領になっていた可能性が非常に高かった。そうなっていれば、カルザイ政権下で起きているような混乱は避けられ、アフガニスタン国民による統一国家が出来ていたかもしれない。マスード暗殺がタリバンの仕業ではないとすれば、マスードを排除したかった勢力とは、カルザイに傀儡政権を取らせたかった勢力と同じなのかも知れない。そして、マスード暗殺とカルザイ政権成立の間に、9.11アメリカ同時多発テロ事件が起きている。

長年マスード将軍を追ってきた写真家の長倉洋海氏に対し、生前、マスードはこう語っている。「タリバンやパキスタンを含めたすべての勢力が、戦争では解決できないことを理解し、話し合って平和的な状況を作り出し、国民が選挙によって自らの将来を決めること。これに優る勝利はありません。」

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9.11アメリカ同時多発テロ事件直後は、アメリカの人々はテロを憎み、星条旗を掲げて、ブッシュ政権の報復行為を支持したが、時が経つにつれて事件に対する様々な疑問や疑惑が表れてきた。
テレビで世界中に配信された世界貿易センタービル(WTC)崩落のシーンに対しては、建築専門家や物理学的な視点から、飛行機の突入と爆発による崩落は考えられない、という意見が出た。また、ビル解体に携わる人からは、WTC崩落の様子は爆薬を使ってビルを解体する「制御解体」に酷似している、との声も上がった。
Wtc701 また、WTCには、飛行機が突入したツインタワーの近くにWTC第7ビルというビルが建っていたが、これも2つのタワーと同様に崩壊した。この47階建てのビルは、飛行機の突入の影響は何も受けず、ただ小規模の火災が発生していただけだったが、突然跡形も無く崩壊してしまった。WTC第7ビルには多くの政府系機関が入居していたが、中でも証券取引委員会の事務所には、企業の不正に関する調査書類2000~3000箱が保管されており、それらが灰になってしまった。中には、現在進行中の調査書類が多数含まれていた。

英国のインディペンデント紙は、2001年10月14日の記事で、次のように報じた。『9.11の5日前の9月6日、シカゴのオプション取引所において、ユナイテッド航空の買付けが396に対して、空売りが4744もあった。9月10日のアメリカン航空の買いは748だったが、空売りは4516。これは、ユナイテッド航空とアメリカン航空以外の航空会社にはまったく見られない現象だった。』
事件が起こることを予め知っていて、インサイダー取引をした存在があるのだろうか?

アメリカ国防総省(ペンタゴン)に突入したとされるアメリカン航空77便についても、多くの疑問が提示された。
ボーイング757型機が突入したにしては、被害を受けて崩れ落ちたペンタゴンの建物の損傷が小さいこと。事件直後の写真では、機体の残骸も犠牲者やその荷物なども映っていないこと。建物1階部分に突入するほどの超低空飛行は、相当の熟練パイロットでも困難なこと。ペンタゴンに突入した物体は、飛行機ではなくミサイルのようだった、という目撃証言もあった。
さらに、ここでも飛行機が突入して(とされる)破壊された部屋には、ペンタゴンの巨額の使途不明金の調査のための会計資料が集められていたが、それらがすべて焼失してしまった上に、監査に当たっていた会計士たちの多くが犠牲になった。

最近の全米の世論調査では、実に80%以上の人々が9.11アメリカ同時多発テロの実行犯がオサマ・ビンラディンをリーダーとするアルカイダとする政府の発表は信用できない、と考えており、その中の半数以上の人が、事件は自作自演の可能性がある、と答えている。

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Binladin001パキスタン情報筋は、オサマ・ビンラディンが2001年9月11日の前夜、パキスタンのラワ・ルピンディにある軍病院で腎臓透析治療を受けていたことを明らかにした。フランスのフィガロ紙は、2001年10月31日に報じたスクープで、病院職員が目撃した有力情報として、オサマが7月4日から14日にかけて、パキスタン経由でアラブ首長国連邦(UAE)のドバイにあるアメリカン病院へ腎臓病治療のために入院し、そこへビンラディン一族、サウジ諜報機関の最高責任者トゥルキ・アル・ファイサル王子(同年8月31日に解任)、さらにはCIAのドバイ支局長ラリー・ミッチェル(同年7月15日にCIA本部へ呼び戻された)までもが面会に訪れていた、と伝えた。重度の腎不全を患っていたオサマは、2001年12月、パキスタンの病院でひっそりと息を引き取った。12月26日のエジプトのアル・ワフド紙は、オサマ・ビンラディンがアフガニスタンのトラボラで10日前に埋葬された、と葬儀の模様を伝えたのをはじめ、FBIテロ対策本部長デイル・ワトソンとパキスタンのムシャラフ大統領もオサマの死を追認した。

第三章(2) 【2003年 バグダッド】 につづく。

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文明の黙示録(26)

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                   第二章 資本の野望 (15)

                   【 2001年 ニューヨーク 】

Bush021 2001年1月に誕生したブッシュ政権は、早速アメリカの軍事・外交路線を大幅修正した。
対中国外交では、江沢民総主席と朱鎔基首相が期待した安定的な対中米関係に冷や水を浴びせる形で、人権政策に関して中国のさらなる改善を要求し、中国敵視政策に転じた。軍産複合体の要請する軍備拡大については、軍事関連予算を大幅に増加させるとともに、日本などに周辺国の脅威を理由にミサイル防衛(MD)構想を押し付け、巨額の予算を付けさせた。また、1972年に旧ソ連と結んでいたABM条約(迎撃ミサイル制限条約)を破棄する一方、環境問題のために世界の多数の国が参加した京都議定書からも離脱して、一旦合意されていたCO2削減義務を放棄するなど、「ユテラリズム(一方的外交)」と呼ばれる外交姿勢を鮮明にした。

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イスラエルでは2001年2月、首相公選が実施され、リクード党が圧勝し、シャロン党首が首相に就任した。シャロン政権は治安維持を最優先課題に掲げ、統一エルサレムをイスラエルの首都であると主張したため、イスラエルとパレスチナ間の衝突が激化した。
シャロン首相の経歴を見れば、イスラエルが中東和平のプロセスを望みもせず、実行するつもりもないことは明らかだった。シャロンは1979年のエジプトとの平和条約に反対票を投じ、1985年には南レバノンからの撤退についても反対票を投じている。1991年にはマドリードの平和会議へのイスラエルの参加に反対し、1993年のオスロ合意に関する国会の全会投票に反対し、1994年行われたヨルダンとの平和条約の投票では棄権している。1997年のヘブロン合意にも反対票を投じたうえに、2000年にはイスラエルのレバノンからの撤退を批判し、首相就任後は国際法に完全に抵触した形で、占領したアラブ領地にユダヤ人入植地の建設を急速に進めている。
リクード党はもともとヨルダン川から地中海まですべてをイスラエルの領土とする大イスラエル主義を掲げており、ユダヤ人入植によって占領地のユダヤ人人口を増加させ、既成事実を積み重ねて占領地返還を困難にする狙いが明白であった。

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2001年2月、ニューズウィーク誌は「グローバル化するテロ-独占取材:ビンラディンの国際的ネットワーク」という大見出しとともに、アラブ式のスカーフで顔を隠し、右手にライフル銃を持った男の写真が掲載された。読者はこの武装した恐ろしい人物がオサマ・ビンラディンの「グローバル・テロ」ネットワークの一員だと考えたが、この写真はヨルダン川西岸地区で行われた葬式の現場で撮影されたもので、この人物はビンラディンとはまったく関係のない、パレスチナ人タンジム民兵の武装メンバーだった。

ブッシュ政権誕生からわずかの間に、世界にきな臭い雰囲気が広がっていった。

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Bush_chaney012001年6月23日付のワシントン・ポスト紙は、チェイニー副大統領が前年8月まで会長を務めていた大手石油採掘会社ハリバートン(テキサス州ダラス)が、国連制裁下のイラクに7300万ドル相当の石油採掘施設を建設・供与する契約に関わっていた、と報じた。同紙は、石油業界幹部や国連の機密文書に基づく情報として、1998年からイラク政府と結んだ石油採掘施設や排出ポンプの売却契約にハリバートン社が直接関わっていたとし、湾岸戦争で多国籍軍が破壊したイラクの石油採掘施設の修復契約についてもイラク政府と合意寸前だったが、クリントン前政権が「国策に反する」としてこれを阻止した、と伝えた。
国連制裁はイラクとの商取引そのものを禁じてはおらず、契約そのものが違法行為とは言えないが、ブッシュ政権はイラクが国連制裁下にあるにもかかわらず、ロシアや中国が原油取引を拡大していることで制裁が骨抜きになっている、と批判していた。
お膝元のアメリカの、しかも副大統領が責任者だった企業が、アメリカとイラクの敵対の舞台裏で微妙な関係を維持していることは、ブッシュ政権の馬脚を現すスキャンダルと見られたが、この問題は9月11日に起きた大事件によって忘れ去られた。

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アフガニスタンで政権を掌握したタリバンは、極端なイスラム原理主義による人権問題や、バーミヤンの石仏破壊行為などのために、国際社会から承認を受けられずに孤立していた。フランスの公共テレビ局、FRANCE3が「断片からの確信」(2001年10月放映)という番組のなかで明らかにしたところによると、2001年7月に、ある秘密裏の会合がドイツのベルリンで数度開催されていた。その会合に参加していたのは、アメリカ、ロシア、パキスタン、ドイツの高官で、アフガニスタン内戦を終わらせ、タリバン政権の国際的孤立に終止符を打つ和解案を練っていた。
アメリカ側はそこで、アフガニスタン国内に巨大な石油パイプラインを敷設するかわりに、数十億ドルもの土地使用料を支払うという提案を行っていたが、タリバン側は結局最後までその会合に参加することを拒否し続けた。

アメリカ政府は、アフガニスタンに匿われているオサマ・ビンラディンの反米姿勢がタリバンに影響を与えている、と確信した。

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911wtc01 2001年9月11日、衝撃的な映像が世界中に配信された。ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センターの超高層ツインタワー北棟に、ボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が突入、爆発炎上した。黒煙を上げる超高層ビルの映像に人々が息を呑む中、約20分後に、今度はユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルのツインタワー南棟に突入し爆発炎上した。この時、人々はこれが飛行機事故ではなく、何かとんでもない事件が発生した、と確信した。

追い討ちをかけるように続報が届いた。
ワシントン・ダレス国際空港発ロサンゼルス行きアメリカン航空77便が、やはり同時刻にハイジャックされ、午前9時38分にアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、また、付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって激突の瞬間が目撃された。

ニューヨーク・ニューアーク空港発サンフランシスコ行きユナイテッド航空93便からは、午前9時57分、機内電話や携帯電話によって同便がハイジャックされ、ワシントンへ進路を変更したとの通報があった。それまでに3機がそれぞれ自爆突入を行っていたため、アメリカ合衆国議会議事堂、あるいはホワイトハウスを狙っていると考えられた。
その後、同機は午前10時3分、ペンシルバニア州シャンクスヴィル(ワシントンD.C.北西240kmの場所)に、墜落した。

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911ny01「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ばれることになるこの事件の犠牲者は、ハイジャックさ れた4機の旅客機の乗員・乗客、アメリカ国防省および世界貿易センタービルの犠牲者、ニューヨーク市消防局の消防士、ニューヨーク市警察の警察官、ニューヨーク港湾管理委員会の職員など、すべての死者を合計すると2,973人に上った。
世界貿易センタービルの両タワーは、旅客機突入後、崩落して完全に瓦解した。マンハッタン島にもうもうと吹き上がる噴煙に、人々は底知れぬ恐怖を覚えた。

FBIの捜査の結果から、アメリカ政府はこのテロ攻撃がオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織アルカイダによって計画・実行されたものと断定した。アメリカ当局が「オサマ・ビンラディン」の名前を公表したのは、テロ発生からわずか2日後のことだった。
事件直前、50%を切っていたブッシュ大統領の国民の支持率は、事件直後には9割に到達、歴史的な国民の支持を得た大統領となった。

第三章(1) 【2002年 バンジシール】 につづく。

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文明の黙示録(25)

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                   第二章 資本の野望 (14)

                   【 2000年 マイアミ 】

Israel_army1 「1980年代のイスラエルの戦略(A Strategy for Israel in the Nineteen Eighties)」という記事は、1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』という世界シオニスト組織の出版物に掲載された、イスラエルと中東の未来図を分析した報告書である。
イスラエルにとって、地下資源が豊富に埋蔵されていると予想されるシナイ半島は国益上絶対に手放せない。ということは、国際社会がなんと言おうと、シナイ半島占領地から引き揚げることはしてはならない。一方、オスマントルコ帝国滅亡後にヨーロッパ先進国によって勝手に国境が策定されたアラブ諸国も、大きな問題を内包している。ヨーロッパ人が地図の上で勝手に国境線を書いたため、すべての国で民族および宗教宗派が混在しており、常に対立や摩擦が発生し、安定した社会の構築ができない。
イスラエルおよびアラブ各国が安定した世界を手に入れるためには、イスラエルの軍事力を地域最大のものにして、その力を後ろ盾にアラブの国家を再構築して安定した中東世界を実現しなければならない。

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報告書は、いくつかの具体例に触れる中で、イラクの分割にも触れている。石油のおかげで豊かであるが、大多数のシーア派を少数のスンニー派が支配し、それに加え、北にはクルド人という大きな勢力があるイラクは、ひとたび政権が不安定になれば、内部分裂する可能性が非常に高い。民族・宗派による地域境界線で分ければ、3つ主要な都市バスラ、バグダッド、モスルを中心とした、南のシーア派、中央のスンニー派、北のクルド勢力、という小さな勢力に分割され、それはイスラエルにとっても脅威の消滅という望ましい結果をもたらす。

驚くべきことに、2003年11月、イラク戦争末期に「アメリカ外交問題評議会(Council on Foreign Relations=略称CFR)」という米大統領の政策決定に大きな影響力を持つシンクタンクで、CFR総裁のレズリー・ゲルブが個人的見解として「イラク3分割案」を提案している。さらに2007年9月には、アメリカ上院議会がイラク分割決議を採択し、イラクのマリキ首相へ実行を迫っている。

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R_cheiney01 クリントン政権のあいまいな軍事戦略にイラ立ちを隠さない軍産複合体は、1997年に「新しいアメリカの世紀プロジェクト(Project for the New American Century=略称PNAC)というシンクタンクを設立し、1998年1月にはイラクへの侵攻をクリントン大統領に進言した。
PNACの創設者は著名コラムニストのウィリアム・クリストル氏で、国防費増大と強大なアメリカの軍事力を支柱にした世界秩序の構築を基本的な主張にしている。「軍事力を積極的に行使し、自由や人権、民主主義、資本主義といった米国的価値観を世界に普及させる新保守主義」と、PNACのドネリー副事務局長は説明するが、アメリカ的価値観を「十字軍」のように広めることを目指す主張は、「新アメリカ帝国主義」と呼ばれる。クリストル氏と親しいコラムニストのクラウサマー氏は「冷戦終結でアメリカ一極構造が出現したのに、クリントン政権は力を振るうことを躊躇している」と憤る。

不明瞭で不穏なこの右翼政策グループには、リチャード・チェイニー(後のブッシュ政権の副大統領)、ドナルド・ラムズフェルド(同国防長官)、ポール・ウォルフォウイッツ(同国防副長官)、ピーター・ロドマン(同国防次官補)、エリオット・アブラムス(同国家安全保障会議(NSC)部長)、ルイス・リビー(同副大統領首席補佐官)といった、後のブッシュ政権の中枢を担うメンバーが顔を揃え、「ネオコン」の牙城と言われている。

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アメリカには、イスラエル右派のリクード党支持の組織「国家安全保障問題ユダヤ研究所(JINSA)」がある。JINSAは、第四次中東戦争によってエジプトとイスラエルの間の紛争地となっているシナイ半島に国連停戦監視団が入り、イスラエルのシナイ半島占領の既成事実作りが行き詰ったことに危機感を持ったアメリカのシオニストグループによって、1976年に結成された。JINSAはアメリカの兵器製造の軍需産業やイスラエルの軍需産業とも密切な関係を持っている。

Syaron01 NHKが2004年2月7日に放映した『エルサレム』(後編)という番組では、イスラエルのシャロン(当時国防相)がアメリカを訪問した際に参加した、あるパーティーシーンが映されていた。これは「ワシントンにあるユダヤ系のシンクタンクJINSAが毎年開いているパーティで、出席者はイスラエル軍、アメリカ軍、そしてロッキード社などの軍需産業関係者」だと紹介された。
「JINSAは、アメリカとイスラエルの軍事技術交流に深く関与している」というアナウンスの後に、JINSAのショシャナ・ブライアン副所長がインタビューに答え、「兵器の実地テストがイスラエルなら、ずっと短い時間で実現できる。」と語っている。番組のナレーションは、「アメリカの武器開発にとって、イスラエルは重要な実験場だった。アメリカのイスラエルへの無償軍事援助は現在、年間18億ドルに達している」と説明した。

PNACのリチャード・パール(後のブッシュ政権での国防政策諮問委員会委員長)、ダグラス・フェイス(同国防次官)、リチャード・チェイニー(同副大統領)といった人々は、JINSAの顧問を勤めていた。PNACとJINSAの2つのグループは、2000年の大統領選挙で、共和党のジョージ・W・ブッシュを当選させるために結託した。

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2000年の大統領選挙は、潤沢な資金と幅広い支援組織に支えられたジョージ・W・ブッシュ(共和党)と、クリントン政権で副大統領だったアルバート・アーノルド(アル)・ゴア(民主党)の戦いになった。当初は、軍需産業をはじめとする経済界と巨大なユダヤ人組織に後押しされたブッシュ陣営の圧勝と思われたが、一般市民の支持を集めたゴア陣営の猛烈な追い上げで、アメリカ史上で最も接戦となった選挙のうちの1つとなった。
さらに、最終局面では選挙票の集計作業を巡って両陣営の訴訟合戦も発生し、非常に長期間を要した結果、最終的には一般投票で過半数を獲得できなかったブッシュが、接戦だったフロリダ州を制したことで大統領選挙人投票で271対266の僅差で勝利、次期大統領となることが決定した。

Bush031 この時のフロリダ州知事は、ブッシュ候補の実弟でPNAC会員のジョン・エリス(ジェブ)・ブッシュだったが、ジェブはフロリダ州投票実施に先駆けて、「フロリダ州民重罪前科者リスト」を作成し、リストに該当する約9万4千人のフロリダ州住民の投票資格を剥奪した(テキサス州、フロリダ州など南部の13の州では重罪前科者の投票権を認めていない)。
しかし、リストに掲載された「前科者」の大半は実際には無実だった。この不正な手法(州当局は事務上のミスと説明した)により、投票資格を剥奪された大半は黒人で、民主党支持者だった。英BBC放送の試算では、この不正なリストにより、ゴア陣営は少なくとも2万2000票を失っていた、と報じた(ブッシュとゴアとの票差はたったの537票)。

ゴア陣営は州法に基づき、マイアミデード郡など四郡で、手作業による再集計を求めた。これに対してブッシュ陣営は「差止め請求」を行い、フロリダ州のキャサリン・ハリス州務長官(ジェブ・ブッシュと親しく、ジョージ・ブッシュ選挙チームのメンバーだったことが後に判明)は、パームビーチ郡等で手作業による再集計が行われている最中にブッシュ陣営の勝利を確定した。しかし、フロリダ州最高裁の上訴審はハリス長官の「勝者確定」を停止して、手作業集計を認め、投票結果に算入するよう命じた。手作業集計が始まるとブッシュのリードはまたたく間に僅か193票に縮まったが、ブッシュ陣営は連邦最高裁に上訴、連邦最高裁は「フロリダ最高裁の判断は憲法違反」と判断して「手作業の停止」を命じた。この時点で、ゴア陣営には選挙結果を確定させなければならない期日までに再度訴訟を起こして再集計作業を行う時間が残っていなかったため、ゴア候補は選挙での「敗北宣言」を行った。

第二章(15) 【2001年 ニューヨーク】 につづく。

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文明の黙示録(24)

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                   第二章 資本の野望 (13)

                   【 1998年 ワシントンD.C. 】

01 湾岸戦争終結後、アメリカの期待したイラク国内の反政府勢力によるサダム・フセイン政権への反乱は、イラク軍によって簡単に制圧されてしまった。ブッシュ大統領は、1991年10月からロバート・ゲイツ国家安全保障副顧問を中心に、サダム・フセイン暗殺工作を画策したが、これも成功しなかった。
一方、CIAはイラク民主党(INC)やイラク愛国会議(INA)などの親米反体制組織と協力して、イラク国内で体制転覆活動を行ない、1994年には、ワフィーク・サマライ元イラク軍事諜報局長の亡命を受けて、彼の情報をもとにした政権転覆計画を実行した。しかし、こうした秘密工作はサダム・フセインの諜報機関に摘発され、イラク政府は反政府活動の協力者たちに大粛清を行った。ついに1996年、CIAは拠点としていた北部クルド族地域に対するイラク軍の軍事侵攻によって、イラクから撤退せざるを得なくなった。

1996年以降、クリントン政権はイラクに対する介入行動には消極的となったが、アメリカ議会で多数を占める共和党は対イラク積極策の必要性を強調し、クリントン政権批判を強めた。国連では、ロシアや中国などがイラクの国際社会復帰の道を後押しし始めたため、危機感を持ったポール・ウォルフォウィッツ(後のブッシュ政権の国防副長官)やジェームズ・ウールジー(元CIA長官)ら対イラク強硬派議員らが中心となって、フセイン政権の打倒を目指す政策が議会で次々に可決された。

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M_lewinsky 1998年のビル・クリントン大統領は年初から前代未聞のスキャンダルに見舞われていた。クリントンは、1994年の合衆国大統領就任直後にも、アーカンソー州知事時代の部下だったポーラ・ジョーンズさんにセクハラで告訴されていたが、98年1月にはホワイトハウス研修生モニカ・ルインスキーさんとの「不適切な関係」が明らかになったのだ。スキャンダルが持ち上がった直後は疑惑を否定していたクリントンだったが、7月29日にモニカが刑事免責の上で証言すると、クリントンの不倫および偽証教唆の疑惑は決定的になった。
スター特別検事の厳しい追求もあり、クリントンのスキャンダルは、大統領の弾劾裁判に結びつく可能性が高くなった。そんな中、クリントンは8月18日にテレビで事態の説明を行い、モニカとの「不適切な関係」があったことを認めた。クリントンは「家族に謝罪」し、「深く反省している」と神妙な姿勢に努め、弾劾回避を狙った。肩を落として反省しきりのクリントンに対して、世間は比較的同情的な見方に傾きつつあった。

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01_2 1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビのアメリカ大使館に爆薬を満載したトラックが突っ込み、この自爆テロによってビル内にいた大使館員と民間人など291名が死亡し、、5000名以上が負傷した。完全に崩壊して瓦礫の山となった大使館の映像は、アメリカはもちろん、世界中に配信されて人々に大きな衝撃を与えた。
同日同時刻頃、タンザニアの首都ダルエスサラームのアメリカ大使館も同様のトラック攻撃に会い10人が死亡、77人が負傷した。
これらの攻撃は「イスラム聖地解放軍」と名乗るグループが犯行声明を出したが、このグループは実態は全く不明だった。この頃、オサマ・ビンラディンが対米宣戦布告を宣言していたため、事件はオサマ・ビンラディンの指示によるアルカイダの犯行とされたが、確定的な証拠は無かった。
むしろ、爆破に使用された爆薬は極めて高性能なものであり、通常テロリストの使うものとは異なる点が指摘され、軍関係の関与を疑う見方もあった。ケニアでは、前年からモイ大統領が絡んだ「ゴールデンバーグ事件」と呼ばれる大規模な汚職疑惑が持ち上がり、IMFなどの要請で事件に関する特別の捜査組織が作られて調べが進んでいた。7月には捜査も大詰めを迎え、事件に関する重要資料がアメリカ大使館内に保管されていたが、この爆破テロでそれらが失われてしまった。
事件発生後、イスラエル軍がいち早く現場に到着して救助作業を行ったが、それはアメリカからのFBIの到着よりも早かった。イスラエル軍はアメリカ大使館が保有していた機密資料を探しに来たのではないか、とも言われている。

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Tomahawk01 8月20日、アメリカ当局はアフリカの二つの大使館爆破事件の首謀者はオサマ・ビンラディンとイスラム過激派アルカイダと断定し、クリントン大統領はその報復攻撃の実行をテレビで発表した。対象はアルカイダの拠点と断定したスーダンの首都ハルツーム郊外にある化学兵器工場と、アフガニスタンのテロリスト訓練キャンプで、インド洋に展開していた複数の軍艦からトマホーク巡航ミサイルが多数撃ち込まれた。
後日判明したところによると、VX神経ガスを製造していたとされた「化学兵器工場」は、実は民間の薬品とミルクを製造している工場であった。そのアルシーファ製薬工場では、国内需要の90%にあたる結核やマラリヤの薬を製造していたが、アメリカの攻撃で完全に設備が破壊され生産が途絶えたため、その後の1年間で多くの子供を含む何万人もの人々が治療可能な病気に罹り、死んだ(ボストン・グローブ誌1999年8月22日号)。
また、アルシーファ工場は、この広大な、大半が牧羊地である国の唯一の獣医薬を作る工場でもあり、羊の群れから羊飼いに感染する寄生虫の薬を製造していた。この寄生虫は、スーダンで幼児の死亡率が高い主たる原因の一つになっている(ガーディアン誌2001年10月2日号)。
アルシーファ工場へのミサイルは、工場の休業日に撃ち込まれたため、直接の犠牲者は多くなかったが、こうして間接的には多数の死者がでる結果となった。

また、ミサイル攻撃のタイミングがクリントン大統領のスキャンダル会見の直後だったことから、国民の目をそらせるためではないか、との指摘もあった。

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湾岸戦争以降、イラクは大量破壊兵器所持の疑惑や、核兵器開発疑惑を晴らすために国連の査察を受けていた。しかし、1998年10月31日、イラクは国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)への協力を全面停止し、1990年以来続く経済制裁を「不公正」として制裁解除を求めた。
これに対し、国連安保理事会が緊急協議を開いてイラクを非難し、アメリカは米軍の中東への爆撃機を増やすなど、軍事力行使の姿勢を見せた。不安の高まる中の11日、イラクはアナン国連事務総長にUNSCOMおよび国際原子力機関(IAEA)の査察再開を、無条件で受け入れると表明した。
しかし11月20日、生物・化学兵器に関する資料や文書の提出を求めるUNSCOMの要請に対して、イラクはその提出を拒否、12月17日、米英軍が爆撃機や巡航ミサイルによるイラク空爆を行った。作戦は4日間で終了し、この間に発射された巡航ミサイルの数は合計で415発以上と、湾岸戦争時を上回った(「砂漠の狐」作戦)。
英米の単独行動について、ロシアは「安保理の承認なしに武力行使に踏み切ったのは、国連憲章違反」と激しく反発、中国もこれに同調した。日本は、いつものように攻撃開始と同時にアメリカ支持を表明した。全体としては、湾岸情勢の不安定要因であるイラクへの不満もあり、黙認する国が多かった。

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12月19日 米下院臨時本会議で、不倫もみ消し疑惑をめぐるクリントン大統領の弾劾訴追決議案を賛成多数で可決、翌1999年1月から、実に131年ぶりという大統領弾劾裁判が始まった。しかし、2月12日、クリントンの弾劾裁判は、上院での採決の結果「大陪審での偽証」および「司法妨害」ともに無罪という判決で確定し、およそ1年に渡るホワイトハウス・ハレンチ・スキャンダルは幕を閉じた。最後は、国民もいい加減疲れ果てて、モニカ・ルインスキーの名を聞くだけでうんざり、という拒否反応を示していた。

クリントン大統領は、こうしたスキャンダルにもかかわらず、国民からは60%を超える高い支持率を得ていた。しかし、1993年のソマリア撤退以降、米軍の出動に消極的なクリントン政権に対して政界右派、軍需産業を中心とした経済界からは強い不満が示されていた。イラクに対しても、国連などの国際機関中心の対応に任せた結果、ロシアや中国の擁護を受けてイラクが立場を持ち直しつつあり、ユダヤ・ロビーと呼ばれるイスラエルを援助する勢力はクリントン政権に失望していた。ワシントンでは、モニカ・ルインスキースキャンダルで死に体となったクリントンを見限り、米軍の大規模な展開を求める軍産複合体、積極財政政策を求める財界、強いアメリカの再構築を求める政界などの思惑が一致して、ポスト・クリントンについて共和党の「ネオコン」グループの政権を作る計画が密かに動き出していた。

第二章(14) 【2000年 マイアミ】 につづく。

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文明の黙示録(23)

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                   第二章 資本の野望 (12)

                   【 1998年 カンダハル 】

Oslo_process01 イスラエル建国以来、中東和平はパレスチナ難民問題によって行き詰っていた。集団交渉では何の進展もない状況を打開するべく、1991年にスペインのマドリードで行われた中東和平会議では、イスラエルとアラブ諸国が個別に交渉する単独交渉方式が認められ、1994年10月にはイスラエルとヨルダンの講和が成立した。
また、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)もノルウェーの仲介で秘密交渉を行い、1993年9月にイスラエル政府とPLOの相互承認とガザ地区・西岸地区におけるパレスチナ人の暫定自治を定めたオスロ合意にこぎつけた。これにより、イスラエル政府はヨルダン川西側とガザ地区で、パレスチナ人による5年間の暫定自治を認め、さらにその後で占領地の最終的地位を交渉してパレスチナ問題の解決を図ることになった。
世界はイスラエルとPLOの共存に向けた握手に喜び、1994年のノーベル平和賞は、イスラエルのイツハク・ラビン首相とシモン・ペレス外相、そしてPLOのヤーセル・アラファト議長に贈られた。

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しかし、オスロ合意はイスラエル内の右派勢力には容認できない内容だった。イスラエル右派は「占領地」と呼ばれる地域も歴史的にイスラエルの国土と見なしており、それらの「割譲」につながる合意は絶対に認めることはできなかった。
1995年11月、テルアビブの平和集会に参加していたラビン首相は、参加者の中の一人の若者の凶弾に倒れた。その暗殺者、イスラエル人イガル・アミルは、イスラエル防諜部の情報提供者だったため、人々は、平和を創設した首相が自国の反対勢力の陰謀の犠牲となった、と推測した。

1996年の総選挙で右派リクード党のネタニヤフ政権が成立すると、オスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。その後は、イスラエルの抑圧的な占領政策によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、パレスチナ人のイスラエルへの不信が増大した。2000年9月にはアリエル・シャロン(当時リクード党党首)がエルサレムの聖地「神殿の丘」に立ち入ったことに端を発するパレスチナ群集とイスラエル警察の衝突が、アル・アクサ・インティファーダと呼ばれる暴力的な対立に拡大し、オスロ・プロセスは事実上崩壊した。

実は、イスラエル内にはパレスチナ問題を、もっと大きな中東世界再編戦略の枠組みで解決しよう、と考える勢力があった。彼らは、ヨルダンをパレスチナ人の国家とする代わりに、ヨルダン王室のハーシム家にイラクを与えることで中東世界を安定した組み立てに改造する、という壮大なプランを持っている。イスラエルは「占領地域」を含む領土を獲得し、イスラム教の預言者ムハマンドの血を引くアラブの正統王室ハーシム家は、ヨルダンよりも広大な土地と豊かな石油資源を手に入れる。イスラエルに敵対するシリアも動きを封じられることになるので、中東情勢は劇的に安定する。
しかし、このプランの実現のためには、現在のイラクを解体する必要があった。

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Usama01_21993年2月にニューヨークで起こった世界貿易センタービル爆破事件、95年5月のエジプトのムバラク大統領暗殺未遂事件、同年11月のサウジアラビアのリヤド国家防衛隊施設爆破事件など、続発するイスラム過激派によるテロ事件の黒幕をオサマ・ビンラディンと見るアメリカやサウジアラビア当局は、オサマを庇護するスーダン政府に対する圧力を強めた。このため、1996年5月18日、オサマはスーダンからアフガニスタンに移り、アフガニスタンを統一しつつあったタリバンの本拠地、カンダハルに入った。
オサマは、1996年8月に、「聖地を占領するアメリカ人に対する宣戦布告」を発し「パレスチナやレバノン、イラクでのイスラム教徒の犠牲はユダヤ十字軍の仕業」として、サウジアラビア、アメリカ、イスラエルを厳しく批判した。

厳格にイスラム教原理を重んじる神学生たちの集団であるタリバンは、オサマ・ビンラディンを擁護した。
1998年4月15日付のAP通信によれば、タリバン政権のアブドゥルハキーム・ムジャーヒド駐パキスタン大使は「オサマは、われわれのゲストとしてカンダハルに住んでいる。アフガン人はゲストを尊重する」と語った。また同年6月15日、タリバン政権のムハンマド・ラバニ諮問評議会議長は「オサマはアフガニスタンに賓客として受け入れられている」との発表を行った。アフガニスタンの統制のために、オサマからタリバンに対しての資金提供が行われていたという理由もあるようだ。

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Pipeline ソ連が消滅した結果、カスピ海やアラル海沿岸の中央アジアに埋蔵される莫大な量の石油や天然ガスが、アメリカをはじめとする旧西側諸国にも開放された。アメリカの石油メジャーは、中央アジアで掘削した石油や天然ガスをインド洋まで運ぶために、北部アフガニスタンからパキスタンを経由してアラビア海に搬出する計画を立てた。

1995年、アメリカ石油メジャーのユノカル社が、カスピ海からアフガニスタン、パキスタンを経由してアラビア海に天然ガスを搬出するパイプライン敷設計画を立てて関係当事者に交渉を始めた。このときの交渉代理人はヘンリー・キッシンジャー元国務長官、、ザルメイ・ハリルサド氏(パシュトン人で後のブッシュ政権での駐アフガニスタン特使)、そしてハミド・カルザイ氏(パシュトン人で後のアフガニスタン大統領)だった。
1997年12月17日の英テレグラフ紙は「米石油王、テキサスでタリバンをもてなす」という見出しで、タリバン代表団がアメリカの石油メジャーにテキサスに招待され、VIP待遇で接待されている様子を報じた。

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しかし、1998年8月、ユノカル社が進めてきたアフガニスタンでのパイプライン敷設計画は突然中断された。
この年、オサマは「ユダヤと十字軍との戦闘のための世界イスラム戦線」を結成し、アメリカ人であれば軍人、民間人を問わず殺害せよ、というイスラム最強の指令「ファトワ」を発した。
ユノカルのプロジェクトにはサウジアラビアのデルタ石油とニンガルチョ社も参加していたため、アメリカとサウジアラビアに激しい敵意を持つオサマが、タリバンに対してパイプラインの交渉を打ち切るように指示をしたと考えられる。
巨大な石油利権のプロジェクトを妨害され、面子を潰されたアメリカが、オサマ・ビンラディンを何としても排除すべき存在、と認識するのは当然だった。

第二章(13) 【1998年 ワシントンDC】 につづく。

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文明の黙示録(22)

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                   第二章 資本の野望 (11)

                   【 1993年 モガディシオ 】

Gulfwar01 1990年8月2日、イラクのクウェート侵攻に対して、国連安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を採択した。対イラクの国連軍の出動は政治的に難しかったため、アメリカは有志による多国籍軍を編制、英国、フランスなどが参加、アラブ各国からもエジプト、サウジアラビアなどがアラブ合同軍を結成してこれに参加した。
翌1991年1月17日、多国籍軍によるイラクへの爆撃を皮切りに、「砂漠の嵐作戦」が開始された。圧倒的な兵力差に加えて、米軍のコンピュータ技術を駆使した最新鋭兵器の威力は凄まじく、2月27日にはイラク軍はクウェートから撤退、同日中にブッシュ大統領は停戦を発表し、サダム・フセイン大統領も敗戦を認めた。3月3日には暫定停戦協定が結ばれ第一次湾岸戦争が終結した。

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多国籍軍側には、フセイン政権を倒すまで攻撃を続けるべきとの意見もあったが、ニカラグア介入などで強い批判に曝されていたブッシュ政権は、早い段階で軍を引き上げて泥沼にはまることを避け、イラクの現地反政府勢力によるフセイン政権打倒に期待した。しかし、サダム・フセインはイラク軍の多くの兵器と兵力を温存したまま停戦に応じたため、終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、フセインは温存した軍事力でこれらを制圧してしまった。

湾岸戦争では、最前線の映像が衛星中継によって世界中のお茶の間のテレビに映し出される、という史上初めての試みが行われた。この結果、世界の人々は米軍の新鋭兵器の威力をまざまざと見せつけられた。遥か洋上の軍艦から、数センチメートルの誤差なく打ち込まれるトマホークミサイルや、地下深くに隠された施設も破壊する地中貫通爆弾(バンカーバスター弾)、レーダーに捕捉されないステルス戦闘機や真っ暗な闇の中でも敵を見つけられる赤外線スコープをヘルメットにつけた兵士の姿など、米軍の強さは直接戦争に加わらなかった国々でもしっかりと認識された。

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これにより、アメリカの石油資本企業は、湾岸戦争終戦後の中東地域でアメリカの存在感が高まり、アラブ産油国に対して強い発言力を発揮できると期待したが、実際には予想外の現象が起こった。多国籍軍側に参加して勝ったはずのアラブ諸国でも、米軍の強大な軍事力を見せつけられて、敗戦したイラクへの同情とともに、そのアメリカにこれから牛耳られるのではないか、という恐怖が広がったのだ。さらにアメリカは、イラク攻撃のための拠点として一時的に駐留していたサウジアラビアやバーレーンを、イラク監視を名目に恒久的な基地としたため、イスラム教の聖地メッカとメディナを有するサウジアラビアへの異教徒の軍隊の駐留に対して、イスラム原理主義者たちから強い反発が起こった。

Abc_osama01 中でも、1989年にアフガニスタンからソ連軍が撤退した後、サウジアラビアの実家に帰っていたオサマ・ビンラディンは、サウジ王室に対して強い抗議の姿勢を見せた。
ソ連が去ったアフガニスタンに対して、アメリカは急速に興味を失った。国内ではイラン・コントラゲート事件のスキャンダルが吹き荒れ、CIAの外国への介入工作も大幅に縮小せざるを得なくなっていたため、アメリカ政府はアフガニスタンから手を引いた。その結果、アフガニスタンに誕生したムジャヒディンによる連立政権は内部紛争で分裂し、社会の混乱は収まらず、アフガニスタンの人々が願っていた平和な暮らしは訪れなかった。また、資金援助を打ち切られたイスラム義勇兵たちは、それぞれの国に帰らなければならなくなったが、帰ったところで仕事があるわけでもなく、惨めな生活を送っていた。
イスラム教徒を、自分たちの利益のために使い捨てにするアメリカに対して、オサマは反発を強めていったが、その怒りの矛先はサウジ王室の政策にも向かい、王室を公然と批判するようになった。1992年、反政府活動を展開していたオサマは、サウジ王室によって国外追放を宣告され、スーダンに入った。

オサマは、スーダンでカリスマ的なイスラム指導者ハッサン・トゥラビと出会い、トゥラビが率いる国民イスラム戦線(NIF)に合流する。スーダンでのオサマは土木、インフラ開発の会社を立ち上げ、イスラム教徒たちを雇用した。丁度、パキスタン政府の元イスラム義勇兵一掃によってパキスタンを追い出された元兵士たちが、オサマを頼ってスーダンに集まってきた。
アメリカ国務省の記録によれば、オサマの会社はハルツームとポート・スーダンを結ぶ街道を建設したほか、空港建設にも加わっている。また、オサマは貿易会社を設立し、ゴム、トウモロコシ、ヒマワリ、ゴマなどの輸出をほぼ独占していた。農業でもスーダン東部に大規模な農地を所有していた。
1996年9月26日付ニューヨーク・タイムズ紙は、オサマの組織がイランとスーダン両国との間で、対アメリカおよび対イスラエルの共闘で合意した、と報じたが、9月29日に出されたイラン国連代表部の声明は、報道内容について断固否定した。

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Bhd01 1969年から混乱が続いていたソマリアでは、1991年1月に反政府勢力統一ソマリア会議(USC)がバーレ大統領を追放して暫定政権を発足させたが、USCの内部分裂から内戦状態に突入し、1991年12月に国際連合に対しPKO部隊派遣が要請された。
1992年12月、国連安保理はPKO国連ソマリア活動のため、米軍を中心とする多国籍軍を派遣。続いて1993年5月、武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動を開始したが、世界各地から集まったイスラム義勇兵たちが、アルイティハードというソマリア南部のイスラム主義武装組織を支援したために、国連軍の活動は阻まれた。
1993年10月、首都モガディシオを襲撃したアメリカ特殊部隊が、逆に地元武装勢力に包囲され、18人の米兵が殺された。そのうち1人は騒乱状態の市民に遺体を引きずり回されてさらし者にされ、そのシーンをテレビが世界に向けて放映したため、アメリカ国内ではソマリアからの撤退を求める世論が高まり、クリントン政権は体裁を整えるひまも無く米軍撤退を指示せざるを得なかった。
アメリカ国務省は、この時パキスタン、インド、バングラディシュ、エジプト、セネガルなどから集まったイスラム義勇兵はオサマ・ビンラディンが集めた、と発表したが、1998年10月にABCニュースのジョン・ミラー記者のインタビューに応じたオサマは、自らの関与を否定した。

ソマリア紛争への軍事介入失敗の後遺症で、クリントン政権下では世間の厳しい目によって海外への米軍派遣が難しくなった。このことは、国内の「ネオコン」と呼ばれる強硬タカ派勢力の欲求不満を高めることとなった。

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Sarajevo01 ソ連の崩壊によって社会主義圏で民族自決の動きが広がる中で、ユーゴスラビアではスロベニアとクロアチアの独立に続いてボスニアも1992年の3月に独立を宣言した。しかし、独立賛成派のムスリム人と独立に反対の少数セルビア人勢力との武力衝突が勃発してしまう。
戦局は、セルビア共和国の支援を受けて武器兵力の数で上回るセルビア人勢力が優位に立ち、首都サラエボはセルビア人勢力により包囲された。一番の目抜き通りであるチトー将軍通りは「スナイパー通り」と称され、スナイパーによる狙撃の恐怖にさらされて買い物に出なければならない一般市民に多数の犠牲が出た。
国連では明石康氏を旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に任命して事態の収拾に努め、94年4月にはNATOによるセルビア人勢力占領地への空爆が行われ、アメリカによるムスリム人勢力に対する軍事援助も開始されたため、形勢は一気に逆転した。94年12月にはカーター(元合衆国大統領)特使がボスニアに入り、4ヶ月の停戦が実現した。
このボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でも、CIAはアフガニスタン作戦と同じようにイスラム義勇兵を集めてムスリム人勢力の側で戦わせようとしたが、ボスニアのムスリム人たちはアラブのイスラム教徒とは宗教的に異なっていたため、傭兵給与目当ての兵士ばかりしか集まらなかった。むしろイスラム世界では、イスラム教徒を前線に立たせて血を流させるアメリカに対する憎しみが増大していった。

第二章(12) 【1998年 カンダハル】 につづく。

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文明の黙示録(21)

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                   第二章 資本の野望 (10)

                   【 1993年 東京 】

G7_summit_1983 第二次世界大戦後、日本は輸入制限や高率関税で輸入を抑制し、外資の直接投資を規制しながら、輸出促進をはかることで高度成長を達成した。日本の再軍備に神経質になる周辺諸国の視線もあり、アメリカは日本を経済大国にすることで、東西冷戦構造の中で日本を東アジア地域の西側陣営の安定した橋頭堡とすることを選んだ。
日米安全保障条約によるアメリカの軍事力の傘の下でもっぱら産業へ投資を行えたこと、長らく1ドル=360円という円安で為替が固定されていたこと、加えて朝鮮戦争やベトナム戦争などの需要の恩恵を受けたことによって、1970年代には、日本は世界第二位の経済大国に成長した。

一方アメリカでは、1980年代初めにインフレーションの抑制を目的にした厳しい金融引締めが行われ、金利は二桁に達し、ドル相場は高めに推移して、輸出減少と輸入拡大をもたらした。その後、インフレ沈静化に伴い、金融緩和へ転換すると、景気回復で貿易赤字増大に拍車がかかったため、貿易赤字国アメリカのドル相場は次第に不安定になった。
1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国は、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで5カ国蔵相会議(G5)を開き、外国為替市場への協調介入によってドル安誘導を行う、という「プラザ合意」がなされた。特に日本の円は、大幅な円高を受け入れるように要請され、それまで1ドル=240円前後だった円相場は、120円程度まで上がった。
当時の中曽根康弘首相と竹下登大蔵大臣によって決断されたこの政策は、日本がアメリカの赤字解消を引き受けたと解釈された。

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この頃からアメリカは国際市場での経済覇権の野望をはっきりと表してきた。1980年代には、冷戦の敵対国であったソ連と東欧諸国の衰退は明らかで、アメリカは「ポスト冷戦時代」を見越しながら、経済市場制覇の環境整備に本格的に乗り出した。
電子・コンピュータ技術の進歩は、アメリカの金融・情報産業を大きなビジネスへと成長させ、国際金融資本は世界中の金融市場と債権市場で、巨額の利益を獲得する力を持つようになった。
デリバティブと呼ばれる金融派生商品は、複雑な数理を解析できれば、リスクをヘッジしながらレバレッジ効果(少ない資金で大きな金額の取引をする、テコの原理)で巨額利益を短期に獲得できる。しかも、軍需産業ビジネスは常に戦争や紛争を必要とするのに対して、金融ビジネスは世界中に常に市場が存在する。現在、国際貿易で実際にモノが動く実需取り引きは年間約5兆ドル、これに対しモノが伴わない金融取り引きは約500兆ドルになっている。

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Bill_clinton01プラザ合意後の日米間の経済構造は、急激な円高によって日本の競争力がそがれ、アメ リカの輸出を拡大する、はずだった。ところが、アメリカの目論見に反して、円高のもと、日本は瞬く間に世界一の債権国になった。日本企業が輸出産業の生産基地を東南アジアに移したことで、アジアの経済統合も進み、東アジアに日本を中心とする新たな分業が急速に確立された。
アメリカはこうした結果を望んだわけでも、予想したわけでもなかった。1989年、後にクリントン政権で財務長官となるローレンス・サマーズ(当時ハーバード大学教授)は、「日本を頂点としたアジア経済ブロックが明らかに形成されつつある。これらの事実は、アメリカにとってソ連よりも日本の方が脅威である、という認識を必要としている」と述べて警告した。

1989年にベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊過程に入ると、軍事的に世界の単独覇権を達成したアメリカは、日本を経済的敵国と見なすようになり、政府間交渉で直接圧力をかけてくるようになった。
1988年、日本を標的とした新通商政策アクションプランに沿って「包括通商法」がアメリカ議会で制定された(スーパー301条と呼ばれる一方的報復条項が入っていた)。1989年から、アメリカは日本からの輸出製品に様々な因縁を付け、スーパー301条を発動するなどの圧力をかけた。
1990年6月28日、海部政権は日米構造協議条約を結び、日本の内需拡大のために公共事業に重点を置くこと、 3年に1度のフォローアップ会議を行い、日本が本当に条約を励行しているかどうかチェックすること、などを約束した。このため、来るべき情報化社会のために重要な、IT技術を始めとする技術開発と普及に使うべき予算は縮小され、日本の「モノづくり」と「技術開発」が停滞する原因となった。結局、公共事業で儲けたい日本の政治家と企業、IT技術力で日本に先行されたくないアメリカ、両者の利害が一致したための合意だった。

この時、自民党の実力者だった金丸信は、「10年間で430兆円の公共事業をやる」と豪語し、ウェジントン米財務次官補は430兆円は小さいと文句をつけ、モンデール駐日米大使が600兆円なら歓迎すると発言し、最終的に公共投資基本計画は総額630兆円と発表された。公共投資の財源の半分は、国債と地方債財政投融資であり、こうした巨額の公共事業がアメリカとの約束によって8年間に渡って実行されたことは、現在の日本が抱える巨額の財政赤字の元凶になった。
1993年、クリントン大統領と宮沢首相の会談で、両国が「年次改革要望書」を毎年提出することで合意し、アメリカによる日本への政治介入は、制度化されることになった。

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Hosokawa01 最初は「グローバルスタンダード」は、国際化する日本の未来社会にとって必要なものだと思い込んでいた国民も、やがてアメリカの本当の目的が日本市場の搾取だと分かると、弱腰な政府や通産省への批判を強め、あからさまなアメリカ政府の強要を「押し売り外交」と嫌悪するようになった。
1993年8月、衆議院選挙で過半数を取れなかった自民党に替わって、細川護熙日本新党代表を中心に連立政権が誕生すると、従来の自民党の従米路線と一線を引き、日米包括協議で政府は強硬姿勢を貫いた。翌1994年2月に行われた細川・クリントン日米首脳会談では、日本の黒字減らしに数値目標を求めるクリントンに対して細川首相が断固拒否し、前代未聞の首脳会談の「決裂」という結果になった。「日米関係も、成熟した大人の関係になった」という細川首相の会談後の会見での言葉は有名になった。
ところが、細川首相は日米首脳会談直後に、突然湧き上がった献金スキャンダルで首相を辞任してしまう。6月に社会党の村山富市委員長を首相に担いだ自民党が政権に復帰すると、すぐに日米包括協議は復活し、日本の規制緩和と市場開放が再開された。

1997年、橋本・クリントン会談で、「年次改革要望書」が「強化されたイニシアティブ」に引き継がれることに合意が成立、2001年までに金融の大規模な規制緩和(金融ビッグバン)が行われた。
2001年6月30日、小泉首相とブッシュ大統領の日米首脳会談で「成長のための日米経済パートナーシップ」が合意され、日米両国における外国直接投資のための環境改善を推進するための「投資イニシアティブ」が設置された。要は、アメリカ資本が日本へ進出する際に、その障壁となっている規制をなくし、資本参加しやすくしようとするものだ。

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Bush_koizumi02投資イニシアティブでアメリカが日本に求めている内容は;
①日本の銀行の不良債権査定を厳しくして、国有化を促進する。(長銀や足利銀行を含む50行以上が外資ファンドに売却された。)
②株式の日米株式交換を促進する。(アメリカ企業が日本企業を買収する際に、現金資金が無くても可能になった。)
③保険・医療・介護等の産業の規制緩和を行う。(公的福祉を縮小して、アメリカ式民間医療保険会社に市場を提供する。当のアメリカの医療現場では映画「SICKO」のような悲惨な実態となっているのに。)
④労働市場を開放する。(派遣労働者が増加し、ワーキングプアやネットカフェ難民などの社会問題を起こし、犯罪増加の一因となっている。)
⑤農業・林業分野の規制を緩和する。(BSEで問題となっている牛肉や、遺伝子操作で作られたアメリカ産農作物を輸入しなければならなくなり、日本の小規模農家は行き詰る。)
⑥不動産取引における取引条件の簡素化をする。(不良債権化している不動産や、値下りしている不動産を外資が購入しやすくなり、国土資産が外国の所有となる。)

小泉首相は、2005年に衆議院を解散してまで郵政民営化法案を可決させたが、民間会社となった郵貯銀行や簡保会社は、これで②の合併・買収(M&A)の対象になった。2005年8月8日付ウォールストリート・ジャーナル紙は、「郵政民営化で、われわれは(郵貯・簡保の)3兆ドルを手に入れることができる」と報じた。

第二章(11) 【1993年 モガディシオ】 につづく。

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文明の黙示録(20)

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                   第二章 資本の野望 (9)

                   【 1990年 クウェートシティー 】

Colombia0001 アメリカの麻薬ビジネスは、冷戦期間を通じて築き上げられていった。ソ連および共産主義勢力に対する世界各地での様々な活動には莫大な費用を要するが、それらすべてを公開して議会に予算請求することは出来ない。国内には常に平和のために軍事費用、防諜費用を削減せよ、という圧力があり、時に十分な予算を議会が認めない場合もある。
そこで、政府の会計を通らない「裏資金」の工面が必要になる。麻薬ビジネスは、それ自体が秘密性が高いために、「裏資金」の資金源としてはうってつけだった。CIAは、ラテンアメリカや中央アジア、東南アジアの麻薬産地で、大規模な麻薬密造組織を運営するようになっていった。

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特にラテンアメリカは、アメリカにとっての麻薬ビジネスのシャングリラであった。
コロンビアは70年代末に一大コカイン生産国となった。自由市場主義を受け入れて市場開放したコロンビアの農産物市場には、補助金をもらって競争力の高いアメリカ農産物が輸入され、国内農業は壊滅状態となった。農民は、輸出作物の生産へ転換を行うように求められ、コカやマリファナなどの生産が広まった。1988年にアメリカはコーヒー農家に対して、相場水準の維持協定を破棄するよう強制し、コロンビアの主要輸出産品であったコーヒーの価格は40%下落した。飢えたコーヒー農家は、麻薬の栽培を始めるようになった。
第三世界に押しつけられた新自由主義政策が、麻薬取引増大の主要な原因の一つであった。

一方で、アメリカは麻薬取締り政策に力を入れているが、これには、アメリカの軍産複合体の存在が関係している。
アメリカの軍事産業と国防総省、軍事産業からの政治献金を受けている政治家などによって構成される「軍産複合体」と呼ばれる巨大な利権集団は、政治力だけでなく、経済的にも大きな力を持ち、アメリカの大統領には、米軍の「仕事」を拡大させるよう、常に圧力がかかっている。麻薬取り締りのための米軍の軍事作戦は、彼らの要望に答えるには最適なものなのだ。あるいは、「麻薬撲滅活動」の名の下に、現地政府のゲリラ掃討活動へのアメリカからの武器輸出が正当化されている。

こうして、一方で麻薬製造によって利益を得ながら、一方でその取締りによって別の利益を得る、というアメリカにとっては二重に美味しいのが麻薬ビジネスである。

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H_bushsr_cabinet0002 1981年にレーガン政権ができると、アメリカの支配力を維持拡大するため、世界各地でアメリカの代理をする民兵組織を養成し、その資金確保のため、麻薬栽培が積極的に行われるようになった。その顕著な例が、ニカラグアだった。
ニカラグアでは1979年に革命がおきて社会主義政権ができたが、レーガン政権下のCIAは、これを潰すために地元の民兵組織を束ねて反共組織「コントラ」を結成させた。そしてコントラに、ラテンアメリカからアメリカ本国への麻薬密輸を手がけさせ、それを資金源に活発なゲリラ活動が展開された。これらは、CIA長官から副大統領になったジョージ・ハーバート・W・ブッシュによって統括されていた。

1986年に露見したイラン・コントラゲート事件は、アメリカ政府にとって、こうした「裏」の姿が暴き出される重大な危機であった。CIAによる組織的な麻薬ビジネスへの関与、「テロとの戦い」であるはずの敵との癒着や武器商人との深い関係、国際的なマネーロンダリングを行う銀行(BCCI)の存在など、政権が転覆してもおかしくない一大事であった。
そこにさらなる困難が追い討ちをかける。

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パナマの独裁者であるマヌエル・ノリエガ将軍は、キューバのカストロ政権やニカラグアなどラテンアメリカの社会主義政権を撹乱させるCIAの作戦(当時の長官はブッシュ)に協力してきた。その代わりに、コロンビアからパナマ経由でアメリカへ密輸するコカイン取引に関わり、利益を得ることを黙認されてきた。1988年2月にデルバイエ大統領がノリエガ将軍の解任を決定したが、ノリエガは逆に国会を動かして大統領を罷免し、ソリス・パルマ政権を作った。ノリエガ将軍とアメリカとの対立は深まり、マイアミの大陪審は麻薬取引および資金洗浄の疑いでノリエガを起訴した。しかし、ノリエガはイラン・コントラゲート事件でブッシュ大統領が窮地に陥っていることを見て、1989年12月には国家最高指導者のポストを作り、自ら就任して独裁権力を増大させた。

Panama0001 1989年12月20日、アメリカの武装ヘリ部隊がパナマ市内に爆撃を開始し、米軍のパナマ侵攻が始まった。500名のパナマ国防軍に対して米軍は25,000の大部隊でパナマ国内27カ所を同時に攻撃し、ノリエガ将軍は投降した後、アメリカ本国で裁判にかけられ、1992年に「麻薬密売」の罪により40年の拘禁判決を受けた。
アメリカのパナマ侵攻では、秘密兵器だったステルス戦闘爆撃機、アパッチヘリ、レーザー誘導ミサイルなどの度を越えた兵器が使用され、人口が密集している市街地が攻撃され、一般市民に多くの犠牲者を出した。ブッシュ大統領が、如何にノリエガの口封じに必死だったかがうかがえる。

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1988年8月、イラン・イラク戦争は、両国が国連決議を受諾して停戦が発効した。イラン、イラクともに得るところのない戦争であり、特に多大な軍事費用を支出したイラクは、600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えて苦しんでいた。サダム・フセイン大統領は、対イラン戦開戦時には味方であったはずのアメリカが、密かに敵国であるイランに武器を与えていたこと、およびアメリカの同盟国のイスラエルがイラクへ攻撃を行ったことを重大な裏切りと憤り、戦時債務の回収のために隣国クウェートの併合を考えた。
1990年7月27日、クウェート北部国境にイラク機甲師団が集結しているところを米偵察衛星が発見した。8月2日午前2時、戦車350両を中心とするイラク軍機甲師団10万人はクウェートとの国境を越えて侵攻を開始した。圧倒的な兵力差に加えて、クウェート側はイラクが本気で攻撃してこないと油断していたため、午前8時にはクウェート全土がイラクによって占領された。
ラテンアメリカでのスキャンダルで苦しんでいたブッシュ政権にとっては、世間の目を逸らせる絶好のチャンスが訪れたわけであり、政府はわずか5日後には米軍をサウジアラビアのイラク国境地帯に集結させていた。
米軍は、最前線での記者の取材を許可し、CNNを筆頭に全米メディアは連日速報を流した。世間の注目は湾岸情勢に引きつけられ、政府のスキャンダルは片隅に追いやられていった。

第二章(10) 【1993年 東京】 につづく。

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文明の黙示録(19)

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                   第二章 資本の野望 (8)

                   【 1986年 マナグア 】

Old_cathedral01 1972年12月、中米ニカラグアの首都マナグア市を襲った大地震は、神戸大震災の数倍という規模で、何万という犠牲者を出した。ニカラグア支援のために、世界中から多くの支援物資や義援金が寄せられたが、独裁政権の実権を握っていたアナスタシア・ソモサはその資金のほとんどを着服してしまった。このため、地震で倒壊した建物の整理も全く手が付けられず、その後長く壊れかけ朽ち果てたビルディングや瓦礫の山といった大地震の爪痕が放置された。 
ソモサは大地震を期に非常事態を宣言、まんまと独裁権力を手に入れたが、これに憤激した国民は反ソモサに立ち上がり、ニカラグアは長期に渡る社会混乱に陥った。

アメリカ国内ではベトナム戦争での敗戦や、ニクソン大統領のウォーターゲート事件などでホワイトハウスへの嫌悪感が広がり、1977年にクリーンなイメージのジミー・カーターが大統領に就任した。カーター大統領は人権外交を掲げ、独裁国家への批判的態度を強めたため、アメリカの支援を失ったソモサ政権は追い詰められ、1979年、武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN) によってサンディニスタ革命=「歌う革命」が実現した。
ところが、1981年に「強いアメリカ」を掲げるロナルド・レーガンが合衆国大統領になると、社会主義的政策を掲げるニカラグア革命政権を批判し、ニカラグア国内ではレーガンの意向を受けた反革命派の活動が活発化して内戦状態になった。

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コントラ(コントラ・レボルシオン=反革命軍の略称)とは、旧ソモサ軍の敗残兵やレーガン政権の雇った傭兵で組織された反政府勢力で、アメリカが中南米の軍事拠点としていたホンデュラスを足場にニカラグアの政権転覆を企てていた。

Oliver_north01 アメリカの反米政権転覆作戦は、古くから筋書きが決まっていて、まず国内の反政府勢力に最大限の謀略活動を行わせ、マスコミを使ってデマ宣伝を広げ、テロリストが破壊活動や要人暗殺などを行う。その間に国外で亡命政治家が「暫定政府」を作り、アメリカに支援を要請すると、米軍がそれに応えて出動する(CIAには立派な「破壊活動マニュアル」までそろえてある)。 
ニカラグアの場合は、コントラが反政府武力活動をする一方で、ロックフェラー財団によってアメリカに招かれたオバンド大司教が反共演説をくり返し、その見返りに膨大な資金の提供を受けた。

1982年5月、国家安全保障会議(NSC)内にブッシュ副大統領が議長をつとめる「危機想定計画作成グループ」が創設され、NSCスタッフ、CIA、国防総省、国務省の代表が定期的に協議を行った。フォード政権でCIA長官を務めたブッシュ副大統領が、すべての隠密活動と情報活動のチーフとなり、事務局のオリバー・ノース中佐が「麻薬が合衆国に流入するのを阻止するため」という口実でラテンアメリカ地域で様々な秘密作戦を展開した。エスカレートするNSCの秘密工作に対して、穏健派のシュルツ国務長官はレーガン大統領に自制を求めることもあったが、NSCは1984年、米軍によるニカラグア港湾への機雷封鎖を決定した。

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イランでは、1979年にアメリカの支援を受けていたパーレビ王朝が市民革命によって倒れ、イスラム原理主義指導者ホメイニ師を中心とする新政権が発足した。イスラム原理主義を掲げる新しいイラン・イスラム共和国は、資本主義のアメリカも共産主義のソ連も敵視したため、西側陣営も東側陣営もイランの動きを警戒した。
日本は、1973年に三井物産を中心とした投資会社が、イランのバンダル・シャプール地域に天然ガス採掘の総合石油化学コンプレックスの建設を目的としたイラン・ジャパン石油化学(IJPC)を設立していたが、イラン革命によって工事は中断した。しかし、1980年、アメリカがテヘランで発生した米国大使館人質事件をきっかけにイランと断交した直後、イラン側の強い要請で国家プロジェクトに格上げして工事を再開した。イランは、経済発展へ日本のような中立国の援助を求めていた。

イランの米国大使館を占領したイスラム学生たちは、大使館に残された資料を調べ上げて、アメリカのイランへの介入の実態を解明しようとした。過去の秘密工作の露見と、日本などの協力によってイラン革命政府が安定することを防ぎたいアメリカは、イラクのサダム・フセイン大統領に武器と資金を供与し、イラン・イラク戦争を引き起こした。1980年9月にイラク空軍によるイランへの急襲で始まったイラン・イラク戦争は、開戦直後はイラクが圧倒的に優勢だったが、イラクの強大化を恐れたイスラエルは、1981年6月イラクの原子力発電所施設を空爆、イラクは対イスラエル防空に戦力を割かなければならなくなり、一方、アメリカからイスラエルを迂回して武器援助を受けたイランが形勢を挽回して、戦争は膠着状態になった。

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President_reagan01 1986年末、ベイルートから発せられた一本の外電が、やがて世界を揺るがす大スキャンダルに発展しようとしていた。レバノンのシリア系新聞「アルシラア」がイラン高官筋情報として「アメリカ政府が密かにイランに武器を売却している」と暴露し、さらにその売却代金をアメリカ政府がニカラグアの反政府組織コントラに手渡していたことが明らかになった。
レーガン大統領は、イラン・コントラゲート事件解明のために、テキサス州出身のジョン・タワー上院議員を委員長とする大統領特別検討委員会(通称タワー委員会)を設置し、事件はNSCを掌握するポインデクスター補佐官の指揮の下、事務官のオリバー・ノース中佐が実行役になって行っていた、と発表した。レーガンは二人を解任し、自分は知らなかったことにして何とか事態を打開しようと謀った。

直後に開かれた国連総会では、ニカラグア政権転覆のために行われた様々なアメリカの謀略が糾弾され、、コントラ援助を中止するよう求める総会決議が採択され、国連事務総長が声明を出すにいたった。それに対して、アメリカはニカラグアが麻薬密輸に関与していると反論し、コントラ支援の口実を何とか作ろうとしたが、今度はCIAが麻薬に関係しているという、もうひとつのスキャンダルが発覚してしまった。
ラテンアメリカでは、コントラへの「人道的支援」を担当したヴォーテックス社が物資運搬用の飛行機を飛ばしていたが、この飛行機は麻薬の運搬も行っていたのだ。ヴォーテックス社は、この仕事の見返りにCIAから30万ドルの報酬を受けていた。
しかしこの事件は、ノースが沈黙を守り、すべての罪をかぶってしまったため、レーガン政権幹部やブッシュの政治責任は問われることなく終わってしまった。

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1986年12月、イランへの武器供与の密約の当事者だったCIA元長官ウィリアム・ケーシーは、脳腫瘍の手術の術後に会話能力を失った。ケーシーはその翌年1月、ワシントンのレストランで連れ去られ、翌日死体となって発見された。全米のメディアは「CIA元長官W・ケーシー、長い入院生活の末、癌で死亡」と報道した。
同年2月、前国家安全保障担当補佐官ロバート・マクファーレンが服薬自殺を試みるが、一命を取り留めた。マクファーレンはその後、レーガン政権の海外秘密工作活動について、議会へ報告すべきものを隠蔽していた、と認めた。
同じ頃、タワー委員会はイラン・コントラゲート事件に関する報告で混乱を招いたとして、大統領主席補佐官ドナルド・リーガンをきびしく非難、一方でブッシュ副大統領を、テロ対策に活発に取り組んだとして賞賛した。翌日、リーガンは更迭されたが、メディアの取材に対して自分に責任を負わせるための陰謀があった、と発言した。
1987年11月、下院イラン・コントラゲート調査委員会は共同報告を発表、しかし、共和党のリチャード・チェイニー議員の調査の妨害と無力化の画策によって、報告書ではブッシュの責任については言及されなかった。後にチェイニーはブッシュ政権(1989-1993)で国防長官に指名された。そして、議会はイラン・コントラゲート事件の最終報告を発表して、幕引きが行われた。
1991年4月、タワー委員会元委員長のジョン・タワーが、飛行機事故で死亡した。彼は死の直前から、イラン・コントラゲート事件に関する疑惑を本に書き始めていたという。

第二章(9) 【1990年 クウェートシティー】 につづく。

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文明の黙示録(18)

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                   第二章 資本の野望 (7)

                   【 1984年 カブール 】

Afghanrussian01 ソ連は、アメリカと並ぶ超大国として第二次世界大戦後の東西冷戦構造の一極を担ってきたが、社会主義計画経済は机上の理論の通りには機能せず、非効率と不採算で、1960年代中頃には停滞傾向が明らかになってきた。
1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策への批判で失脚したフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると、外交政策に注力するあまり、国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせて東欧諸国の経済も次第に沈滞していった。
1970年代後半になると、アメリカは自国の軍事関連企業のビジネスのために「ソ連の脅威」をふれ回っていたが、実際にはアメリカの国力がソ連を大きく引き離していた。

ソ連にとって、起死回生の状況転換のためには、工業社会に不可欠な石油資源をアメリカより多く押さえるしか方法が無かった。幸い、自国内では石油資源に恵まれていたソ連だったが、中東地域では、1970年に親ソ政権だったエジプトで、サダト大統領が親米路線へ転向するなど、ここでもアメリカの勢力が広がりつつあった。さらに1978年にイランでイスラム革命が起きると、厳格なイスラム原理主義を掲げる指導者のホメイニ師は、共産主義のソ連も悪の体制と批判し、敵対姿勢を取るようになった。ソ連は、中東地域での勢力挽回のための足掛かりを必要としていた。

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中央アジアでソ連と国境を接するアフガニスタンでは、1978年の4月革命によって社会主義のタラキ政権が誕生し、ソ連との間に20年間の善隣友好条約を締結した。ブレジネフ書記長は、タラキ政権に大きな援助をするが、タラキは、土地の国有化、男女完全平等教育の実施、宗教の自由の制限、国旗の色をイスラムの聖なる色の緑から共産主義の象徴の赤に変えるなど、イスラム社会のアフガニスタンにとっては極めて急進的な政策を取ったため、1979年から各地で暴動や反乱が発生した。当時外相だったアミンは、クーデターを企ててアメリカに支援を打診したが、このアミンの動きを察知したタラキは、ソ連とともにアミンを排除しようとする。しかし、アミンは先手を打って1979 年7月に大統領官邸を包囲してクーデターを起こし、タラキは密かに処刑された。

Afgan_solger01_2 ソ連は、当初はアフガニスタンへの軍事介入に消極的だったが、アメリカがチリやラテンアメリカ地域での介入工作にてこずり、中央アジアへの注意が十分行き届いていないことを見越したKGBのアンドロポフ議長とグロムイコ外相によって、ブレジネフ書記長が病床に伏せている間に、アフガニスタンへの軍事侵攻が決定された。
1979年12月25日、10万の大部隊がアフガニスタン国境を越えると同時に、特殊部隊が宮殿を急襲してアミンを殺害、国外亡命中だったソ連傀儡のカルマル政権が27日に発足した。これでアフガニスタンの社会情勢が落ち着けば、ソ連軍は1~2ヶ月で撤退する方針だった。

しかし、ソ連の南下は中東~南アジアの軍事バランス上の脅威であり、共産主義勢力がこの地域に拡がる足掛かりになることを恐れたパキスタンとサウジアラビア(アメリカの勢力下で石油ビジネスが順調だった)は、アメリカと協力して反ソ連勢力の組織化を行った。アメリカは大量の武器を供与するとともに、CIAとペンタゴンの要員がパキスタンに派遣され、ゲリラ兵士たちにその使用方法を訓練指導するなど、史上最大規模の大諜報作戦を開始した。パキスタンの軍情報機関(ISI)は、イスラム諸国の若者を集めてISIの施設でゲリラの訓練を行い、アフガニスタンに送り込んだ。総額20億ドルといわれる費用は、アメリカとサウジアラビアが負担した。

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Laden01 オサマ・ビンラディンの生家は、父のムハマンド・ビンラディンが一代で築いたサウジアラビア最大のゼネコン財閥だった。ビンラディン・グループはサウジアラビア王室および軍関係の契約に強く、このためアメリカ企業との関係も深かった。
1979年、大学を卒業するかどうかという時、オサマはソ連軍との戦いのために、アフガニスタンに向かった。アメリカ国務省の資料によると、オサマはアフガニスタン戦争中、アラブ義勇兵の徴募、輸送、訓練への資金提供で重要な役割を果たしていたという。その資金は、ビンラディン財閥および湾岸の富裕な財閥たちからの寄付で賄われ、それらを使って彼は、イスラム救国基金(al-Qaida)を設立する。こうしたことから、オサマは本人の意思だけではなく、サウジアラビア王室の要請によって対ソ連レジスタンスを組織するためにアフガニスタンに入った、と考えるのが妥当なようだ。

折から、エジプトではサダト大統領がムスリム同胞団の過激派「ジハード団」によって暗殺され、後継のムバラク大統領がイスラム原理主義組織への徹底的な取り締まりを行っていた。このため、エジプトを追われたイスラム原理主義者たちは、パキスタンの傭兵徴募機関に集まってきた。1984年には、エジプト「ジハード団」のアイマン・ザワヒリがアフガニスタンに入った。ザワヒリは、ムジャヒディンを集めてオサマ・ビンラディンをリーダーにしたアルカイダに合流した。ヨルダン人で、ヨルダン王政打倒運動を率いていたアブ・ムサブ・ザルカウィも、アフガニスタンのキャンプをベースとして反ユダヤとヨルダンにおけるイスラム国家の樹立を掲げる戦闘的なイスラム主義組織を立ち上げた。イスラム義勇兵たちにとっても、アメリカやサウジアラビア政府が提供するふんだんな資金は魅力だった。
後にアメリカが「国際的テロ組織」として敵対することになるアルカイダは、こうして形成されていったが、この頃のアメリカは彼らに最新鋭のスティンガーミサイルを与えるなど、協力関係にあった。

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ソ連にとって、アフガニスタンへの介入は最悪の結果を招いた。10年に渡る泥沼の戦争で巨額の軍事費が財政を困窮させ、デタントの終焉を招き、アメリカからの穀物取引の停止はソ連の経済問題を急速に悪化させた。
1982年11月、ブレジネフは心臓発作によって死去し、1985年にソ連共産党書記長になったミハイル・ゴルバチョフは、ついに1988年にアフガニスタンからの撤退を発表した。アフガニスタン戦争の失敗は、後のソ連崩壊の遠因となった。

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CIAのアフガニスタン作戦の知られざる第三の任務は、麻薬栽培であった。昔からパキスタンとアフガニスタンではアヘンの原料であるけしの栽培が行われていた。それが、CIAの作戦が始まって2年も経たないうちに、この地帯は世界最大のヘロイン生産地となり、米国のヘロイン市場の60%を供給するまでになった。パキスタン側の国境沿いには、麻薬シンジケートとISIが数百カ所のヘロイン精製工場を経営した。この地域の麻薬取引は、年間2,000億ドルに上ったといわれる。この額は世界の麻薬取引の3分の1を占めた。もし、これが真実ならば、アメリカはゲリラ支援や武器援助に支出した額をはるかに上回るケタ違いの利益を麻薬取引から得たことになる。
オサマ・ビンラディンや他のムジャヒディン幹部が、このCIAとパキスタンのISIとの麻薬製造の連携作戦を知るのは、ずっと後のことである。

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Bcci01_2 BCCI(クレディット・アンド・コマース・インターナショナル銀行)は、1972年にパキスタン人アガ・ハサン・アベディによって設立された。アベディは、同じイスラム教徒の利点を生かし、中東の産油国王室関係者、政府要人と親しくなり、そうしたオイルマネーによってBCCIは発展した。
CIAは、パキスタンを拠点とした対アフガニスタン諜報作戦でBCCIを利用し、これ以降BCCIは様々なマネーロンダリング(資金洗浄)を行って地下資金のネットワークを作った。CIAの活動資金となった麻薬取引では、BCCIの架空口座が使われ、コンロンビアやニカラグアの麻薬取引でもBCCIを通してマネーロンダリングが行われた。1989年のイラン・コントラ事件では、イラン(当時アメリカの敵対国であった)への武器提供のための死の商人アドナン・カショギとの不正取引や、その代金のニカラグア反政府組織コントラへの供与なども、CIAの架空口座を通じて行われた。BCCIのブラックネットワークは、パキスタンの核開発援助や、北朝鮮の武器輸出入にも関係していた。
BCCIは、こうした裏資金の世界最大のルートとなり、パナマの独裁者ノリエガ将軍、フィリピンの独裁者フェルディナンド・マルコス大統領とイメルダ夫人、イラクのサダム・フセイン大統領などの不正な個人蓄財にも利用された。
1991年、英国当局の調査により、BCCIはその粉飾、不正が判明し、各国当局は協調してBCCIに対して営業停止や債権者保護のための資産凍結措置をとり、同行は破綻した。
 

第二章(8) 【1986年 マナグア】 につづく。

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文明の黙示録(17)

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                   第二章 資本の野望 (6)

                   【 1981年 カイロ 】

Plo01 イスラエルの建国で居住地を追われたパレスチナ難民は、1964年にパレスチナ解放機構(PLO)を組織して反イスラエルのテロ行動を激化させていた。1969年2月、ヤセル・アラファトが正式にPLOの議長に選出され、ファタハを始めとする武闘派勢力が実権を掌握すると、PLOは世界中を震撼させるテロ組織へと成長していく。
パレスチナ問題に世界の目を向けさせるためには、イスラエルを攻撃するよりも、一見無関係にも見える欧米諸国の民間人をテロ事件に巻き込むことで、国連のような国際機関による問題解決に向けた本格的な取り組みが始まるであろう、と考えたアラファトは、爆弾テロやハイジャック事件を立て続けに引き起こす。1972年5月9日、「ブラック・セプテンバー」によるベルギーのサベナ航空ハイジャック事件、同年9月5日ドイツのミュンヘンにおけるオリンピック選手村襲撃事件は、多くの犠牲者を出す凄惨な結果を招き、PLOが期待したこととは逆に国際社会はアラブ・ゲリラを「情け容赦の無いテロリスト」として憎悪するようになった。

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1970年1月、イスラエルに対抗するために軍備増強を必要としていたエジプトのナセル大統領は、秘密裏にモスクワを訪問してプレジネフ書記長へ支援を要請し、これに応えてソ連は約1500名からなる過去最大規模のソ連軍事顧問団を最新兵器とともにカイロに送り込んだ。しかし、同年9月にナセルが突然の心臓発作で世を去ると、モハメド・アンワル・サダト副大統領が大統領へと昇格し、ソ連との軍事協力体制に否定的な姿勢をとった。1972年7月、ソ連軍事顧問団の国外追放処分を発表したサダトは、アメリカのキッシンジャー国務長官と秘密裏に接触を行い、シナイ半島奪回のための武力行使に理解を求めた。中東情勢の安定を果たしたいアメリカは、アラブ諸国を分断するためにエジプトを取り込むことを考えた。

Israel_army02 1973年10月6日、エジプトとシリアの連合軍はイスラエル軍を急襲した。エジプト軍は、不意を突かれたイスラエル軍を撃破してシナイ半島へ進出、イスラエル拠点を占領した。ゴラン高原では、圧倒的な戦力と装備を持つシリア軍が優勢で、イスラエル軍はじりじりと後退を余儀なくされた。イスラエルは一時はシナイ半島西部とゴラン高原の一部を失い、自国領土まで侵攻を受けそうな状態になったが、アメリカから兵器の追加供給を受けるなど体制を整えて反撃に出る。イスラエル軍はゴラン高原のシリア軍に大攻勢をかけ、防戦一方となったシリア軍を追撃して首都ダマスカスへ迫った。しかし、ソ連軍がイスラエルに対して宣戦する動きを見せたためにダマスカス手前で進軍を停止した。シリアのアサドはサダトに対して、シリアへの援軍を要請したが、サダトの目的はシナイ半島奪還のみで、イスラエルには手を出さないというアメリカとの約束で、この要請を無視した。

シリアでの進軍を止めたイスラエル軍は、転じてシナイ半島でも攻勢をかけ、エジプト軍を撃破して首都カイロへの進撃姿勢をみせた。しかし、今度はアメリカがエジプトを擁護する態度を見せたために、イスラエル軍はやはり首都攻略を断念した。
第四次中東戦争は、こうして米ソの牽制によって戦闘は沈静化した。10月20日、ブレジネフ書記長はアメリカのキッシンジャー国務長官とモスクワで国連安保理に提案する停戦決議の内容について話し合い、国連安保理で米ソ共同決議案が採択されて第四次中東戦争は終結へと向かった。
第四次中東戦争は、アラブ諸国とイスラエルの領土争いの裏側で、米ソの二大超大国による国際紛争の解決が模索された出来事でもあった。特にアメリカは、中東地域に大きな影響力を確立すると同時に、中東和平プロセスという長い作業に大きく関与していくことになる。

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1970年代に入ってから、欧米の7大石油資本(メジャー)の支配から脱却したい産油国は、次々と石油開発企業の国有化を推進していた。1972年には、アルジェリアの油田がフランス資本から国有化され、リビアもBPの所有していた油田を国有化した。1971年から73年までの間にイラク、イランといった産油国が次々に石油資源の国有化を発表した。
そして、第四次中東戦争後期にあたる1973年10月、イスラエルが反転攻勢に出ると、OPEC(石油輸出国機構)は原油価格の引き上げと、イスラエルを支援する国(アメリカ合衆国とオランダ)への石油輸出を禁止した。石油を人質に、 世界に「アラブを支援して石油を得るか、イスラエルに味方して石油を失うか」の選択を迫ったのだ。これにより、原油価格は4倍に高騰し、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。
石油価格の高騰は、石油を全面的に輸入に頼っている日本にとっては特に深刻で、重工業を中心に大打撃を受け、高度経済成長時代が終焉した。

第四次中東戦争で、初めてイスラエルを追い詰めたことで、アラブの盟主の立場を強固なものにしたエジプトのサダト大統領は、中東和平のためにイスラエルとアラブ諸国およびPLOを加えた中東紛争の全関係者を集めた和平交渉を構想していた。しかし、PLOの過激テロ路線に怒りを抑えきれないアメリカのキッシンジャーは、この構想にPLOを加えることに反対した。このため、サダトはエジプトとイスラエルの単独和平交渉に向かわざるを得なかった(PLOが排除された形でアラブ諸国が和平交渉のテーブルにつくわけがなかった)。
アメリカは、エジプトが中東地域で大きなリーダーシップを持つことを望まず、アメリカの影響力を引き続き残したおきたかったのだ。

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ところで、「ムスリム同胞団」とは近代文明化するエジプトで組織された、イスラム原理への回帰を主張する緩やかな市民の連帯組織だったが、1965年のナセル暗殺未遂事件によって当局の弾圧を受け、その一部が急進化していった。中でも1970 年にアイマン・アル・ザワヒリによって創設された「ジハード団(アル・ジハード)」はエジプト政府の転覆とイスラム政権の樹立を目指し、武器を調達し、本格的な軍事訓練で兵士を育成するようになった。第四次中東戦争では、こうしたムスリム同胞団の中の武装集団が、エジプト正規軍とともにイスラエル軍と戦かったが、これを機に軍内部にも「ジハード団」の組織が浸透していった。

Camp_david_1978_3 内政面でサダトは、ナセル路線を完全に転換した。イスラエルに占領されているシナイ半島を取り返すことを最大の目的とするサダトは、アメリカの政治力を利用することが有効だと考えた。そこでサダトは、アラブ民族主義に変わる体制のイデオロギーとしてイスラム原理主義という新たな正当性を利用し、これによって政権に対する不満や批判をそらした。イスラム原理主義は政権の庇護下でその勢力を拡大し、ムスリム同胞団はエジプト社会の中に浸透していった。

一方、サダト政権になってからのエジプトはアメリカとの関係を深め、アメリカ式の資本主義・自由経済を導入して市場開放政策を行ったため、欧米製品が市場に氾濫し、消費者の欲望を刺激する一方で、新興富裕階層を生むこととなり、貧富の格差が拡大した。結局、エジプトの経済は発展したが、その繁栄を享受できたのはわずかに特権層のみで、一般市民の生活は苦しくなるばかりで、政府に対する不平不満が社会に蓄積されていった。
このような風潮は、イスラム原理主義者の眼にはエジプト社会の堕落と映り、市民の生活不満と相まって、イスラム過激派が勢力を伸ばた。

1977年にサダト大統領はイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招待でエルサレムを訪問、さらに、1978年9月5日から18日まで、米国メリーランド州の大統領山荘キャンプデービッドで、カ-タ-米国大統領、サダトエジプト大統領、ベギンイスラエル首相の三者会談が行われ、翌年1979年イスラエル、エジプト間に平和条約が締結された。イスラエルはシナイ半島返還を約束し、1982年4月完全撤退を完了した。

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エジプトとイスラエルの単独和平条約締結は、世界を驚かせたが、エジプト国内では親米・親イスラエルのサダト政権に対してイスラム勢力が激しく批判をするようになった。1981年には、サダト政権はムスリム同胞団メンバーの大量逮捕に転じ、イスラム原理主義勢力の弾圧を強化したが、急進派の活動はますます先鋭的になり、折からの景気後退とあいまって社会情勢が悪化した。

1981年10月6日、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中に、イスラム過激派のジハード団に所属する兵士により暗殺された。後継大統領に就任したホスニー・ムバラクは、ムスリム同胞団への徹底的な取締りを行ったため、イスラム原理主義勢力はエジプトを追われ、多くは義勇兵となってアフガニスタンでソ連軍と戦っていたムジャヒディン(イスラム聖戦士)に合流していった。アフガニスタンでは、サウジアラビアのイスラム原理主義グループを率いるオサマ・ビンラディンが、義勇兵を組織化してアルカイーダというイスラム私兵軍を作っていた。

第二章(7) 【1984年 カブール】 につづく。

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文明の黙示録(16)

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                   第二章 資本の野望 (5)

                   【 1973年 サンチャゴ 】

Freedman01 1892年に石油界の巨人ジョン・D・ロックフェラーによって創設されたシカゴ大学の経済学部では、「シカゴ学派」と呼ばれる経済学派が生まれた。シカゴ学派は、特に1960年代にミルトン・フリードマンによって指導された金融政策理論(マネタリズム)が政府の政策に大
きな影響を与えた。厳密に新古典派理論に従い、自由市場原理を絶対視するマクロ経済理論(新自由主義)は、外国の市場を開放させて資本進出を狙う国際金融資本には絶好の理論武装となり、アメリカの中南米諸国への介入に利用された。

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1969年、ニクソン政権は財政上の行き詰まりから、キューバ封じ込めのために中南米で結成していた「進歩のための同盟」を終了させ、南米での支援政策を決めるために、ネルソン・ロックフェラー ニュヨーク州知事を団長とする超党派調査団を南米各国に派遣した。
南米諸国を歴訪したロックフェラー調査団は、反米的なナショナリズムの高まりに警告を発する一方、多国籍企業の進出機会拡大の政策を取っているブラジルの軍事独裁体制を称揚した。ニクソンは、ロックフェラー報告にもとづき「ニュー・パートナーシップ」政策を発表し、援助の主要対象をブラジル軍事独裁政権など親米政権におき、共産化の動きに対しては機敏かつ積極的に介入をはかることを戦略目標にすえた。アメリカの資本に市場を開放するなら、民主主義政権でなくても構わない、というアメリカの本性が表れていた。

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Hkissinger01チリでは、社会主義的政策を掲げるサルバドール・アジェンテが、1970年の大統領選挙 の最有力と見られていた。「自国の裏庭に社会主義国家ができるのを傍観するわけにはいかない」と考えるアメリカのニクソン大統領とキッシンジャー国務長官は、アジェンデ政権を阻止するためのあらゆる謀略を駆使した。のちにウィリアム・コルビーCIA長官が証言したところによると、1962年から70年までの期間にアジェンデ当選阻止のためにCIAがつぎ込んだ資金は1000万ドルを越えていたという。

大統領選挙前には、アジェンデに対するCIAの仕組んだクーデター未遂事件が頻発したが、それらのクーデターをすべて未遂に終わらせたのは、陸軍総司令官レネ・シュネイデル将軍の存在だった。シュネイデル司令官は、軍は政治に介入してはならないという信念と、民主主義によって選ばれた政府に対して忠実であらねばならないという信念で、CIAが仕組んだクーデターを事前に阻止したが、いかなる非合法な手段を用いても左翼政権成立を食い止めたいキッシンジャーは、CIA内部でも存在が隠されていた秘密グループを使ってクーデターを実行し、1970年10月22日、まずシュネイデル司令官を暗殺した。

しかし、この露骨な反アジェンデ派のテロは、結果としては逆効果となり、10月24日に行われた大統領選挙の決選投票では大差でアジェンデの勝利となった。政権を獲得したアジェンデは、チリの基幹産業である銅鉱山を国有化し、社会主義的な経済改革でチリ経済の回復に成功した。そこで、アメリカが仕掛けたのは、戦略備蓄として保有していた銅を国際市場で大量に売却して、銅の国際価格を下落させ、それによってチリの銅鉱山からの収入を悪化させるという陰謀だった。このためにチリの経済状態は急激に悪化し始め、社会混乱が広がった。

そんな中、1973年9月11日、CIAの支援を受けた陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトによるクーデターが発生した。ピノチェトは、大統領宮を襲撃し、アジェンデを殺して政権を奪った。ピノチェトは、左翼勢力およびその支持者である一般市民など3000人以上を虐殺し、議会を停止して軍事独裁体制を敷いた。
Augusto_pinochet01_2 政権を取ったピノチェトは、全く経済政策が分からなかったため、アメリカはシカゴ学派の経済学徒たち(シカゴボーイズ)を経済顧問団として派遣し、「自由市場原理」の導入を指導した。ピノチェトは、シカゴ学派理論に従って最低賃金制度を廃し、組合交渉権を違法とし、年金制度を民営化し、財産や営業利益に対する税金をすべて撤廃し、公職を削減し、212の国営産業と66の銀行を民営化した。
この市場開放政策によってアメリカの投機家たちは大儲けをしたが、チリの国民生活は破綻の際へ追い込まれた。ピノチェト将軍が政権を掌握した1973年、チリの失業率は4.3%だったが、自由市場による近代化を試みて10年後の1983年の失業率は22%にもなっていた。軍事政権下の実質賃金は40%も下がった。1970年、チリの全人口の20%が貧困層だったが、ピノチェト政権の末期には倍の40%にもなっていた。儲かったのは一部の大企業や富豪たちだけで、一般国民は多大な社会負担を負い、貧富の差が著しく拡大していった。

1982年と83年には、国内総生産は19%も落ち込み、ほとんど恐慌の状態となった。さすがのピノチェトも、最後はシカゴボーイズと呼ばれるフリードマンの弟子たちを追い出して、ケインズ政策に転換し、ハゲタカ対策として短期的投機資金の流入を規制する法律まで作った。この時、ピノチェトがチリ経済を復興させるために役立ったものは、アジェンデが国有化した銅山(当時のチリの輸出収入の30~70%をもたらしていた)と、アジェンデの農地改革の結果生まれた活力ある自作農階級の存在だったというのは、何とも皮肉な因縁だった。
ところが、アメリカによると、今もこれを「チリ経済の奇跡」と呼んで、「新自由主義」経済理論の成功例と称えている。

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一般に、アメリカの冷戦下におけるラテンアメリカ介入について、「南米というアメリカの裏庭に、社会主義国家ができることを阻止するため」と言われてきた。しかし、年月が経って振り返ると、アメリカの関心はソ連封じ込めではなく、アメリカの経済利益に対する脅威になるような政策を掲げる政権の転覆にあったことが分かる。「ソ連の膨張主義の脅威」は、アメリカの市民をおびえさせて政府の政策を支持させるようにするためのプロパガンダとして使われていたのであり、アメリカの政策の真の目的は、新自由主義の国際経済秩序の維持と防衛であった。そして、それによって最も恩恵を受けるのは、アメリカの投機資本家たちだった。
この新自由主義の経済秩序が日本に押し付けられるのは、1990年代になってからである。

第二章(6) 【1981年 カイロ】 につづく。

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文明の黙示録(15)

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                   第二章 資本の野望 (4)

                   【 1972年 モスクワ 】

Vietnam_1966 第2次世界大戦後の世界は、米ソ二大超大国による東西冷戦という緊張の上に成り立った安定によって、経済発展が維持されていた。しかし、皮肉なことに、その緊張と安定を支える当事者のアメリカとソ連は、多大な負担を強いられて苦しんでいた。
特に西側資本主義陣営を盟主であるアメリカは、直接戦争に関与することによる軍事支出の増大、日本などからの輸入品の流入による対外貿易の輸入超過、という巨額の財政赤字と貿易赤字(双子の赤字)が経済を圧迫し、「ドル危機」を引き起こすまでになっていた。その最大の原因がベトナム戦争であった。
1969年に共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任した時、ベトナム戦争の終結と、ドル危機への対処が緊急の課題であった。

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ニクソン政権は、インフレ抑制のために緊縮的財政金融政策を採用し、軍事支出を中心に財政支出の抑制を図り、金融面ではFRB(連邦準備制度)が金融引締め政策を推進したが、それらの政策は景気後退を招き、さらに景気後退の最中にも物価と賃金が上昇するスタグフレ-ションに陥った。経済界からは政策転換への強い圧力がかかり、ニクソン政権は 71年初めに拡大的財政政策へ舵をきらざるを得なくなった。
軍事面では、1970年2月にニクソン・ドクトリンを発表して、アジアの戦争への過剰介入を避けるという方針を表明していたが、国内の経済政策の手詰まりからこちらでも方針変更し、カンボア侵攻(1970.4)、ラオス侵攻(1971.2)を行い、ベトナム戦争をさらに拡大した。

ニクソンが財政拡大政策に転換したことで、金融が大幅に緩和され、1971年春には、猛烈な投機により外国中央銀行にはドルがあふれ、アメリカの金準備は大量に外国に流出した。この頃、アメリカの金準備は110億ドルに落ち込む一方で、公的債務は250億ドルに増大しており、実質的な金準備はマイナスとなり、ドルへの信任は著しく低下していた。
1971年8月、ニクソン政権は「新経済政策」を発表、その中で金とドルの交換性停止という世界を震撼させる衝撃的な経済政策に踏み切った(ニクソンショック)。また、1973年春には、主要国がそろって変動相場制に移行し、IMFの協定も1978年4月に改定されて、戦後のブレトンウッズ体制は崩壊した。

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Kissinger_mao02ニクソン政権の安全保障担当補佐官として外交を担当したヘンリー・キッシンジャーは、アメリカの国際的地位を守り、その権威でドルの信用を維持するために、非常に困難な外交政策を進めなければならなかった。当時、冷戦の中で莫大な利益を上げていた軍事産業などから巨額の政治献金が政府中枢に流れ込んでいたため、米当局関係者の大部分は緊張緩和政策に反対の立場であり、キッシンジャーが考える「バランスオブパワー」構築のための外交戦略に対して政府内の合意を取り付けることは無理だった。そのため、キッシンジャー外交は隠密外交とならざるを得なかった。

世界を驚かせた米中国交回復は、そのキッシンジャー隠密外交から生まれた。イデオロギーの対立と核開発協力の行き詰まりで緊張を高める中ソ関係を利用し、米中接近によってアジア地域のアメリカの存在感を高める一方で、泥沼化したベトナム戦争から撤退する、という巧妙なシナリオで、キッシンジャー外交は後世高く評価されるが、キッシンジャーにはもうひとつの狙いがあった。
軍事産業は「製品」である兵器、弾薬の消費のために、常に戦争を必要とするが、一方で戦争への直接関与は米軍の人的犠牲と軍事費支出の増大でアメリカ政府に大きな負担を強いる。そこで、金融資本家の後押しを受けるキッシンジャーは、海外市場を開放させることで、金融ビジネスにおいてアメリカ企業が大きな利益を得られれば、戦争への関与を縮小してもアメリカ経済は発展できる、と考えていた。そこでキッシンジャーは、中国側に対し、経済開放政策をすれば欧米も中国に資金や技術を入れるので経済発展が実現され、中国は世界の強国になれるという道筋を示した。まだ国際経済の大きな外洋を知らない毛沢東は、すぐにこの話には乗ってこなかったが、毛沢東の死後、復権した鄧小平は「改革解放路線」を発表し、中国は資本主義経済を取り入れることになる。

余談だが、米中国交樹立の正式調印(1979.1)に先だって、1972年9月、日本の田中角栄首相は北京を訪問し、周恩来首相と会談して日中国交正常化を果たした。この報を聞いたキッシンジャーは「裏切り者のジャップ」と叫んで激怒したという。目覚しい経済成長で貿易強国となっていた日本がアメリカに先駆けて中国に経済進出することを危惧したようだ。その後、田中角栄は1974年にCIAのリークによると見られる「金権体質批判」記事(文芸春秋)で首相の座を失い、1976年にアメリカ上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で暴露されたロッキード疑惑で政治家生命を絶たれた。

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Brezhnev01 核と軍事力では東西で均衡した冷戦体制だったが、経済面では資本主義陣営の圧倒的な優位が明らかになってきた。
目覚しい経済成長で復興を遂げた西ドイツは、1967年にルーマニアと国交樹立するなど独自路線を歩み始め、1969年に誕生したブラント政権はソ連や東欧諸国との関係改善を目指す「東方政策」に乗り出した。社会主義体制下の非効率経済で停滞する東欧諸国は、西側との関係改善を求めていた。
ソ連も、農業生産高が低迷し、さらに旱魃が続いた1971年には農業生産が10%落ち込んだ。店頭からは牛肉の姿が消え、食糧問題が深刻化した。ブレジネフ書記長は、アメリカの穀物商社に話を持ち込み、カーギル社からアメリカの年間輸出量の3分の1にあたる大量の穀物買付けを行った。1972年10月には米ソ間で貿易協定が締結され、ソ連に最恵国待遇が与えられ、米議会の反対を尻目に両国間の貿易量は増大していった。こうして、アメリカは、食料に関してソ連に優位な立場を獲得した。
冷戦における軍事費負担を軽減したいという米ソの立場は共通のもので、1972年にはSALT I(第一次戦略兵器制限条約)が締結された。

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キッシンジャーのバランスオブパワー外交は、東西の緊張緩和という雰囲気を生み出す結果をもたらしたが、一方でアメリカの国際金融資本は、海外市場へ拡大するために市場開放を求める圧力を強めた。特に、南米諸国では社会主義政権を転覆させて自由主義市場開放政策を取らせるために、様々な謀略が仕掛けられた。

第二章(5) 【1973年 サンチャゴ】 につづく。

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文明の黙示録(14)

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                   第二章 資本の野望 (3)

                   【 1969年 北京 】

Intifada 第二次世界大戦後の世界は、政治、経済、軍事、イデオロギーなどあらゆる側面での米ソ間、そして東西間の二極構造が現出した。その一方で、アジア、中東地域、南米、アフリカなどの、いわゆる第三世界と呼ばれていた地域では民族自決、独立国家建設の動きが激しくなった。戦後世界は、新しい秩序を作り上げる必要に迫られていた。

第一次中東戦争の敗北でイスラエルの脅威を認識したエジプトは、西側諸国に近代兵器の供給を求めたが、中東への武器供与を制限する条約を口実に拒否されたため、ナセル大統領はソ連に兵器供給を要請、これによりエジプトとソ連が親密になっていった。このエジプトの動きに対し、アメリカ、英国はアスワンハイダム建設資金の援助を打ち切るという政治的圧力をかるが、逆にナセルはスエズ運河の国有化を宣言、スエズ運河の収入をダム建設費に充てるという方針を打ち出し、西側諸国とエジプトは真っ向から対立することになった。
1956年、スエズ運河の利権と中東での威信を取り戻したい英国とフランスは、イスラエルと共同して第二次中東戦争(スエズ動乱)を引き起こした。これに対して親エジプトのソ連が強い批判を表明し、アメリカも非難の立場をとったため、英仏は国連の停戦決議を受諾せざるを得なくなり、スエズ侵攻は失敗した。この時はアメリカは中東での英仏の政治力の復活を阻止するために、ソ連と同調する立場を選び、英仏の中東地域における威信は失墜した。

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アジアに目を向けると、日本軍の撤退した後のインドシナ地域では、ソ連および中国が支援する北ベトナムと、共産化を阻止したいアメリカの支援する南ベトナムとの間で激しい戦争となっていた。1963年11月のケネディの暗殺によって大統領に就任したリンドン・B・ジョンソンは、ケネディのベトナムへの援助縮小の方針を覆して軍事介入に方針を転換し、1964年8月にトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦が北ベトナム海軍の魚雷艇に魚雷攻撃を受けたことを口実に(トンキン湾事件)、ベトナム戦争への本格的な軍事介入を行った。
なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、トンキン湾事件は、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことを暴露した。これは、当時国防長官だったロバート・マクナマラも、1995年に同様の内容を告白している。
アメリカが海外政情に介入する時に、自作自演の事件を仕組むやり方は、これ以降も様々な形で増加していく。

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西側諸国において戦後の経済が目に見えて発展してくると、東欧諸国の経済力は相対的に低下し、ワルシャワ条約体制の中で民主化改革を望む声が高くなった。これに対しソ連は、対東欧の影響力低下を恐れて、時には軍事力をちらつかせながら、政治的な引き締めを強化した。逆に、アメリカとソ連の関係は、中東問題での協力、核兵器不拡散条約交渉の推進などを通じて、共存関係が確立されていった。

Plag0002 1968年、チェコスロヴァキアでアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に就任してから始まった、社会制度および政治制度全般の民主化を目指した「改革」運動は、「プラハの春」と呼ばれた。東欧地域における民主化運動の高揚に危機感を抱いたソ連は、ワルシャワ条約軍約5万人で国境を越えてチェコスロヴァキアに侵攻、ドゥプチェクを武力で排除してチェコスロバキアの社会主義体制を確保した。この時のソ連の論理は、「1国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義諸国の利益を守ために1国の主権は優先しない」というもので、ソ連共産党書記長の名前に因んで「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれた。
西側陣営、とくにアメリカは、ドゥプチェク指導部による改革運動に共感を寄せていたが、結局、具体的な行動をとることはなかった。すでにその枠組みが固まってきた冷戦構造下のヨーロッパで、、米ソのそれぞれの勢力圏に対する相互不干渉という暗黙のルールが出来上がっていった。

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1966年8月に開かれた中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議以後、中国では全土にわたっていわゆる「プロレタリア文化大革命」(文革)が広がり、社会、政治、経済、治安にわたる秩序の混乱が起きていた。
当時、毛沢東が推進していた「大躍進政策」は、人海戦術で世界最大規模の製鉄産業を興し、農村を人民公社に移行して食料の大増産と工業化を一気に進めようというものであったが、実際には、製鉄工場は実用不可能な屑鉄を大量に生み出し、食料は自然災害なども加わったため、多くの餓死者を出すような悲惨な状態になってしまった。
こうして、壮大な失敗に終わった大躍進政策だが、実はこの間に中国は核兵器開発では1964年の最初の核実験成功、1967年の水爆実験成功と、大きな成果を上げていた。米ソの超大国に追いつくために、毛沢東は急激な工業化と核開発政策を並行して進めていたのだ。全国の農村に作られた人民公社は、単なる農業生産組織ではなく、政治、経済、文化、軍事など国家と社会のあらゆる機能を兼ね備えた一種の「小国家」であり、もし非常事態で中央政府が壊滅しても、やがて中国を再生させる核となる存在だった。毛沢東は、中国が核攻撃を受けて、中国の人口の半分が死んでも、半分は生き残って、また元に戻っていくと、と発言して世界を驚かせたが、その根拠は人民公社の存在にあったわけだ。

Mao01 毛沢東は、1957年にソ連のスターリンから核兵器開発の技術援助を受ける協定を結んだ。以後、中国の核兵器開発は、ソ連の技術援助により進められた。中国は19世紀に帝国主義強国の侵略を受けた経験から、アメリカを中心とする西側陣営を帝国主義勢力として恐れ、対抗できるだけの軍事力を持つ必要性を強く感じていた。
しかし、キューバ危機で核戦争の危機に直面したばかりのフルシチョフは、こうした毛沢東の覇権志向と核武装路線を警戒し、ソ連は1959年に中国に対する核開発技術援助供与を一方的に打ち切った。これ以降、中国とソ連の関係は悪化し、毛沢東はソ連との同盟関係を反故にして、ソ連の社会主義陣営を離脱した。

劉少奇国家主席は、毛沢東の政策による混乱と民衆の生活の荒廃に心を痛め、毛沢東批判を強めた。これに対し、毛沢東は劉少奇や鄧小平などの批判勢力を、社会主義を裏切り資本主義に走る「走資派」と呼んで反撃し、若者を集めて紅衛兵を組織し、彼らを扇動して劉らを共産党から除籍した。周恩来は、毛沢東の核武装による国家建設の方針に賛成ではなかったが、表立って反抗するよりも、同士の立場で毛沢東の行過ぎにブレーキをかける役割を選んだ。 
劉少奇を失脚させ、実権を取り戻した毛沢東は、さらに高性能の核ミサイル開発を推進した。一方のソ連は、中国が核大国になる前に叩こうという考えに傾いていった。こうして、中ソの対立は双方のイデオロギー上の非難合戦の裏側で、軍事的衝突、すなわち戦争に向けて緊張が高まっていった。

1968年のワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキアへの介入を見て、中国はソ連の軍事的拡張政策を恐れ、厳戒態勢に入る。そして、1969年3月に、ウスリー川(黒龍江)ダマンスキー島(珍宝島)で中ソ両軍が衝突し、中ソ国境紛争が勃発した。これをきっかけに中ソ両国が全面戦争の態勢に入ったため、核戦争の可能性が生起した。
結局、ベトナム戦争のために日本や韓国に大きな兵力を駐留させていたアメリカの存在を警戒したソ連は、コスイギン首相が北ベトナムのホー・チ・ミン国家主席の葬儀参列の帰路、北京を訪問して周恩来と会談し、紛争を終結させることに合意し、戦争は回避された。

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1970年代を迎えて、米ソ二大超大国による緊張の下での安定という冷戦構造は、中国に続いて英国、フランスも核の保有に至り、平和維持が困難になってきた。ここに「バランスオブパワー」という概念を持ち込んで、複雑な外交政策で新しい安定状況を作り出そうとしたのが、ニクソン政権で安全保障担当補佐官の任に就くヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーだった。

第二章(4) 【1972年 モスクワ】 につづく。

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文明の黙示録(13)

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                   第二章 資本の野望 (2)

                   【 1963年 ダラス 】

F35_lightning10001 軍産複合体を生み出した背景が「ウォー・エコノミー(戦争経済)」の存在である。
そもそも軍産複合体は第二次世界大戦において、高度に発達してきた兵器とともに出来上がったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機、大砲、戦車などを作り出すためには軍事産業企業に頼らざるをえず、電子工学や原子力が兵器となると、その頭脳力を供給するために大学の協力が不可欠になった。大学で得られた研究成果は、ダウケミカル社、デュポン社、ロッキード社、ダグラス社などに下ろされ、これらを軍事産業企業が大量に生産する。
こうして出来上がった軍事産業関連企業と軍隊と政府が形成する政治的、経済的、軍事的な連合体を「軍産複合体(Military Industrial Complex)」と最初に呼んだのは第34代大統領ドワイト・アイゼンハワーだった。彼は1961年1月の大統領退任演説で、「軍産複合体」の危険性に関して、次のような警告を発している。
「第二次世界大戦まで、合衆国は緊急事態になるたびに軍備を備えて国防体制を作り上げてきたが、今後は巨大な恒常的兵器産業を持たざるをえなくなっている。350万人の男女が国防機構に常勤し、毎年合衆国の全企業の純利益より多い金額を安全保障に支出することになる。」「我々は、こうした軍産複合体の必要性は認めるが、政府も議会もこれら軍産複合体が不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、特に用心をしなければならない。この不当な力が発生する危険性は、現在存在するし、今後も存在し続けるだろう。」
このアイゼンハワーの後を次いで新大統領に就任したのは、民主党のジョン・F・ケネディだった。

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Johnlawson0001ここで、ケネディが上院議員に初当選した1952年まで話はさかのぼる。
1949年に中国共産党が中華人民共和国を成立させ、ソ連が原爆実験に成功するなど、共産主義への脅威が拡大する中で、この年、ウィスコンシン州選出の若き上院議員が、国務省で働いている共産党員205名の名簿を入手したと発言し、世間に衝撃をあたえた。ジョセフ・R・マッカーシー上院議員による「アカ狩り」である。
マッカーシーはその告発対象をアメリカ陸軍やマスコミ関係者、映画関係者や学者にまで広げるなど、マッカーシー旋風は1950年代初頭のアメリカを恐怖に包み込んだ。しかし、その後の調査で偽証や事実の歪曲が次第にマスコミで報道されると、人々の反感を招き、マッカーシーの影響力は失われた。上院はマッカーシーに対して不信任を突きつけ、「マッカーシズム=アメリカにおけるアカ狩り」は終焉した。
ケネディ家はマッカーシーとは公私にわたって親交が深く、弟のロバート(後の司法長官)は「アカ狩り」の舞台となったマッカーシー委員会の副調査官を務めたこともあった。ケネディは、「アカ狩り」に関してマッカーシーを支持する立場を取り、このことによって、後の大統領選挙で強い批判を受けて苦戦を強いられた。

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1995年になって、クリントン政権は「ヴェノナ文書」を公開した。ヴェノナ文書は、アメリカとソ連の間で交わされた電報を、1930年代から1940年代にかけて傍受し、暗号を解読した、米国家安全保障局(NSA)の記録文書である。ヴェノナ文書は、長くその存在を秘密にされたきたが、ソ連崩壊後のロシアのエリツィン政権が開示したコミンテルン記録文書の中から見つかった。
ロシアと米国の資料が突き合わされ、やがてアメリカにおける共産党の活動が明らかになりはじめた。アメリカの共産党は、米民主党を隠れ蓑にして、議会委員会に入り込んだり、情報機関を含む政府機関の浸透し、政策決定にまで影響を及ぼしていたのだ。中でも一番の大物は米財務省のナンバー2であり、政府内で最も影響力を持つ高官のハリー・デクスター・ホワイトである。ホワイトは、日本が太平洋戦争に踏み切るきっかけとなったアメリカの最後通告、「ハル・ノート」の起草者であり、戦後の経済体制を決定したブレトンウッズ会議のアメリカ代表であり、ジョン・メイナード・ケインズとともにIMF(国際通貨基金)を作った事務官であり、IMFの初代理事となった人物である。スターリンはホワイトを通じて、西側の重要な政策に関与できたのだ。
ヴェノナ文書の内容が明らかになるにつれて、マッカーシーの「アカ狩り」は近年になって再評価されるようになった。

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社会主義統制経済によって産業発展の速度が遅くなったソ連は、アメリカの巨大資本にとっては絶好の商品市場であったため、イデオロギーの対立よりビジネスが優先するという、極めて現実的な立場がとられた。多国籍企業を通じた対ソ連ビジネスの拡大と引換えに、核兵器の機密情報や西側の国際金融政策に関する情報などがソ連に渡された。
「冷戦」とは、実際に血を流さない戦争、という軍産複合体が作り出した妙策であり、緊張とデタントを繰り返し、時々の政治経済情勢に対して調整しながら、冷戦が続く限り、西側の国際金融資本も、社会主義独裁国家ソ連も、世界経済を掌握して利益を山分けすることができるようになっていたわけだ。これが戦後の東西冷戦構造の本質だった。

Jfkennedy0001 史上最年少で大統領に就任したケネディは、米ソの利益のために行き過ぎない東西の緊張関係を続ける、という冷戦の枠を踏み越えてしまう。最初は、ベルリン危機だった。
1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソ連のフルシチョフ書記長を相手に首脳会談に臨んだ。この会談でフルシチョフは、アメリカは、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべき、と主張したが、ケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告、明日にも戦争が起きそうな緊迫感が漂った。
ケネディの強硬姿勢に対してフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化、この後もベルリンをめぐって米ソの緊張は続いた。

次にケネディが直面したキューバ危機は、「世界が核戦争に最も接近した時」として伝えられる事件だ。
1962年10月14日、キューバとソ連の急速な接近を警戒してキューバ軍施設の偵察活動を継続していたアメリカ空軍は、ソ連がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した。ケネディは、ロバート・ケネディ司法長官らの提唱した海上封鎖を実施し、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開した。10月22日、潜水艦に守られてキューバ沖に接近していたソ連船18隻は洋上で停船、翌日にはこれら全隻がUターンしてソ連へ戻っていった。
フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意し、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避した、と世界中から高く評価された。
しかし、アメリカ政府内にソ連のスパイ網があったとすれば、ケネディが本気で核戦争を考えていたことをソ連は知っていて、ぎりぎりのところでフルシチョフが折れた、ということになる。米ソの地下のホットラインは、有効に機能したのだ。

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冷戦構造を長く継続して利益をあげたい軍産複合体にとって、本当に戦争を起こしてしまう危険のある大統領は問題である。
また、ケネディは1963年の「平和のための戦略」という演説において、ジュネーブ軍縮会議で全面的かつ完全な軍縮を行う、と語り、ソ連に後押しされた社会主義勢力によって政権転覆の危機にあったベトナムから、米軍事顧問団の早期撤退を指示した。(ケネディ暗殺によって大統領に就任したリンドン・ジョンソンが、すぐに米軍のベトナム直接介入を実行したことを見れば、ケネディのベトナム撤退が軍産複合体の期待に反するものであったことが明らかである。)
ケネディは経済政策でも鉄鋼業界と衝突し、USスティール社をはじめとする大手鉄鋼各社の値上げについて、司法省が独占禁止法違反の調査を始め、国防総省は値上げに加わらなかった鉄鋼会社から調達することを決定した。このような政府の動きを受けて鉄鋼各社は値上げを撤回する。ケネディは、石油業界に対しても長年ほどこされてきた特典(利益の27.5%を必要経費として自動的に認める)の廃止を真剣に考えていた。
こうしたケネディの政治姿勢が、アメリカの巨大な既得権益と次々と衝突していったことは想像に難くない。

Jfk0001 1963年11月22日、ケネディは遊説のためにジャクリーン夫人とともにテキサス州ダラスのラブフィールド空港からダウンタウンに向かっていた。大統領夫妻の乗ったオープントップに改造されたリンカーン・コンチネンタルのリムジンが、ディーレイプラザの大通りに進入した直後に、複数の弾丸がケネディに向かって撃たれた。
ジョン・F・ケネディ暗殺のニュースは、まさにその日行われた日本とアメリカ間の初のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本でも即座に報じられた。

第二章(3) 【1969年 北京】 につづく。

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緊急投稿 民主党小沢代表辞任

民主党の小沢代表が代表辞任の意向を表明した。

「バックサイドオブザワールド」の目的である世界の裏側の構造を描き出す目的で、「文明の黙示録」を連載中だが、小沢辞任の事態に緊急投稿する。

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03 先週10月31日と11月2日の福田首相と小沢代表の党首会談において、福田首相側から自民、民主両党がそれぞれの重要政策を実現するために連立政権を作りたい、との要請があった。福田首相の提案は、自衛隊の海外派遣に関する恒久法について、民主党の法案をそのまま受け入れる代わりに、年金問題などの国民の生活に関わる法案について両党で政策協議を開始したい、というものだった。
小沢氏は、その提案を党執行部に持ち帰ったが、この対応が政権交代を目指す民主党の代表としては不適切だった(その場で拒否を表明するべきだった)との批判を浴びた。

党首会談について、一時は「民主党の小沢氏側から要請があった」という情報が流れたが、これは事実ではないようだ。この会談に先立って、読売新聞グループ本社代表の渡辺恒雄氏が自民・民主の大連立を画策していたが、渡辺氏や日本テレビ取締役会議長氏家斉一郎氏、中曽根康弘元首相らによって党首会談がセットされたことは間違いない。そして、福田・小沢党首会談後の報道で、「小沢謀略説」を一面トップで流したのが読売新聞だ。渡辺氏らは、安倍前首相辞任後の後継総裁選でも、福田政権の誕生にも大きな役割を果たし、自民党政権の延命に必死になっているが、日本最大発行部数を誇る大新聞社が、政治色の強い脚色記事を書きたてていることは厳しく糾弾されるべきだろう。
さらに言えば、渡辺氏らの後ろにアメリカ政府の影も見え隠れする。「対テロ特措法」の期限切れで自衛隊の給油艦が任務を終了することについて、ゲーツ国防長官らホワイトハウスからは日米関係への影響は無い、とのメッセージが発せられる一方で、シーファー駐日大使はしつこく自衛隊の給油活動継続を要請し、日本が国際社会から批判を受ける可能性に触れて、日本の国内世論の誘導を謀ってきた。
アメリカの目的は、差し当たってインド洋での日本の給油と給水活動という貢献が、直接的にアメリカの軍事費負担軽減という国益に適うことと、米国従属の自民党に引き続き政権維持をして欲しい、ということだろう。

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01 小沢氏の記者会見での説明では、次の衆議院選挙で民主党が政権を取る見通しは明るくなく、今、自民党と政策協議の実績を作って政権担当能力を実証することが重要だ、という考えだったという。しかし、この説明はそのまま受け取ることはできない。
まず、年内あるいは年明け早々に衆議院解散総選挙があれば、民主党が多数議席を獲得する可能性が高いだろう。それゆえ、リベラルの立場というより自民党の保守本流に近い考え方を持つ民主党内の一部勢力は、選挙までは民主党に留まろう、という考えを固めている。
筆者は、以前から小沢氏の政治家としての最大目標は保守とリベラルの立場を明確にした二大政党制の実現だ、と見てきた。そのためには、政界再編がどうしても必要になる。さらに言うならば、小沢氏自身が保守の立場なのであって、リベラルの民主党代表というのは便宜上の仮の立場に過ぎない。

先の参議院選挙で民主党が圧勝した結果、次の衆議院選挙に向けて政界再編の動きが鈍くなってしまったのは、小沢氏にとってはある種の誤算だったのではないだろうか。安倍氏に代わって福田氏が首相になり挙党体制になったことで、自民党側の分裂の芽も萎んでしまった。小沢氏は、自らが起爆剤となって、この予想外の膠着状況を壊して、政界再編の動きを引き出そうとしている、と考えられる。
02 2000年の森内閣時代の「加藤の乱」以来、評論化然として政治の第一線から一歩も二歩も引いていた加藤紘一氏の活動が、最近活発になってきた。彼も、自民党内に留まらず、リベラルの勢力のリーダーになるべきプレーヤーなのだ。小沢氏に遠慮して、従順な副代表職を務めてきた菅直人氏も、これで自身の主張をはっきり言えるようになるだろう。郵政選挙の敗北で引責辞任した岡田克也元代表も復権してくるだろう。国民新党の亀井静香氏や、無所属の平沼赳夫氏はどう出るか。
小沢氏の代表辞任によって、政界再編劇の予鈴が鳴った、ということだ。

文明の黙示録 第二章(2) 【1963年 ダラス】 は、明日掲載します。

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文明の黙示録(12)

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                   第二章 資本の野望 (1)

                   【 1944年 ブレトンウッズ 】

Bwoods01 第二次大戦が終わる前年の1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズに44ヵ国の代表が集まり、戦後の国際通貨体制のあり方をめぐって協議が行なわれた。戦後の国際社会で、第三世界(資源保有国)を取り込んだグローバル経済を見越して、戦前のアメリカの大恐慌や、大戦の原因となった経済のブロック化を防ぎ、より安定的に世界の経済を発展させる仕組み作りが議題だった。
英国代表のジョン・メイナード・ケインズが提案した案は、世界中央銀行的な性格の国際組織を作り、加盟国が各国間取引をその組織内の口座を使って相互振替で行うというもので、その組織の中だけで通用する新通貨「バンコール」の創設を提案していた。この方式であれば、戦争で荒廃した欧州各国のように手持ち資金がなくても、当座貸越しで貿易は可能になる。一方のアメリカ代表のハリー・デクスター・ホワイト案は、各国からの資金の拠出によって基金を設立し、その基金が各国に必要資金を貸し付ける、という既存の国際間取引の円滑化を狙いとしていた。すでに国際通貨として力を持っていた米ドルを世界基軸通貨と認めさせる方策だった。
英国は、二度の大戦で疲弊した経済の建直しが急務だったため、新通貨を創設して早急に貿易が拡大する方向を求めたが、アメリカは今や世界最大の債権国となっていて、戦後世界を再建するリーダーとして自国通貨の米ドルの覇権を確立することを考えていたのだった。22日間にも及ぶ協議の末、いずれの国も戦後復興にアメリカの協力を求めざるを得ないという事情から、結論はアメリカ案への妥協しかありえなかった。こうして「ブレトンウッズ体制」という戦後の世界経済の枠組みが決められ、国際通貨基金(IMF)や世界銀行が創設されることになった。

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ブレトンウッズ協定によって、米ドルは英国ポンドに取って代わる世界的準備通貨として地位を確固たるものとした。アメリカの政治的、軍事的影響力によって、またアメリカが保有する膨大な金によって、全世界は米ドル(35分の1オンスの金に等価と決められた)を準備通貨として受け入れた。ドルは「金同然」となり、決められた比率で外国の中央銀行が交換可能であった。
IMFと世界銀行は、石油やダイヤモンドなどの資源を持っている第三世界の国々に開発援助資金を貸し出した。もちろん、米ドルで、である。彼らは、借入金の返済にドルを用意しなければならないため、瞬く間にドル経済圏に組み込まれた。アメリカの多国籍企業にとっては、世界中に次々と市場が開けていった。
Nixon0001_2こうして第三世界がドル経済圏に加えられる過程で、朝鮮戦争、インドシナ戦争、アルジェ リア戦争、ベトナム戦争などが続発した経過から見れば、 ブレトンウッズ体制とは第三世界諸国を経済的植民地化するという側面もあったと言える。
米ドル経済圏は世界中に広がり、アメリカが発行する米ドルはすぐに保有する金の量を超える規模になった。その時アメリカは、突然金と米ドルとの交換の約束を反故にした(1971年ニクソン・ショック)。これまで、一時的に金本位制や銀本位制が停止されたことはあったが、「兌換貨幣」でない「紙幣」それ自体が価値をもつという事態は、歴史上初めてだった。

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ブレトンウッズ体制後の世界経済におけるドルの動きを追ってみよう。
第二次世界大戦が終わると、アメリカ政府は「共産主義に対する防御」を大義名分として、西側陣営諸国に対外援助を積極的に行なった。1948年から1951年までの4年間に、西欧諸国に対して戦後復興資金として、当時としては巨額な125億ドルを貸し付けた。
トルーマン政権で世界の金融政策を担当していたジョージ・マーシャル国務長官の名前をつけた「マーシャル・プラン」は、ヨーロッパの国々が必要としていた食料や石油をアメリカから購入するために、アメリカ政府が政府借款として復興援助のドル資金を貸し付ける代わりに、その資金をアメリカの銀行に預金させた。これにより、ドルは世界で最も信用のある通貨となり、アメリカの銀行は世界主要都市に進出し、信用創造メカニズムが機能し始め、資本主義経済が急速に興隆して、世界経済が立ち直った。こうして、世界経済におけるアメリカの覇権が確立された。
ソ連や共産主義に対する恐怖、脅威を盛んに煽ることで、石油産業と結び付いたアメリカの兵器産業が潤ったのはいうまでもない。そして、西欧経済や日本経済がアメリカの資本主義経済システムに組み入れられると、政治外交面では、軍事同盟としてのNATO(北大西洋条約機構)体制や日米安全保障条約を成立させて、アメリカは文字どおり世界覇権国家となった。

ブレトンウッズ協定以降の米ドルの世界基軸通貨としての価値は、1971年8月15日にニクソン大統領が議会にも事前に知らせずに米ドルと金との交換停止を宣言したニクソン・ショック(ドル・ショック)によって不安定なものになった。そこで、アメリカは、OPECとの間で全世界の原油価格を独占的に米ドルで値決めするという協定を結び、米ドルの価値を原油によって「裏付け」るという手段をとった。
アメリカは、ペルシャ湾岸の豊富な石油を有する様々な王国の政権を守ることが必要となり、この地域での反政府勢力は反米イスラム過激派へと変質した。

各国の銀行は、石油に裏づけされた米ドルを国際通貨として認め、その後も米ドル覇権の時代が現在まで継続している。この仕組みによって、米ドルを発行するアメリカは巨大な経済的利益を手に入れる事ができた。しかし、長期的には米ドルの信用の安定を守るという大きな義務が生じた。世界各国が実物経済の取引の単位通貨として米ドルを認める限り、アメリカの覇権は安泰である。しかし、米ドルの価値が下がる場合には、諸外国は米ドルでの決済を歓迎しなくなるだろう。あるいは米ドル決済が拒否される様な事態になると、アメリカの世界覇権は終焉する。特に、アメリカは米ドルと石油の関係に敏感にならざるを得ない。
Husayn001 2000年11月、イラクのサダム・フセイン大統領は石油輸出をユーロ建てにすることを決定した。ブッシュ政権のポール・オニール財務長官は、2001年の新政権の初回の閣僚会議の最も主要な議題は、どの様にしてサダム・フセインを追放するかである、と語った。アメリカがサダム・フセインの排除を話し合ったのは、9.11の事件の前だったのだ。
イラク戦争の軍事的勝利の直後から、イラクの原油輸出は全てドル建てとなった。
2001年にはベネズエラの駐露大使が、原油輸出を全てユーロ建てにすることを口にした。その直後に、ベネズエラのチャベス政権に対するクーデターが起きたが、それはCIAの協力によるものであったと伝えられる。このクーデターが起こると、ユーロに対する米ドルの大幅な下落は止まり、上昇に転じた。
2006年3月には、イランが石油取引所を開設すると宣言した。この新しい石油取引所での取引がユーロ建てで行われるという情報が広がると、ブッシュ政権はイランの核開発疑惑などを持ち出して、イラン攻撃の可能性に再三触れるようになった。

また、アメリカ政府は米ドルの価値を維持するために、政府の財政赤字を出来るだけ改善しなければならない。このため、1991年の湾岸戦争以来、戦争支出の多くの部分を同盟国に負担を要求している。特に、日本はその面で大きな役割を果たしている。

90年代には、世界で拡大したドル経済のグローバリゼーションによって、アメリカの投資ファンドやヘッジファンドなどが国際金融資本の利潤追求のために発展途上国を経済的破綻に追い込んだ。97年夏のアジア通貨危機は最も顕著な例となった。
しかも、この時国際金融資本はIMFや世界銀行に債務返済に必要な資金を破綻した国々に提供させ、それと引き換えに、医療や産業育成への補助金など民衆の生存に欠かせない政府支出の大幅削減と、国際金融資本のビジネスを拡大するための規制緩和をセットにした「構造調整プログラム(SAP)」を、債務国政府に強要した。
設立当初は内政不干渉の原則を堅持していたIMFと世銀だったが、今や「世界金融システムの指導者をもって任じる世銀とIMFが、まるで破産管財人のように介入して、事実上の破産に追い込まれた国々の清算事業に乗り出す」(デビット・コーテン著『グローバル経済という怪物』97年シュプリンガー東京刊)という状態になっている。

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ところで、ブレトンウッズ会議のアメリカ全権代表で、世銀やIMFの創設の中心的役割を果たしたハリー・デクスター・ホワイトは、1948年アメリカ下院非米活動委員会において、ソ連のスパイであることを指摘された。ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定したが、その直後、薬物を大量服用し不可解な死を遂げてしまった。(ホワイトがソ連のスパイであったことは、近年発見された文書によって証明された。)
では、ブレトンウッズ会議とアメリカの戦後戦略を知っていたであろうソ連は、どのように反応したのだろうか?ソ連は、IMFへの参加を拒否すると、1947年にコミンフォルムを結成して、東欧諸国を友好・協力・相互援助の結束で固めていった。それまで、異なる社会主義国家形成過程のために不均等でバラバラだった東欧諸国は、ソ連を盟主とした政治的、軍事的結束を強め、アメリカを中心とする西側自由主義圏に対抗する東側社会主義圏が形成された。こうして、戦後半世紀近く続く「冷戦」の構造が出来上がっていった。

第二章(2) 【1963年 ダラス】 につづく。

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文明の黙示録(11)

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                   第一章 帝国の興亡 (7)

                   【 1948年 テルアビブ 】

01 中東で石油が初めて採掘されたのは、1908年、南イランのキルクークで英国人ウィリアム・ダーシーによってであった。彼が設立したアングロ・ペルシアン石油がのちのブリティッシュ・ペトロリアム(BP)であるが、これ以降、先進国のエネルギーが石炭から石油に切り替わっていく中で、石油資源をめぐる先進国の利権争いに中東各国は翻弄されていった。

イラク地域では1912年、英国とドイツがトルコ石油を設立、第一次世界大戦でドイツが利権を失うと、代わって1920年にフランスが資本参加して、イラク石油(IPC)が誕生した。中東の石油を獲得したいアメリカは、IPCへの参加を求めたが、アメリカの進出を阻止したい欧州グループは、旧オスマントルコ領域を赤い線で囲って(赤線協定)、アメリカの割込みを阻止しようとした。しかし、米系の石油会社ソーカル( Standard Oil of California)は1932年に「赤線」に含まれないバーレーンで石油を発見、これを足場にサウジアラビアから石油利権を獲得してアラムコ(アメリカ・アラビア石油会社)を設立した。1938年に、ソーカルはサウジアラビア最大の油田ガワール油田(700億バーレル)を発見、同年米系ガルフは、クウェートで大油田を掘りあてた。

1950年から60年代半ばにかけて中東では次々と巨大油田が発見されていくが、世界の石油利権は「セブン・シスターズ」と呼ばれる巨大メジャーによって支配されるようになった。

「セブン・シスターズ」(7人の魔女)とは次の7社である。
■ エクソン   アメリカ
■ ロイヤルダッチ・シェル 英国とオランダの合弁会社
■ BP      英国
■ モービル   アメリカ
■ ソーカル   アメリカ(のちにガルフ石油と合併「シェブロン」へ)
■ テキサコ   アメリカ
■ ガルフ    アメリカ(のちにソーカルと合併「シェブロン」へ)

しかし、セブン・シスターズは石油価格の管理と富の独占は国際的カルテルとして非難を浴び、中東産油国との間で利益配分をめぐる厳しい交渉が始まった。このような情勢下、アラブ諸国は結束を強め、ついに1960年、OPEC(石油輸出国機構)が結成された。

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ロシア革命ででソビエト政府が誕生すると、レーニンは1918年1月、帝政時代のイランに対する権益を一方的に放棄し、ロシア軍のイランからの撤退とイランの独立の全面的承認を宣言した。
ロシア撤退をうけて、英国はイラン全域を支配しようとしたが、イラン国内では反英民族運動が大きな高まりを示し、その後、イランは軍部独裁化し、軍部が政治の実権を握るようになった。軍を掌握していたレザー・ハーンは、1925年10月、独裁に反対する宗教指導者や議会政治家の声を押し切って臨時政権を握ると、12月にはレザー=シャーと名乗りってパーレビ朝を樹立し、初代国王となった。

イランでは、アングロ・イラニアン石油会社(のちのBP)が石油の一切の権利を独占支配していたが、モハンマド・モサデクが先頭に立って石油国有化を要求する運動が起こり、イスラム聖職者や共産党も参加した民族運動に発展した。イランでの石油利権を望むアメリカも、最初はこの運動を支持していた。
モサデクは1951年に首相となり、議会で国有化法案を可決し、イラン国営石油公社(NIOC)を設立した。これに対し、英国はフランス、アメリカを巻き込んでイラン石油を市場から締め出したため、イランの財政は窮乏し、石油国有化運動の熱は急速に冷めていった。結局、1953年に国王を支持するザヘディ将軍によるクーデターによってモサデク政権は倒され、パーレビ国王は再び権力を握った。これにより、イランの石油資本は再び外国資本へ移ったが、英国がそれを独占することはできず、7大石油会社(セブン・シスターズ)から形成される国際合弁会社が創設された。
このモサデク政権打倒のクーデターには、裏でアメリカCIAが介入していたとされている。

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アラビア半島では、アブドゥル・アジズによって1932年にサウジアラビア王国が建国された。
アラビア半島には石油は出ないと思われていたが、イラン/イラク地域での石油利権争いに出遅れたアメリカは、1931年、アル・ハサ地方のジャバル・ダンマーン周辺の地質調査によって石油埋蔵の可能性を発見した。この報告を知ったソーカルは、アブドゥル・アジズから60年間の独占採掘権を獲得し、1933年末、ソーカルの子会社カソック(カリフォルニア・アラビアン・スタンダード石油)を設立し、1936年にはテキサコも資本参加した。

0001第二次世界大戦が始まると、タンカーの航行が危険となって、石油の輸出は低迷した。一 時は、戦争の影響で聖地巡礼者の数も激減し、サウジアラビアの財政収入は危機に陥ったが、もっぱら自国産の石油を戦争で消費していたアメリカは、その資源枯渇の心配からサウジアラビアに対する援助を再開した。カソックは1944年に「アラビアン・アメリカ石油会社」(「アラムコ」)と改称され、さらに、1947年に、ソーカルとテキサコ両社はエクソンとモービルを資本参加させ、アラムコの生産体制は巨大なものになった。その後も、サウジアラビアの石油生産高は増え続け、国家財政は潤うようになった。1960年までに、サウジアラビア政府の収入に占める石油収入の割合は実に81%にのぼるまでになる。

アラムコ本社が置かれたダラハーンはアメリカ的な都市景観を呈すようになり、1951年には防衛協定によってアメリカ空軍基地が置かれた。アブドゥル・アジズは莫大な石油収入を一族や側近にばらまいたので、王子たちは西欧への訪問、贅沢と遊興にふけり、腐敗堕落した王子たちによる事件も相次いだ。
サウジアラビアは中東における親米国家として、その後のアメリカの中東政策で重要な役割を果たした。国王一族とアメリカの関係は密接なものであったが、一方、国民の中には反米意識を持つ者も増えていった。

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シオニスト(パレスチナの地にユダヤ人国家を作ろうという運動家)にとって、イスラエル建国は単なる夢にすぎなかった。第二次世界大戦前のパレスチナは、シナイ半島を含まないヨルダン川両岸、レバノンを指し南シリアと呼ばれていた。この地の人口は1914年に80万人程度、そのうちユダヤ人は多く見積もっても12%に達しなかった。

しかし、第一次世界大戦前からユダヤ人のパレスチナ入植は急増し、それをロスチャイルド財閥のような大きな資本家が支援したため、パレスチナ地方のユダヤ人人口は急増した。そのような中、英国は1922年、「チャーチル白書」を発表、バルフォア宣言に基づいてパレスティナにユダヤ国家を建設することを改めて宣言した。これに対して、アラブ側は独自にアラブ執行委員会を設置し、パレスチナにアラブ民族国家樹立を目指した。
当初、英国によるパレスチナ委任統治政府の施策はユダヤ人よりのものであったが、第二次大戦が近づくにつれて英国は親ユダヤの姿勢を崩していく。なぜなら、中東のアラブ諸国家が「反ユダヤ」という点でナチスドイツと協調することを恐れたためである。
第二次大戦で各地でユダヤ人虐殺が始まると、ユダヤ難民はパレスティナに流れ込もうとしたが、英国政府によって拒否されることになった。このように親ユダヤから親アラブへの方向転換を行った英国に失望したシオニストたちは、その活動の舞台をアメリカへ移した。これ以降、アメリカではシオニストが圧力団体として急速に成長する。

第二次大戦後、1947年2月に英国はパレスチナの統治能力を喪失したことを認め、この問題を国連に移管した。国連特別総会は、パレスチナ問題を調査するための特別委員会(UNSCOP)を設置し、現地調査派遣を決定した。
この委員会の報告書に基づいて、「パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、聖地エルサレムとベツレヘムは国連による永久信託統治する」という案が審議された。この時は可決に必要な3分の2の賛成を得られなかったが、ここから、シオニストとアメリカによる猛烈な多数派工作が展開された。
アメリカ国内には、多くのユダヤ人社会が存在し、選挙母胎としての圧力をかけていた。また、財界の実力者にもユダヤ人が多く、政府に圧力をかけた。ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領は、「ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない」といって、ユダヤ人国家の創設に賛成した。
1947年11月29日、国連総会はパレスチナ分割案を賛成33、反対13、棄権10をもって可決した。シオニストは即日イスラエル国家の設立を宣言し、アメリカは直ちにこれを承認し、3日後にソビエトもこれに倣い、イスエラルは建国された。

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0001_2 このイスラエル建国を、アラブ諸国が黙ってみているわけがなく、1948年5月14日、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、サウジアラビア、イラクのアラブ連合軍は、イスラエルの殲滅を目指してパレスチナに攻め込んだ。第一次中東戦争の勃発である。
建国したばかりで正規軍を持たず、チェコ製の戦車や戦闘機があっても、訓練された乗組員が居ないという状態のイスラエルは劣勢明らかで、あっという間にヨルダン側から進入したアラブ軍にエルサレムが包囲された。テルアビブ大本営のベングリオン初代首相は、エルサレム放棄はイスラエル建国を放棄するも同然である、と徹底抗戦を決意したが、すでに南側からもエジプト軍がテルアビブへ迫りつつあり、絶体絶命の状況だった。
そこに、世界中から第二次世界大戦を戦ったユダヤ人たちが集まってきて、イスラエルの奇跡の反撃が始まる。先の大戦で航空戦を戦ったユダヤ人パイロットたちは、チェコ語で書かれたフライトマニュアルにてこずりながらも、大戦では敵の戦闘機だったメッサーシュミットを乗りこなした。さらに英国製の戦闘機も到着し、航空戦でイスラエル軍が一気に優勢になった。地上戦でも、チェコの中古兵器市場から対戦車砲を調達すると反撃が開始され、元ソビエト赤軍戦車部隊の指揮官に率いられたイスラエル機甲部隊は、エジプト領内にまで侵入した。

1949年2月23日、英国の仲裁でエジプトとの停戦が合意されて、中東戦争は無期限の停戦となった。結局イスラエルの国土は、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原をのぞく国境線を確保することになった。
こうして開戦前より国土を大きく拡張したイスラエルだったが、戦争中および戦後のユダヤ機関によるアラブ住民へのテロ行為の結果、多くのアラブ人がイスラエル領から追い出され、パレスチナ難民問題という新たな国際問題を引き起こした。

第二章(1) 【1944年 ブレトンウッズ】 につづく。

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文明の黙示録(10)

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                   第一章 帝国の興亡 (6)

                   【 1941年 ホノルル 】

Dc02 第一次世界大戦の結果、ドイツ帝国は崩壊し、戦勝国とはいえフランス、イタリアは弱体化してしまった。東アジアにおいて有力な帝国主義として残ったのは英国、日本、それに新たに登場したアメリカの三国のみとなった。
東アジア商圏に参入したいアメリカは、門戸開放、機会均等主義を主張し、国際秩序の再構築のために、英国を巻き込んで1921年に「ワシントン会議」を招集した。ワシントン会議の狙いは、明らかに日露戦争及び第一次世界大戦によって日本が築き上げた大陸の利権を米英中連携のもとに否定してしまうことにあった。
会議における決定事項には、次のようなものがあった。
(1)日英同盟の廃棄
(2)日本海軍の軍備制限
(3)日本の満州における権益の放棄

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アメリカは、ワシントン会議で日本と条約を結んでいた中国の北京政府ではなく、国民党政府を支援し、日支条約の否認、日本の満州権益の即時回収を提案させた。また、イデオロギー的に敵対していたソ連に対しても、米ソ協調路線をとり、日本の満州権益をめぐる反日包囲網に組み入れていった。後に行なわれるABCD包囲網に先立って、アメリカは中国大陸から日本を追放するための反日包囲網を形成していった。日本側では、こうしたアメリカに対する不信が高まり、特に軍部は日本政府の国際協調路線に批判的になっていった。
日本を中国大陸から駆逐すれば、アジアに平和が回復し、アメリカはその中で商業的利益を独占できる、との考えが主流となる中で、アメリカの識者の中には日本の立場に理解を示し、このままアメリカの政策を変更しなければついには日米戦争に至る、との警告を行なった者もいたが、こうした声は米国外交には反映されることがなかった。
アメリカは中国側への軍事援助を増大させながら、一方では日本に対する経済制裁を次第に強化していった。

アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、次のような日本を擁護する言葉を残している。
「アメリカ国民の85%は、いかなる外国における戦争に対しても米軍を派遣することに反対していたにも関わらず、ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。〈中略〉日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても野心を有していなかった。しかし、国家としての日本は、その工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。」「平和主義者の日本の近衛首相は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したい、と繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日本戦を行なうことを決意していたために、日本首相との話し合いを拒否した。」

当時の米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトを裏で操っていたとされるのが、バーナード・バルークとヘンリー・モーゲンソー・ジュニアら国際金融資本家だった。
「ウォール街 伝説の相場師」と呼ばれるバルークは、第一次世界大戦中は、総力戦体制の遂行のために設置された「戦時産業調整委員会」の委員長を務め、軍需工場のすべてを掌握し、軍事予算から膨大な利益を得た。戦争で大きな利益を得る方法を知ったバルークは、第二次世界大戦の火蓋がヨーロッパ戦線で切られるとルーズベルト大統領に参戦をしつこく進言し、日本との開戦にも積極的だった。バルークは、原爆開発の有力な支援者で、「マンハッタン計画」を指導し、これを大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材の投入を決定させた。原爆の対日使用を積極的にすすめたのも、大統領顧問の立場にあったバルークである(彼は京都への原爆投下を主張していた)。
ルーズベルト政権の財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアは、アメリカを戦争に入らせるためには日本によるアメリカへの攻撃が必要だと考え、日本を追い詰めるために経済的に締め上げる政策を提案した。モーゲンソージュニアの父親は、銀行家ゴールドスミス一族で、ロスチャイルド家の血縁にあたる。

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China_war01日本政府はワシントン条約を受け入れ、米英との協調路線を模索したが、日本を戦争に 追い込みたい勢力は中国人に排日・反日思想を広め、満州では張学良を使って日本軍との紛争を仕掛けて情勢を不安定にした。
ついに、1931年9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖での関東軍(大日本帝国陸軍)による南満州鉄道の爆破事件(柳条湖事件)に端を発し、満州事変が勃発する。これ以降、関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化し、日本では軍部が発言力を強めて日中事変(日中戦争)に突き進む。
ところで、満州事変でも日中事変でも、日本と中国はお互いに『宣戦布告』をしていない(このため、この2つの事件は最近まで「戦争」と呼ばれなかった)。これは、当時アメリカに「中立法」というものがあって、交戦国に対する融資や武器輸出を禁じていたことに起因する。日中両国にとっては、もし宣戦布告をすると、アメリカから武器を輸入できなくなるし、同様に、アメリカの武器メーカーもせっかくの大量注文を受けられなくなってしまう。実際、ボーイング、ロッキード、ダグラス、カーチスなどの航空機メーカーは日中戦争のおかげで倒産の危機から立ち直ったのだった。だから、アメリカは「日中事変」を戦争とは認定せず、武器輸出を続けた。

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Pearl_harbor01 日本軍による仏印進駐への対抗措置として、1941年7月以降アメリカ、英国、オランダなどにより日本に対して行われてきた石油および鉄の禁輸や日本資産の凍結(いわゆるABCD包囲網)で、経済的に圧迫され追い詰められた日本は、11月から妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカなどと最後の交渉を続ける一方、海軍機動部隊をアメリカ太平洋艦隊の基地となっているハワイ・オアフ島ホノルル近郊の真珠湾に向かわせた。
1941年11月20日、アメリカ国務長官コーデル・ハルは、日本が提案していた戦争回避のための妥協案への回答を提示した(いわゆるハル・ノート)。ハル・ノートで提示された10項目は、とても日本が受け入れられる内容ではなく、東郷茂徳外相は「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。」と述べた。当時総理大臣だった東条英機は、これを最後通牒と受け取り、12月1日の御前会議において対英米との開戦が決議された。
択捉島の単冠湾を出航していた海軍機動部隊に向けて「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の攻撃命令が発せられたのは、12月1日午後5時30分だった。

第一章(7) 【1948年 テルアビブ】 につづく。

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