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文明の黙示録(23)

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                   第二章 資本の野望 (12)

                   【 1998年 カンダハル 】

Oslo_process01 イスラエル建国以来、中東和平はパレスチナ難民問題によって行き詰っていた。集団交渉では何の進展もない状況を打開するべく、1991年にスペインのマドリードで行われた中東和平会議では、イスラエルとアラブ諸国が個別に交渉する単独交渉方式が認められ、1994年10月にはイスラエルとヨルダンの講和が成立した。
また、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)もノルウェーの仲介で秘密交渉を行い、1993年9月にイスラエル政府とPLOの相互承認とガザ地区・西岸地区におけるパレスチナ人の暫定自治を定めたオスロ合意にこぎつけた。これにより、イスラエル政府はヨルダン川西側とガザ地区で、パレスチナ人による5年間の暫定自治を認め、さらにその後で占領地の最終的地位を交渉してパレスチナ問題の解決を図ることになった。
世界はイスラエルとPLOの共存に向けた握手に喜び、1994年のノーベル平和賞は、イスラエルのイツハク・ラビン首相とシモン・ペレス外相、そしてPLOのヤーセル・アラファト議長に贈られた。

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しかし、オスロ合意はイスラエル内の右派勢力には容認できない内容だった。イスラエル右派は「占領地」と呼ばれる地域も歴史的にイスラエルの国土と見なしており、それらの「割譲」につながる合意は絶対に認めることはできなかった。
1995年11月、テルアビブの平和集会に参加していたラビン首相は、参加者の中の一人の若者の凶弾に倒れた。その暗殺者、イスラエル人イガル・アミルは、イスラエル防諜部の情報提供者だったため、人々は、平和を創設した首相が自国の反対勢力の陰謀の犠牲となった、と推測した。

1996年の総選挙で右派リクード党のネタニヤフ政権が成立すると、オスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。その後は、イスラエルの抑圧的な占領政策によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、パレスチナ人のイスラエルへの不信が増大した。2000年9月にはアリエル・シャロン(当時リクード党党首)がエルサレムの聖地「神殿の丘」に立ち入ったことに端を発するパレスチナ群集とイスラエル警察の衝突が、アル・アクサ・インティファーダと呼ばれる暴力的な対立に拡大し、オスロ・プロセスは事実上崩壊した。

実は、イスラエル内にはパレスチナ問題を、もっと大きな中東世界再編戦略の枠組みで解決しよう、と考える勢力があった。彼らは、ヨルダンをパレスチナ人の国家とする代わりに、ヨルダン王室のハーシム家にイラクを与えることで中東世界を安定した組み立てに改造する、という壮大なプランを持っている。イスラエルは「占領地域」を含む領土を獲得し、イスラム教の預言者ムハマンドの血を引くアラブの正統王室ハーシム家は、ヨルダンよりも広大な土地と豊かな石油資源を手に入れる。イスラエルに敵対するシリアも動きを封じられることになるので、中東情勢は劇的に安定する。
しかし、このプランの実現のためには、現在のイラクを解体する必要があった。

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Usama01_21993年2月にニューヨークで起こった世界貿易センタービル爆破事件、95年5月のエジプトのムバラク大統領暗殺未遂事件、同年11月のサウジアラビアのリヤド国家防衛隊施設爆破事件など、続発するイスラム過激派によるテロ事件の黒幕をオサマ・ビンラディンと見るアメリカやサウジアラビア当局は、オサマを庇護するスーダン政府に対する圧力を強めた。このため、1996年5月18日、オサマはスーダンからアフガニスタンに移り、アフガニスタンを統一しつつあったタリバンの本拠地、カンダハルに入った。
オサマは、1996年8月に、「聖地を占領するアメリカ人に対する宣戦布告」を発し「パレスチナやレバノン、イラクでのイスラム教徒の犠牲はユダヤ十字軍の仕業」として、サウジアラビア、アメリカ、イスラエルを厳しく批判した。

厳格にイスラム教原理を重んじる神学生たちの集団であるタリバンは、オサマ・ビンラディンを擁護した。
1998年4月15日付のAP通信によれば、タリバン政権のアブドゥルハキーム・ムジャーヒド駐パキスタン大使は「オサマは、われわれのゲストとしてカンダハルに住んでいる。アフガン人はゲストを尊重する」と語った。また同年6月15日、タリバン政権のムハンマド・ラバニ諮問評議会議長は「オサマはアフガニスタンに賓客として受け入れられている」との発表を行った。アフガニスタンの統制のために、オサマからタリバンに対しての資金提供が行われていたという理由もあるようだ。

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Pipeline ソ連が消滅した結果、カスピ海やアラル海沿岸の中央アジアに埋蔵される莫大な量の石油や天然ガスが、アメリカをはじめとする旧西側諸国にも開放された。アメリカの石油メジャーは、中央アジアで掘削した石油や天然ガスをインド洋まで運ぶために、北部アフガニスタンからパキスタンを経由してアラビア海に搬出する計画を立てた。

1995年、アメリカ石油メジャーのユノカル社が、カスピ海からアフガニスタン、パキスタンを経由してアラビア海に天然ガスを搬出するパイプライン敷設計画を立てて関係当事者に交渉を始めた。このときの交渉代理人はヘンリー・キッシンジャー元国務長官、、ザルメイ・ハリルサド氏(パシュトン人で後のブッシュ政権での駐アフガニスタン特使)、そしてハミド・カルザイ氏(パシュトン人で後のアフガニスタン大統領)だった。
1997年12月17日の英テレグラフ紙は「米石油王、テキサスでタリバンをもてなす」という見出しで、タリバン代表団がアメリカの石油メジャーにテキサスに招待され、VIP待遇で接待されている様子を報じた。

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しかし、1998年8月、ユノカル社が進めてきたアフガニスタンでのパイプライン敷設計画は突然中断された。
この年、オサマは「ユダヤと十字軍との戦闘のための世界イスラム戦線」を結成し、アメリカ人であれば軍人、民間人を問わず殺害せよ、というイスラム最強の指令「ファトワ」を発した。
ユノカルのプロジェクトにはサウジアラビアのデルタ石油とニンガルチョ社も参加していたため、アメリカとサウジアラビアに激しい敵意を持つオサマが、タリバンに対してパイプラインの交渉を打ち切るように指示をしたと考えられる。
巨大な石油利権のプロジェクトを妨害され、面子を潰されたアメリカが、オサマ・ビンラディンを何としても排除すべき存在、と認識するのは当然だった。

第二章(13) 【1998年 ワシントンDC】 につづく。

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