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文明の黙示録(13)

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                   第二章 資本の野望 (2)

                   【 1963年 ダラス 】

F35_lightning10001 軍産複合体を生み出した背景が「ウォー・エコノミー(戦争経済)」の存在である。
そもそも軍産複合体は第二次世界大戦において、高度に発達してきた兵器とともに出来上がったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機、大砲、戦車などを作り出すためには軍事産業企業に頼らざるをえず、電子工学や原子力が兵器となると、その頭脳力を供給するために大学の協力が不可欠になった。大学で得られた研究成果は、ダウケミカル社、デュポン社、ロッキード社、ダグラス社などに下ろされ、これらを軍事産業企業が大量に生産する。
こうして出来上がった軍事産業関連企業と軍隊と政府が形成する政治的、経済的、軍事的な連合体を「軍産複合体(Military Industrial Complex)」と最初に呼んだのは第34代大統領ドワイト・アイゼンハワーだった。彼は1961年1月の大統領退任演説で、「軍産複合体」の危険性に関して、次のような警告を発している。
「第二次世界大戦まで、合衆国は緊急事態になるたびに軍備を備えて国防体制を作り上げてきたが、今後は巨大な恒常的兵器産業を持たざるをえなくなっている。350万人の男女が国防機構に常勤し、毎年合衆国の全企業の純利益より多い金額を安全保障に支出することになる。」「我々は、こうした軍産複合体の必要性は認めるが、政府も議会もこれら軍産複合体が不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、特に用心をしなければならない。この不当な力が発生する危険性は、現在存在するし、今後も存在し続けるだろう。」
このアイゼンハワーの後を次いで新大統領に就任したのは、民主党のジョン・F・ケネディだった。

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Johnlawson0001ここで、ケネディが上院議員に初当選した1952年まで話はさかのぼる。
1949年に中国共産党が中華人民共和国を成立させ、ソ連が原爆実験に成功するなど、共産主義への脅威が拡大する中で、この年、ウィスコンシン州選出の若き上院議員が、国務省で働いている共産党員205名の名簿を入手したと発言し、世間に衝撃をあたえた。ジョセフ・R・マッカーシー上院議員による「アカ狩り」である。
マッカーシーはその告発対象をアメリカ陸軍やマスコミ関係者、映画関係者や学者にまで広げるなど、マッカーシー旋風は1950年代初頭のアメリカを恐怖に包み込んだ。しかし、その後の調査で偽証や事実の歪曲が次第にマスコミで報道されると、人々の反感を招き、マッカーシーの影響力は失われた。上院はマッカーシーに対して不信任を突きつけ、「マッカーシズム=アメリカにおけるアカ狩り」は終焉した。
ケネディ家はマッカーシーとは公私にわたって親交が深く、弟のロバート(後の司法長官)は「アカ狩り」の舞台となったマッカーシー委員会の副調査官を務めたこともあった。ケネディは、「アカ狩り」に関してマッカーシーを支持する立場を取り、このことによって、後の大統領選挙で強い批判を受けて苦戦を強いられた。

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1995年になって、クリントン政権は「ヴェノナ文書」を公開した。ヴェノナ文書は、アメリカとソ連の間で交わされた電報を、1930年代から1940年代にかけて傍受し、暗号を解読した、米国家安全保障局(NSA)の記録文書である。ヴェノナ文書は、長くその存在を秘密にされたきたが、ソ連崩壊後のロシアのエリツィン政権が開示したコミンテルン記録文書の中から見つかった。
ロシアと米国の資料が突き合わされ、やがてアメリカにおける共産党の活動が明らかになりはじめた。アメリカの共産党は、米民主党を隠れ蓑にして、議会委員会に入り込んだり、情報機関を含む政府機関の浸透し、政策決定にまで影響を及ぼしていたのだ。中でも一番の大物は米財務省のナンバー2であり、政府内で最も影響力を持つ高官のハリー・デクスター・ホワイトである。ホワイトは、日本が太平洋戦争に踏み切るきっかけとなったアメリカの最後通告、「ハル・ノート」の起草者であり、戦後の経済体制を決定したブレトンウッズ会議のアメリカ代表であり、ジョン・メイナード・ケインズとともにIMF(国際通貨基金)を作った事務官であり、IMFの初代理事となった人物である。スターリンはホワイトを通じて、西側の重要な政策に関与できたのだ。
ヴェノナ文書の内容が明らかになるにつれて、マッカーシーの「アカ狩り」は近年になって再評価されるようになった。

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社会主義統制経済によって産業発展の速度が遅くなったソ連は、アメリカの巨大資本にとっては絶好の商品市場であったため、イデオロギーの対立よりビジネスが優先するという、極めて現実的な立場がとられた。多国籍企業を通じた対ソ連ビジネスの拡大と引換えに、核兵器の機密情報や西側の国際金融政策に関する情報などがソ連に渡された。
「冷戦」とは、実際に血を流さない戦争、という軍産複合体が作り出した妙策であり、緊張とデタントを繰り返し、時々の政治経済情勢に対して調整しながら、冷戦が続く限り、西側の国際金融資本も、社会主義独裁国家ソ連も、世界経済を掌握して利益を山分けすることができるようになっていたわけだ。これが戦後の東西冷戦構造の本質だった。

Jfkennedy0001 史上最年少で大統領に就任したケネディは、米ソの利益のために行き過ぎない東西の緊張関係を続ける、という冷戦の枠を踏み越えてしまう。最初は、ベルリン危機だった。
1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソ連のフルシチョフ書記長を相手に首脳会談に臨んだ。この会談でフルシチョフは、アメリカは、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべき、と主張したが、ケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告、明日にも戦争が起きそうな緊迫感が漂った。
ケネディの強硬姿勢に対してフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化、この後もベルリンをめぐって米ソの緊張は続いた。

次にケネディが直面したキューバ危機は、「世界が核戦争に最も接近した時」として伝えられる事件だ。
1962年10月14日、キューバとソ連の急速な接近を警戒してキューバ軍施設の偵察活動を継続していたアメリカ空軍は、ソ連がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した。ケネディは、ロバート・ケネディ司法長官らの提唱した海上封鎖を実施し、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開した。10月22日、潜水艦に守られてキューバ沖に接近していたソ連船18隻は洋上で停船、翌日にはこれら全隻がUターンしてソ連へ戻っていった。
フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意し、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避した、と世界中から高く評価された。
しかし、アメリカ政府内にソ連のスパイ網があったとすれば、ケネディが本気で核戦争を考えていたことをソ連は知っていて、ぎりぎりのところでフルシチョフが折れた、ということになる。米ソの地下のホットラインは、有効に機能したのだ。

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冷戦構造を長く継続して利益をあげたい軍産複合体にとって、本当に戦争を起こしてしまう危険のある大統領は問題である。
また、ケネディは1963年の「平和のための戦略」という演説において、ジュネーブ軍縮会議で全面的かつ完全な軍縮を行う、と語り、ソ連に後押しされた社会主義勢力によって政権転覆の危機にあったベトナムから、米軍事顧問団の早期撤退を指示した。(ケネディ暗殺によって大統領に就任したリンドン・ジョンソンが、すぐに米軍のベトナム直接介入を実行したことを見れば、ケネディのベトナム撤退が軍産複合体の期待に反するものであったことが明らかである。)
ケネディは経済政策でも鉄鋼業界と衝突し、USスティール社をはじめとする大手鉄鋼各社の値上げについて、司法省が独占禁止法違反の調査を始め、国防総省は値上げに加わらなかった鉄鋼会社から調達することを決定した。このような政府の動きを受けて鉄鋼各社は値上げを撤回する。ケネディは、石油業界に対しても長年ほどこされてきた特典(利益の27.5%を必要経費として自動的に認める)の廃止を真剣に考えていた。
こうしたケネディの政治姿勢が、アメリカの巨大な既得権益と次々と衝突していったことは想像に難くない。

Jfk0001 1963年11月22日、ケネディは遊説のためにジャクリーン夫人とともにテキサス州ダラスのラブフィールド空港からダウンタウンに向かっていた。大統領夫妻の乗ったオープントップに改造されたリンカーン・コンチネンタルのリムジンが、ディーレイプラザの大通りに進入した直後に、複数の弾丸がケネディに向かって撃たれた。
ジョン・F・ケネディ暗殺のニュースは、まさにその日行われた日本とアメリカ間の初のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本でも即座に報じられた。

第二章(3) 【1969年 北京】 につづく。

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