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文明の黙示録(15)

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                   第二章 資本の野望 (4)

                   【 1972年 モスクワ 】

Vietnam_1966 第2次世界大戦後の世界は、米ソ二大超大国による東西冷戦という緊張の上に成り立った安定によって、経済発展が維持されていた。しかし、皮肉なことに、その緊張と安定を支える当事者のアメリカとソ連は、多大な負担を強いられて苦しんでいた。
特に西側資本主義陣営を盟主であるアメリカは、直接戦争に関与することによる軍事支出の増大、日本などからの輸入品の流入による対外貿易の輸入超過、という巨額の財政赤字と貿易赤字(双子の赤字)が経済を圧迫し、「ドル危機」を引き起こすまでになっていた。その最大の原因がベトナム戦争であった。
1969年に共和党のリチャード・ニクソンが大統領に就任した時、ベトナム戦争の終結と、ドル危機への対処が緊急の課題であった。

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ニクソン政権は、インフレ抑制のために緊縮的財政金融政策を採用し、軍事支出を中心に財政支出の抑制を図り、金融面ではFRB(連邦準備制度)が金融引締め政策を推進したが、それらの政策は景気後退を招き、さらに景気後退の最中にも物価と賃金が上昇するスタグフレ-ションに陥った。経済界からは政策転換への強い圧力がかかり、ニクソン政権は 71年初めに拡大的財政政策へ舵をきらざるを得なくなった。
軍事面では、1970年2月にニクソン・ドクトリンを発表して、アジアの戦争への過剰介入を避けるという方針を表明していたが、国内の経済政策の手詰まりからこちらでも方針変更し、カンボア侵攻(1970.4)、ラオス侵攻(1971.2)を行い、ベトナム戦争をさらに拡大した。

ニクソンが財政拡大政策に転換したことで、金融が大幅に緩和され、1971年春には、猛烈な投機により外国中央銀行にはドルがあふれ、アメリカの金準備は大量に外国に流出した。この頃、アメリカの金準備は110億ドルに落ち込む一方で、公的債務は250億ドルに増大しており、実質的な金準備はマイナスとなり、ドルへの信任は著しく低下していた。
1971年8月、ニクソン政権は「新経済政策」を発表、その中で金とドルの交換性停止という世界を震撼させる衝撃的な経済政策に踏み切った(ニクソンショック)。また、1973年春には、主要国がそろって変動相場制に移行し、IMFの協定も1978年4月に改定されて、戦後のブレトンウッズ体制は崩壊した。

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Kissinger_mao02ニクソン政権の安全保障担当補佐官として外交を担当したヘンリー・キッシンジャーは、アメリカの国際的地位を守り、その権威でドルの信用を維持するために、非常に困難な外交政策を進めなければならなかった。当時、冷戦の中で莫大な利益を上げていた軍事産業などから巨額の政治献金が政府中枢に流れ込んでいたため、米当局関係者の大部分は緊張緩和政策に反対の立場であり、キッシンジャーが考える「バランスオブパワー」構築のための外交戦略に対して政府内の合意を取り付けることは無理だった。そのため、キッシンジャー外交は隠密外交とならざるを得なかった。

世界を驚かせた米中国交回復は、そのキッシンジャー隠密外交から生まれた。イデオロギーの対立と核開発協力の行き詰まりで緊張を高める中ソ関係を利用し、米中接近によってアジア地域のアメリカの存在感を高める一方で、泥沼化したベトナム戦争から撤退する、という巧妙なシナリオで、キッシンジャー外交は後世高く評価されるが、キッシンジャーにはもうひとつの狙いがあった。
軍事産業は「製品」である兵器、弾薬の消費のために、常に戦争を必要とするが、一方で戦争への直接関与は米軍の人的犠牲と軍事費支出の増大でアメリカ政府に大きな負担を強いる。そこで、金融資本家の後押しを受けるキッシンジャーは、海外市場を開放させることで、金融ビジネスにおいてアメリカ企業が大きな利益を得られれば、戦争への関与を縮小してもアメリカ経済は発展できる、と考えていた。そこでキッシンジャーは、中国側に対し、経済開放政策をすれば欧米も中国に資金や技術を入れるので経済発展が実現され、中国は世界の強国になれるという道筋を示した。まだ国際経済の大きな外洋を知らない毛沢東は、すぐにこの話には乗ってこなかったが、毛沢東の死後、復権した鄧小平は「改革解放路線」を発表し、中国は資本主義経済を取り入れることになる。

余談だが、米中国交樹立の正式調印(1979.1)に先だって、1972年9月、日本の田中角栄首相は北京を訪問し、周恩来首相と会談して日中国交正常化を果たした。この報を聞いたキッシンジャーは「裏切り者のジャップ」と叫んで激怒したという。目覚しい経済成長で貿易強国となっていた日本がアメリカに先駆けて中国に経済進出することを危惧したようだ。その後、田中角栄は1974年にCIAのリークによると見られる「金権体質批判」記事(文芸春秋)で首相の座を失い、1976年にアメリカ上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で暴露されたロッキード疑惑で政治家生命を絶たれた。

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Brezhnev01 核と軍事力では東西で均衡した冷戦体制だったが、経済面では資本主義陣営の圧倒的な優位が明らかになってきた。
目覚しい経済成長で復興を遂げた西ドイツは、1967年にルーマニアと国交樹立するなど独自路線を歩み始め、1969年に誕生したブラント政権はソ連や東欧諸国との関係改善を目指す「東方政策」に乗り出した。社会主義体制下の非効率経済で停滞する東欧諸国は、西側との関係改善を求めていた。
ソ連も、農業生産高が低迷し、さらに旱魃が続いた1971年には農業生産が10%落ち込んだ。店頭からは牛肉の姿が消え、食糧問題が深刻化した。ブレジネフ書記長は、アメリカの穀物商社に話を持ち込み、カーギル社からアメリカの年間輸出量の3分の1にあたる大量の穀物買付けを行った。1972年10月には米ソ間で貿易協定が締結され、ソ連に最恵国待遇が与えられ、米議会の反対を尻目に両国間の貿易量は増大していった。こうして、アメリカは、食料に関してソ連に優位な立場を獲得した。
冷戦における軍事費負担を軽減したいという米ソの立場は共通のもので、1972年にはSALT I(第一次戦略兵器制限条約)が締結された。

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キッシンジャーのバランスオブパワー外交は、東西の緊張緩和という雰囲気を生み出す結果をもたらしたが、一方でアメリカの国際金融資本は、海外市場へ拡大するために市場開放を求める圧力を強めた。特に、南米諸国では社会主義政権を転覆させて自由主義市場開放政策を取らせるために、様々な謀略が仕掛けられた。

第二章(5) 【1973年 サンチャゴ】 につづく。

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