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文明の黙示録(12)

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                   第二章 資本の野望 (1)

                   【 1944年 ブレトンウッズ 】

Bwoods01 第二次大戦が終わる前年の1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズに44ヵ国の代表が集まり、戦後の国際通貨体制のあり方をめぐって協議が行なわれた。戦後の国際社会で、第三世界(資源保有国)を取り込んだグローバル経済を見越して、戦前のアメリカの大恐慌や、大戦の原因となった経済のブロック化を防ぎ、より安定的に世界の経済を発展させる仕組み作りが議題だった。
英国代表のジョン・メイナード・ケインズが提案した案は、世界中央銀行的な性格の国際組織を作り、加盟国が各国間取引をその組織内の口座を使って相互振替で行うというもので、その組織の中だけで通用する新通貨「バンコール」の創設を提案していた。この方式であれば、戦争で荒廃した欧州各国のように手持ち資金がなくても、当座貸越しで貿易は可能になる。一方のアメリカ代表のハリー・デクスター・ホワイト案は、各国からの資金の拠出によって基金を設立し、その基金が各国に必要資金を貸し付ける、という既存の国際間取引の円滑化を狙いとしていた。すでに国際通貨として力を持っていた米ドルを世界基軸通貨と認めさせる方策だった。
英国は、二度の大戦で疲弊した経済の建直しが急務だったため、新通貨を創設して早急に貿易が拡大する方向を求めたが、アメリカは今や世界最大の債権国となっていて、戦後世界を再建するリーダーとして自国通貨の米ドルの覇権を確立することを考えていたのだった。22日間にも及ぶ協議の末、いずれの国も戦後復興にアメリカの協力を求めざるを得ないという事情から、結論はアメリカ案への妥協しかありえなかった。こうして「ブレトンウッズ体制」という戦後の世界経済の枠組みが決められ、国際通貨基金(IMF)や世界銀行が創設されることになった。

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ブレトンウッズ協定によって、米ドルは英国ポンドに取って代わる世界的準備通貨として地位を確固たるものとした。アメリカの政治的、軍事的影響力によって、またアメリカが保有する膨大な金によって、全世界は米ドル(35分の1オンスの金に等価と決められた)を準備通貨として受け入れた。ドルは「金同然」となり、決められた比率で外国の中央銀行が交換可能であった。
IMFと世界銀行は、石油やダイヤモンドなどの資源を持っている第三世界の国々に開発援助資金を貸し出した。もちろん、米ドルで、である。彼らは、借入金の返済にドルを用意しなければならないため、瞬く間にドル経済圏に組み込まれた。アメリカの多国籍企業にとっては、世界中に次々と市場が開けていった。
Nixon0001_2こうして第三世界がドル経済圏に加えられる過程で、朝鮮戦争、インドシナ戦争、アルジェ リア戦争、ベトナム戦争などが続発した経過から見れば、 ブレトンウッズ体制とは第三世界諸国を経済的植民地化するという側面もあったと言える。
米ドル経済圏は世界中に広がり、アメリカが発行する米ドルはすぐに保有する金の量を超える規模になった。その時アメリカは、突然金と米ドルとの交換の約束を反故にした(1971年ニクソン・ショック)。これまで、一時的に金本位制や銀本位制が停止されたことはあったが、「兌換貨幣」でない「紙幣」それ自体が価値をもつという事態は、歴史上初めてだった。

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ブレトンウッズ体制後の世界経済におけるドルの動きを追ってみよう。
第二次世界大戦が終わると、アメリカ政府は「共産主義に対する防御」を大義名分として、西側陣営諸国に対外援助を積極的に行なった。1948年から1951年までの4年間に、西欧諸国に対して戦後復興資金として、当時としては巨額な125億ドルを貸し付けた。
トルーマン政権で世界の金融政策を担当していたジョージ・マーシャル国務長官の名前をつけた「マーシャル・プラン」は、ヨーロッパの国々が必要としていた食料や石油をアメリカから購入するために、アメリカ政府が政府借款として復興援助のドル資金を貸し付ける代わりに、その資金をアメリカの銀行に預金させた。これにより、ドルは世界で最も信用のある通貨となり、アメリカの銀行は世界主要都市に進出し、信用創造メカニズムが機能し始め、資本主義経済が急速に興隆して、世界経済が立ち直った。こうして、世界経済におけるアメリカの覇権が確立された。
ソ連や共産主義に対する恐怖、脅威を盛んに煽ることで、石油産業と結び付いたアメリカの兵器産業が潤ったのはいうまでもない。そして、西欧経済や日本経済がアメリカの資本主義経済システムに組み入れられると、政治外交面では、軍事同盟としてのNATO(北大西洋条約機構)体制や日米安全保障条約を成立させて、アメリカは文字どおり世界覇権国家となった。

ブレトンウッズ協定以降の米ドルの世界基軸通貨としての価値は、1971年8月15日にニクソン大統領が議会にも事前に知らせずに米ドルと金との交換停止を宣言したニクソン・ショック(ドル・ショック)によって不安定なものになった。そこで、アメリカは、OPECとの間で全世界の原油価格を独占的に米ドルで値決めするという協定を結び、米ドルの価値を原油によって「裏付け」るという手段をとった。
アメリカは、ペルシャ湾岸の豊富な石油を有する様々な王国の政権を守ることが必要となり、この地域での反政府勢力は反米イスラム過激派へと変質した。

各国の銀行は、石油に裏づけされた米ドルを国際通貨として認め、その後も米ドル覇権の時代が現在まで継続している。この仕組みによって、米ドルを発行するアメリカは巨大な経済的利益を手に入れる事ができた。しかし、長期的には米ドルの信用の安定を守るという大きな義務が生じた。世界各国が実物経済の取引の単位通貨として米ドルを認める限り、アメリカの覇権は安泰である。しかし、米ドルの価値が下がる場合には、諸外国は米ドルでの決済を歓迎しなくなるだろう。あるいは米ドル決済が拒否される様な事態になると、アメリカの世界覇権は終焉する。特に、アメリカは米ドルと石油の関係に敏感にならざるを得ない。
Husayn001 2000年11月、イラクのサダム・フセイン大統領は石油輸出をユーロ建てにすることを決定した。ブッシュ政権のポール・オニール財務長官は、2001年の新政権の初回の閣僚会議の最も主要な議題は、どの様にしてサダム・フセインを追放するかである、と語った。アメリカがサダム・フセインの排除を話し合ったのは、9.11の事件の前だったのだ。
イラク戦争の軍事的勝利の直後から、イラクの原油輸出は全てドル建てとなった。
2001年にはベネズエラの駐露大使が、原油輸出を全てユーロ建てにすることを口にした。その直後に、ベネズエラのチャベス政権に対するクーデターが起きたが、それはCIAの協力によるものであったと伝えられる。このクーデターが起こると、ユーロに対する米ドルの大幅な下落は止まり、上昇に転じた。
2006年3月には、イランが石油取引所を開設すると宣言した。この新しい石油取引所での取引がユーロ建てで行われるという情報が広がると、ブッシュ政権はイランの核開発疑惑などを持ち出して、イラン攻撃の可能性に再三触れるようになった。

また、アメリカ政府は米ドルの価値を維持するために、政府の財政赤字を出来るだけ改善しなければならない。このため、1991年の湾岸戦争以来、戦争支出の多くの部分を同盟国に負担を要求している。特に、日本はその面で大きな役割を果たしている。

90年代には、世界で拡大したドル経済のグローバリゼーションによって、アメリカの投資ファンドやヘッジファンドなどが国際金融資本の利潤追求のために発展途上国を経済的破綻に追い込んだ。97年夏のアジア通貨危機は最も顕著な例となった。
しかも、この時国際金融資本はIMFや世界銀行に債務返済に必要な資金を破綻した国々に提供させ、それと引き換えに、医療や産業育成への補助金など民衆の生存に欠かせない政府支出の大幅削減と、国際金融資本のビジネスを拡大するための規制緩和をセットにした「構造調整プログラム(SAP)」を、債務国政府に強要した。
設立当初は内政不干渉の原則を堅持していたIMFと世銀だったが、今や「世界金融システムの指導者をもって任じる世銀とIMFが、まるで破産管財人のように介入して、事実上の破産に追い込まれた国々の清算事業に乗り出す」(デビット・コーテン著『グローバル経済という怪物』97年シュプリンガー東京刊)という状態になっている。

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ところで、ブレトンウッズ会議のアメリカ全権代表で、世銀やIMFの創設の中心的役割を果たしたハリー・デクスター・ホワイトは、1948年アメリカ下院非米活動委員会において、ソ連のスパイであることを指摘された。ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定したが、その直後、薬物を大量服用し不可解な死を遂げてしまった。(ホワイトがソ連のスパイであったことは、近年発見された文書によって証明された。)
では、ブレトンウッズ会議とアメリカの戦後戦略を知っていたであろうソ連は、どのように反応したのだろうか?ソ連は、IMFへの参加を拒否すると、1947年にコミンフォルムを結成して、東欧諸国を友好・協力・相互援助の結束で固めていった。それまで、異なる社会主義国家形成過程のために不均等でバラバラだった東欧諸国は、ソ連を盟主とした政治的、軍事的結束を強め、アメリカを中心とする西側自由主義圏に対抗する東側社会主義圏が形成された。こうして、戦後半世紀近く続く「冷戦」の構造が出来上がっていった。

第二章(2) 【1963年 ダラス】 につづく。

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