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文明の黙示録(16)

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                   第二章 資本の野望 (5)

                   【 1973年 サンチャゴ 】

Freedman01 1892年に石油界の巨人ジョン・D・ロックフェラーによって創設されたシカゴ大学の経済学部では、「シカゴ学派」と呼ばれる経済学派が生まれた。シカゴ学派は、特に1960年代にミルトン・フリードマンによって指導された金融政策理論(マネタリズム)が政府の政策に大
きな影響を与えた。厳密に新古典派理論に従い、自由市場原理を絶対視するマクロ経済理論(新自由主義)は、外国の市場を開放させて資本進出を狙う国際金融資本には絶好の理論武装となり、アメリカの中南米諸国への介入に利用された。

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1969年、ニクソン政権は財政上の行き詰まりから、キューバ封じ込めのために中南米で結成していた「進歩のための同盟」を終了させ、南米での支援政策を決めるために、ネルソン・ロックフェラー ニュヨーク州知事を団長とする超党派調査団を南米各国に派遣した。
南米諸国を歴訪したロックフェラー調査団は、反米的なナショナリズムの高まりに警告を発する一方、多国籍企業の進出機会拡大の政策を取っているブラジルの軍事独裁体制を称揚した。ニクソンは、ロックフェラー報告にもとづき「ニュー・パートナーシップ」政策を発表し、援助の主要対象をブラジル軍事独裁政権など親米政権におき、共産化の動きに対しては機敏かつ積極的に介入をはかることを戦略目標にすえた。アメリカの資本に市場を開放するなら、民主主義政権でなくても構わない、というアメリカの本性が表れていた。

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Hkissinger01チリでは、社会主義的政策を掲げるサルバドール・アジェンテが、1970年の大統領選挙 の最有力と見られていた。「自国の裏庭に社会主義国家ができるのを傍観するわけにはいかない」と考えるアメリカのニクソン大統領とキッシンジャー国務長官は、アジェンデ政権を阻止するためのあらゆる謀略を駆使した。のちにウィリアム・コルビーCIA長官が証言したところによると、1962年から70年までの期間にアジェンデ当選阻止のためにCIAがつぎ込んだ資金は1000万ドルを越えていたという。

大統領選挙前には、アジェンデに対するCIAの仕組んだクーデター未遂事件が頻発したが、それらのクーデターをすべて未遂に終わらせたのは、陸軍総司令官レネ・シュネイデル将軍の存在だった。シュネイデル司令官は、軍は政治に介入してはならないという信念と、民主主義によって選ばれた政府に対して忠実であらねばならないという信念で、CIAが仕組んだクーデターを事前に阻止したが、いかなる非合法な手段を用いても左翼政権成立を食い止めたいキッシンジャーは、CIA内部でも存在が隠されていた秘密グループを使ってクーデターを実行し、1970年10月22日、まずシュネイデル司令官を暗殺した。

しかし、この露骨な反アジェンデ派のテロは、結果としては逆効果となり、10月24日に行われた大統領選挙の決選投票では大差でアジェンデの勝利となった。政権を獲得したアジェンデは、チリの基幹産業である銅鉱山を国有化し、社会主義的な経済改革でチリ経済の回復に成功した。そこで、アメリカが仕掛けたのは、戦略備蓄として保有していた銅を国際市場で大量に売却して、銅の国際価格を下落させ、それによってチリの銅鉱山からの収入を悪化させるという陰謀だった。このためにチリの経済状態は急激に悪化し始め、社会混乱が広がった。

そんな中、1973年9月11日、CIAの支援を受けた陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトによるクーデターが発生した。ピノチェトは、大統領宮を襲撃し、アジェンデを殺して政権を奪った。ピノチェトは、左翼勢力およびその支持者である一般市民など3000人以上を虐殺し、議会を停止して軍事独裁体制を敷いた。
Augusto_pinochet01_2 政権を取ったピノチェトは、全く経済政策が分からなかったため、アメリカはシカゴ学派の経済学徒たち(シカゴボーイズ)を経済顧問団として派遣し、「自由市場原理」の導入を指導した。ピノチェトは、シカゴ学派理論に従って最低賃金制度を廃し、組合交渉権を違法とし、年金制度を民営化し、財産や営業利益に対する税金をすべて撤廃し、公職を削減し、212の国営産業と66の銀行を民営化した。
この市場開放政策によってアメリカの投機家たちは大儲けをしたが、チリの国民生活は破綻の際へ追い込まれた。ピノチェト将軍が政権を掌握した1973年、チリの失業率は4.3%だったが、自由市場による近代化を試みて10年後の1983年の失業率は22%にもなっていた。軍事政権下の実質賃金は40%も下がった。1970年、チリの全人口の20%が貧困層だったが、ピノチェト政権の末期には倍の40%にもなっていた。儲かったのは一部の大企業や富豪たちだけで、一般国民は多大な社会負担を負い、貧富の差が著しく拡大していった。

1982年と83年には、国内総生産は19%も落ち込み、ほとんど恐慌の状態となった。さすがのピノチェトも、最後はシカゴボーイズと呼ばれるフリードマンの弟子たちを追い出して、ケインズ政策に転換し、ハゲタカ対策として短期的投機資金の流入を規制する法律まで作った。この時、ピノチェトがチリ経済を復興させるために役立ったものは、アジェンデが国有化した銅山(当時のチリの輸出収入の30~70%をもたらしていた)と、アジェンデの農地改革の結果生まれた活力ある自作農階級の存在だったというのは、何とも皮肉な因縁だった。
ところが、アメリカによると、今もこれを「チリ経済の奇跡」と呼んで、「新自由主義」経済理論の成功例と称えている。

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一般に、アメリカの冷戦下におけるラテンアメリカ介入について、「南米というアメリカの裏庭に、社会主義国家ができることを阻止するため」と言われてきた。しかし、年月が経って振り返ると、アメリカの関心はソ連封じ込めではなく、アメリカの経済利益に対する脅威になるような政策を掲げる政権の転覆にあったことが分かる。「ソ連の膨張主義の脅威」は、アメリカの市民をおびえさせて政府の政策を支持させるようにするためのプロパガンダとして使われていたのであり、アメリカの政策の真の目的は、新自由主義の国際経済秩序の維持と防衛であった。そして、それによって最も恩恵を受けるのは、アメリカの投機資本家たちだった。
この新自由主義の経済秩序が日本に押し付けられるのは、1990年代になってからである。

第二章(6) 【1981年 カイロ】 につづく。

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