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文明の黙示録(18)

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                   第二章 資本の野望 (7)

                   【 1984年 カブール 】

Afghanrussian01 ソ連は、アメリカと並ぶ超大国として第二次世界大戦後の東西冷戦構造の一極を担ってきたが、社会主義計画経済は机上の理論の通りには機能せず、非効率と不採算で、1960年代中頃には停滞傾向が明らかになってきた。
1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策への批判で失脚したフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると、外交政策に注力するあまり、国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせて東欧諸国の経済も次第に沈滞していった。
1970年代後半になると、アメリカは自国の軍事関連企業のビジネスのために「ソ連の脅威」をふれ回っていたが、実際にはアメリカの国力がソ連を大きく引き離していた。

ソ連にとって、起死回生の状況転換のためには、工業社会に不可欠な石油資源をアメリカより多く押さえるしか方法が無かった。幸い、自国内では石油資源に恵まれていたソ連だったが、中東地域では、1970年に親ソ政権だったエジプトで、サダト大統領が親米路線へ転向するなど、ここでもアメリカの勢力が広がりつつあった。さらに1978年にイランでイスラム革命が起きると、厳格なイスラム原理主義を掲げる指導者のホメイニ師は、共産主義のソ連も悪の体制と批判し、敵対姿勢を取るようになった。ソ連は、中東地域での勢力挽回のための足掛かりを必要としていた。

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中央アジアでソ連と国境を接するアフガニスタンでは、1978年の4月革命によって社会主義のタラキ政権が誕生し、ソ連との間に20年間の善隣友好条約を締結した。ブレジネフ書記長は、タラキ政権に大きな援助をするが、タラキは、土地の国有化、男女完全平等教育の実施、宗教の自由の制限、国旗の色をイスラムの聖なる色の緑から共産主義の象徴の赤に変えるなど、イスラム社会のアフガニスタンにとっては極めて急進的な政策を取ったため、1979年から各地で暴動や反乱が発生した。当時外相だったアミンは、クーデターを企ててアメリカに支援を打診したが、このアミンの動きを察知したタラキは、ソ連とともにアミンを排除しようとする。しかし、アミンは先手を打って1979 年7月に大統領官邸を包囲してクーデターを起こし、タラキは密かに処刑された。

Afgan_solger01_2 ソ連は、当初はアフガニスタンへの軍事介入に消極的だったが、アメリカがチリやラテンアメリカ地域での介入工作にてこずり、中央アジアへの注意が十分行き届いていないことを見越したKGBのアンドロポフ議長とグロムイコ外相によって、ブレジネフ書記長が病床に伏せている間に、アフガニスタンへの軍事侵攻が決定された。
1979年12月25日、10万の大部隊がアフガニスタン国境を越えると同時に、特殊部隊が宮殿を急襲してアミンを殺害、国外亡命中だったソ連傀儡のカルマル政権が27日に発足した。これでアフガニスタンの社会情勢が落ち着けば、ソ連軍は1~2ヶ月で撤退する方針だった。

しかし、ソ連の南下は中東~南アジアの軍事バランス上の脅威であり、共産主義勢力がこの地域に拡がる足掛かりになることを恐れたパキスタンとサウジアラビア(アメリカの勢力下で石油ビジネスが順調だった)は、アメリカと協力して反ソ連勢力の組織化を行った。アメリカは大量の武器を供与するとともに、CIAとペンタゴンの要員がパキスタンに派遣され、ゲリラ兵士たちにその使用方法を訓練指導するなど、史上最大規模の大諜報作戦を開始した。パキスタンの軍情報機関(ISI)は、イスラム諸国の若者を集めてISIの施設でゲリラの訓練を行い、アフガニスタンに送り込んだ。総額20億ドルといわれる費用は、アメリカとサウジアラビアが負担した。

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Laden01 オサマ・ビンラディンの生家は、父のムハマンド・ビンラディンが一代で築いたサウジアラビア最大のゼネコン財閥だった。ビンラディン・グループはサウジアラビア王室および軍関係の契約に強く、このためアメリカ企業との関係も深かった。
1979年、大学を卒業するかどうかという時、オサマはソ連軍との戦いのために、アフガニスタンに向かった。アメリカ国務省の資料によると、オサマはアフガニスタン戦争中、アラブ義勇兵の徴募、輸送、訓練への資金提供で重要な役割を果たしていたという。その資金は、ビンラディン財閥および湾岸の富裕な財閥たちからの寄付で賄われ、それらを使って彼は、イスラム救国基金(al-Qaida)を設立する。こうしたことから、オサマは本人の意思だけではなく、サウジアラビア王室の要請によって対ソ連レジスタンスを組織するためにアフガニスタンに入った、と考えるのが妥当なようだ。

折から、エジプトではサダト大統領がムスリム同胞団の過激派「ジハード団」によって暗殺され、後継のムバラク大統領がイスラム原理主義組織への徹底的な取り締まりを行っていた。このため、エジプトを追われたイスラム原理主義者たちは、パキスタンの傭兵徴募機関に集まってきた。1984年には、エジプト「ジハード団」のアイマン・ザワヒリがアフガニスタンに入った。ザワヒリは、ムジャヒディンを集めてオサマ・ビンラディンをリーダーにしたアルカイダに合流した。ヨルダン人で、ヨルダン王政打倒運動を率いていたアブ・ムサブ・ザルカウィも、アフガニスタンのキャンプをベースとして反ユダヤとヨルダンにおけるイスラム国家の樹立を掲げる戦闘的なイスラム主義組織を立ち上げた。イスラム義勇兵たちにとっても、アメリカやサウジアラビア政府が提供するふんだんな資金は魅力だった。
後にアメリカが「国際的テロ組織」として敵対することになるアルカイダは、こうして形成されていったが、この頃のアメリカは彼らに最新鋭のスティンガーミサイルを与えるなど、協力関係にあった。

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ソ連にとって、アフガニスタンへの介入は最悪の結果を招いた。10年に渡る泥沼の戦争で巨額の軍事費が財政を困窮させ、デタントの終焉を招き、アメリカからの穀物取引の停止はソ連の経済問題を急速に悪化させた。
1982年11月、ブレジネフは心臓発作によって死去し、1985年にソ連共産党書記長になったミハイル・ゴルバチョフは、ついに1988年にアフガニスタンからの撤退を発表した。アフガニスタン戦争の失敗は、後のソ連崩壊の遠因となった。

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CIAのアフガニスタン作戦の知られざる第三の任務は、麻薬栽培であった。昔からパキスタンとアフガニスタンではアヘンの原料であるけしの栽培が行われていた。それが、CIAの作戦が始まって2年も経たないうちに、この地帯は世界最大のヘロイン生産地となり、米国のヘロイン市場の60%を供給するまでになった。パキスタン側の国境沿いには、麻薬シンジケートとISIが数百カ所のヘロイン精製工場を経営した。この地域の麻薬取引は、年間2,000億ドルに上ったといわれる。この額は世界の麻薬取引の3分の1を占めた。もし、これが真実ならば、アメリカはゲリラ支援や武器援助に支出した額をはるかに上回るケタ違いの利益を麻薬取引から得たことになる。
オサマ・ビンラディンや他のムジャヒディン幹部が、このCIAとパキスタンのISIとの麻薬製造の連携作戦を知るのは、ずっと後のことである。

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Bcci01_2 BCCI(クレディット・アンド・コマース・インターナショナル銀行)は、1972年にパキスタン人アガ・ハサン・アベディによって設立された。アベディは、同じイスラム教徒の利点を生かし、中東の産油国王室関係者、政府要人と親しくなり、そうしたオイルマネーによってBCCIは発展した。
CIAは、パキスタンを拠点とした対アフガニスタン諜報作戦でBCCIを利用し、これ以降BCCIは様々なマネーロンダリング(資金洗浄)を行って地下資金のネットワークを作った。CIAの活動資金となった麻薬取引では、BCCIの架空口座が使われ、コンロンビアやニカラグアの麻薬取引でもBCCIを通してマネーロンダリングが行われた。1989年のイラン・コントラ事件では、イラン(当時アメリカの敵対国であった)への武器提供のための死の商人アドナン・カショギとの不正取引や、その代金のニカラグア反政府組織コントラへの供与なども、CIAの架空口座を通じて行われた。BCCIのブラックネットワークは、パキスタンの核開発援助や、北朝鮮の武器輸出入にも関係していた。
BCCIは、こうした裏資金の世界最大のルートとなり、パナマの独裁者ノリエガ将軍、フィリピンの独裁者フェルディナンド・マルコス大統領とイメルダ夫人、イラクのサダム・フセイン大統領などの不正な個人蓄財にも利用された。
1991年、英国当局の調査により、BCCIはその粉飾、不正が判明し、各国当局は協調してBCCIに対して営業停止や債権者保護のための資産凍結措置をとり、同行は破綻した。
 

第二章(8) 【1986年 マナグア】 につづく。

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