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文明の黙示録(10)

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                   第一章 帝国の興亡 (6)

                   【 1941年 ホノルル 】

Dc02 第一次世界大戦の結果、ドイツ帝国は崩壊し、戦勝国とはいえフランス、イタリアは弱体化してしまった。東アジアにおいて有力な帝国主義として残ったのは英国、日本、それに新たに登場したアメリカの三国のみとなった。
東アジア商圏に参入したいアメリカは、門戸開放、機会均等主義を主張し、国際秩序の再構築のために、英国を巻き込んで1921年に「ワシントン会議」を招集した。ワシントン会議の狙いは、明らかに日露戦争及び第一次世界大戦によって日本が築き上げた大陸の利権を米英中連携のもとに否定してしまうことにあった。
会議における決定事項には、次のようなものがあった。
(1)日英同盟の廃棄
(2)日本海軍の軍備制限
(3)日本の満州における権益の放棄

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アメリカは、ワシントン会議で日本と条約を結んでいた中国の北京政府ではなく、国民党政府を支援し、日支条約の否認、日本の満州権益の即時回収を提案させた。また、イデオロギー的に敵対していたソ連に対しても、米ソ協調路線をとり、日本の満州権益をめぐる反日包囲網に組み入れていった。後に行なわれるABCD包囲網に先立って、アメリカは中国大陸から日本を追放するための反日包囲網を形成していった。日本側では、こうしたアメリカに対する不信が高まり、特に軍部は日本政府の国際協調路線に批判的になっていった。
日本を中国大陸から駆逐すれば、アジアに平和が回復し、アメリカはその中で商業的利益を独占できる、との考えが主流となる中で、アメリカの識者の中には日本の立場に理解を示し、このままアメリカの政策を変更しなければついには日米戦争に至る、との警告を行なった者もいたが、こうした声は米国外交には反映されることがなかった。
アメリカは中国側への軍事援助を増大させながら、一方では日本に対する経済制裁を次第に強化していった。

アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、次のような日本を擁護する言葉を残している。
「アメリカ国民の85%は、いかなる外国における戦争に対しても米軍を派遣することに反対していたにも関わらず、ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。〈中略〉日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても野心を有していなかった。しかし、国家としての日本は、その工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。」「平和主義者の日本の近衛首相は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したい、と繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日本戦を行なうことを決意していたために、日本首相との話し合いを拒否した。」

当時の米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトを裏で操っていたとされるのが、バーナード・バルークとヘンリー・モーゲンソー・ジュニアら国際金融資本家だった。
「ウォール街 伝説の相場師」と呼ばれるバルークは、第一次世界大戦中は、総力戦体制の遂行のために設置された「戦時産業調整委員会」の委員長を務め、軍需工場のすべてを掌握し、軍事予算から膨大な利益を得た。戦争で大きな利益を得る方法を知ったバルークは、第二次世界大戦の火蓋がヨーロッパ戦線で切られるとルーズベルト大統領に参戦をしつこく進言し、日本との開戦にも積極的だった。バルークは、原爆開発の有力な支援者で、「マンハッタン計画」を指導し、これを大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材の投入を決定させた。原爆の対日使用を積極的にすすめたのも、大統領顧問の立場にあったバルークである(彼は京都への原爆投下を主張していた)。
ルーズベルト政権の財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアは、アメリカを戦争に入らせるためには日本によるアメリカへの攻撃が必要だと考え、日本を追い詰めるために経済的に締め上げる政策を提案した。モーゲンソージュニアの父親は、銀行家ゴールドスミス一族で、ロスチャイルド家の血縁にあたる。

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China_war01日本政府はワシントン条約を受け入れ、米英との協調路線を模索したが、日本を戦争に 追い込みたい勢力は中国人に排日・反日思想を広め、満州では張学良を使って日本軍との紛争を仕掛けて情勢を不安定にした。
ついに、1931年9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖での関東軍(大日本帝国陸軍)による南満州鉄道の爆破事件(柳条湖事件)に端を発し、満州事変が勃発する。これ以降、関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化し、日本では軍部が発言力を強めて日中事変(日中戦争)に突き進む。
ところで、満州事変でも日中事変でも、日本と中国はお互いに『宣戦布告』をしていない(このため、この2つの事件は最近まで「戦争」と呼ばれなかった)。これは、当時アメリカに「中立法」というものがあって、交戦国に対する融資や武器輸出を禁じていたことに起因する。日中両国にとっては、もし宣戦布告をすると、アメリカから武器を輸入できなくなるし、同様に、アメリカの武器メーカーもせっかくの大量注文を受けられなくなってしまう。実際、ボーイング、ロッキード、ダグラス、カーチスなどの航空機メーカーは日中戦争のおかげで倒産の危機から立ち直ったのだった。だから、アメリカは「日中事変」を戦争とは認定せず、武器輸出を続けた。

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Pearl_harbor01 日本軍による仏印進駐への対抗措置として、1941年7月以降アメリカ、英国、オランダなどにより日本に対して行われてきた石油および鉄の禁輸や日本資産の凍結(いわゆるABCD包囲網)で、経済的に圧迫され追い詰められた日本は、11月から妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカなどと最後の交渉を続ける一方、海軍機動部隊をアメリカ太平洋艦隊の基地となっているハワイ・オアフ島ホノルル近郊の真珠湾に向かわせた。
1941年11月20日、アメリカ国務長官コーデル・ハルは、日本が提案していた戦争回避のための妥協案への回答を提示した(いわゆるハル・ノート)。ハル・ノートで提示された10項目は、とても日本が受け入れられる内容ではなく、東郷茂徳外相は「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。」と述べた。当時総理大臣だった東条英機は、これを最後通牒と受け取り、12月1日の御前会議において対英米との開戦が決議された。
択捉島の単冠湾を出航していた海軍機動部隊に向けて「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の攻撃命令が発せられたのは、12月1日午後5時30分だった。

第一章(7) 【1948年 テルアビブ】 につづく。

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