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文明の黙示録(17)

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                   第二章 資本の野望 (6)

                   【 1981年 カイロ 】

Plo01 イスラエルの建国で居住地を追われたパレスチナ難民は、1964年にパレスチナ解放機構(PLO)を組織して反イスラエルのテロ行動を激化させていた。1969年2月、ヤセル・アラファトが正式にPLOの議長に選出され、ファタハを始めとする武闘派勢力が実権を掌握すると、PLOは世界中を震撼させるテロ組織へと成長していく。
パレスチナ問題に世界の目を向けさせるためには、イスラエルを攻撃するよりも、一見無関係にも見える欧米諸国の民間人をテロ事件に巻き込むことで、国連のような国際機関による問題解決に向けた本格的な取り組みが始まるであろう、と考えたアラファトは、爆弾テロやハイジャック事件を立て続けに引き起こす。1972年5月9日、「ブラック・セプテンバー」によるベルギーのサベナ航空ハイジャック事件、同年9月5日ドイツのミュンヘンにおけるオリンピック選手村襲撃事件は、多くの犠牲者を出す凄惨な結果を招き、PLOが期待したこととは逆に国際社会はアラブ・ゲリラを「情け容赦の無いテロリスト」として憎悪するようになった。

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1970年1月、イスラエルに対抗するために軍備増強を必要としていたエジプトのナセル大統領は、秘密裏にモスクワを訪問してプレジネフ書記長へ支援を要請し、これに応えてソ連は約1500名からなる過去最大規模のソ連軍事顧問団を最新兵器とともにカイロに送り込んだ。しかし、同年9月にナセルが突然の心臓発作で世を去ると、モハメド・アンワル・サダト副大統領が大統領へと昇格し、ソ連との軍事協力体制に否定的な姿勢をとった。1972年7月、ソ連軍事顧問団の国外追放処分を発表したサダトは、アメリカのキッシンジャー国務長官と秘密裏に接触を行い、シナイ半島奪回のための武力行使に理解を求めた。中東情勢の安定を果たしたいアメリカは、アラブ諸国を分断するためにエジプトを取り込むことを考えた。

Israel_army02 1973年10月6日、エジプトとシリアの連合軍はイスラエル軍を急襲した。エジプト軍は、不意を突かれたイスラエル軍を撃破してシナイ半島へ進出、イスラエル拠点を占領した。ゴラン高原では、圧倒的な戦力と装備を持つシリア軍が優勢で、イスラエル軍はじりじりと後退を余儀なくされた。イスラエルは一時はシナイ半島西部とゴラン高原の一部を失い、自国領土まで侵攻を受けそうな状態になったが、アメリカから兵器の追加供給を受けるなど体制を整えて反撃に出る。イスラエル軍はゴラン高原のシリア軍に大攻勢をかけ、防戦一方となったシリア軍を追撃して首都ダマスカスへ迫った。しかし、ソ連軍がイスラエルに対して宣戦する動きを見せたためにダマスカス手前で進軍を停止した。シリアのアサドはサダトに対して、シリアへの援軍を要請したが、サダトの目的はシナイ半島奪還のみで、イスラエルには手を出さないというアメリカとの約束で、この要請を無視した。

シリアでの進軍を止めたイスラエル軍は、転じてシナイ半島でも攻勢をかけ、エジプト軍を撃破して首都カイロへの進撃姿勢をみせた。しかし、今度はアメリカがエジプトを擁護する態度を見せたために、イスラエル軍はやはり首都攻略を断念した。
第四次中東戦争は、こうして米ソの牽制によって戦闘は沈静化した。10月20日、ブレジネフ書記長はアメリカのキッシンジャー国務長官とモスクワで国連安保理に提案する停戦決議の内容について話し合い、国連安保理で米ソ共同決議案が採択されて第四次中東戦争は終結へと向かった。
第四次中東戦争は、アラブ諸国とイスラエルの領土争いの裏側で、米ソの二大超大国による国際紛争の解決が模索された出来事でもあった。特にアメリカは、中東地域に大きな影響力を確立すると同時に、中東和平プロセスという長い作業に大きく関与していくことになる。

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1970年代に入ってから、欧米の7大石油資本(メジャー)の支配から脱却したい産油国は、次々と石油開発企業の国有化を推進していた。1972年には、アルジェリアの油田がフランス資本から国有化され、リビアもBPの所有していた油田を国有化した。1971年から73年までの間にイラク、イランといった産油国が次々に石油資源の国有化を発表した。
そして、第四次中東戦争後期にあたる1973年10月、イスラエルが反転攻勢に出ると、OPEC(石油輸出国機構)は原油価格の引き上げと、イスラエルを支援する国(アメリカ合衆国とオランダ)への石油輸出を禁止した。石油を人質に、 世界に「アラブを支援して石油を得るか、イスラエルに味方して石油を失うか」の選択を迫ったのだ。これにより、原油価格は4倍に高騰し、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。
石油価格の高騰は、石油を全面的に輸入に頼っている日本にとっては特に深刻で、重工業を中心に大打撃を受け、高度経済成長時代が終焉した。

第四次中東戦争で、初めてイスラエルを追い詰めたことで、アラブの盟主の立場を強固なものにしたエジプトのサダト大統領は、中東和平のためにイスラエルとアラブ諸国およびPLOを加えた中東紛争の全関係者を集めた和平交渉を構想していた。しかし、PLOの過激テロ路線に怒りを抑えきれないアメリカのキッシンジャーは、この構想にPLOを加えることに反対した。このため、サダトはエジプトとイスラエルの単独和平交渉に向かわざるを得なかった(PLOが排除された形でアラブ諸国が和平交渉のテーブルにつくわけがなかった)。
アメリカは、エジプトが中東地域で大きなリーダーシップを持つことを望まず、アメリカの影響力を引き続き残したおきたかったのだ。

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ところで、「ムスリム同胞団」とは近代文明化するエジプトで組織された、イスラム原理への回帰を主張する緩やかな市民の連帯組織だったが、1965年のナセル暗殺未遂事件によって当局の弾圧を受け、その一部が急進化していった。中でも1970 年にアイマン・アル・ザワヒリによって創設された「ジハード団(アル・ジハード)」はエジプト政府の転覆とイスラム政権の樹立を目指し、武器を調達し、本格的な軍事訓練で兵士を育成するようになった。第四次中東戦争では、こうしたムスリム同胞団の中の武装集団が、エジプト正規軍とともにイスラエル軍と戦かったが、これを機に軍内部にも「ジハード団」の組織が浸透していった。

Camp_david_1978_3 内政面でサダトは、ナセル路線を完全に転換した。イスラエルに占領されているシナイ半島を取り返すことを最大の目的とするサダトは、アメリカの政治力を利用することが有効だと考えた。そこでサダトは、アラブ民族主義に変わる体制のイデオロギーとしてイスラム原理主義という新たな正当性を利用し、これによって政権に対する不満や批判をそらした。イスラム原理主義は政権の庇護下でその勢力を拡大し、ムスリム同胞団はエジプト社会の中に浸透していった。

一方、サダト政権になってからのエジプトはアメリカとの関係を深め、アメリカ式の資本主義・自由経済を導入して市場開放政策を行ったため、欧米製品が市場に氾濫し、消費者の欲望を刺激する一方で、新興富裕階層を生むこととなり、貧富の格差が拡大した。結局、エジプトの経済は発展したが、その繁栄を享受できたのはわずかに特権層のみで、一般市民の生活は苦しくなるばかりで、政府に対する不平不満が社会に蓄積されていった。
このような風潮は、イスラム原理主義者の眼にはエジプト社会の堕落と映り、市民の生活不満と相まって、イスラム過激派が勢力を伸ばた。

1977年にサダト大統領はイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招待でエルサレムを訪問、さらに、1978年9月5日から18日まで、米国メリーランド州の大統領山荘キャンプデービッドで、カ-タ-米国大統領、サダトエジプト大統領、ベギンイスラエル首相の三者会談が行われ、翌年1979年イスラエル、エジプト間に平和条約が締結された。イスラエルはシナイ半島返還を約束し、1982年4月完全撤退を完了した。

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エジプトとイスラエルの単独和平条約締結は、世界を驚かせたが、エジプト国内では親米・親イスラエルのサダト政権に対してイスラム勢力が激しく批判をするようになった。1981年には、サダト政権はムスリム同胞団メンバーの大量逮捕に転じ、イスラム原理主義勢力の弾圧を強化したが、急進派の活動はますます先鋭的になり、折からの景気後退とあいまって社会情勢が悪化した。

1981年10月6日、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中に、イスラム過激派のジハード団に所属する兵士により暗殺された。後継大統領に就任したホスニー・ムバラクは、ムスリム同胞団への徹底的な取締りを行ったため、イスラム原理主義勢力はエジプトを追われ、多くは義勇兵となってアフガニスタンでソ連軍と戦っていたムジャヒディン(イスラム聖戦士)に合流していった。アフガニスタンでは、サウジアラビアのイスラム原理主義グループを率いるオサマ・ビンラディンが、義勇兵を組織化してアルカイーダというイスラム私兵軍を作っていた。

第二章(7) 【1984年 カブール】 につづく。

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