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文明の黙示録(11)

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                   第一章 帝国の興亡 (7)

                   【 1948年 テルアビブ 】

01 中東で石油が初めて採掘されたのは、1908年、南イランのキルクークで英国人ウィリアム・ダーシーによってであった。彼が設立したアングロ・ペルシアン石油がのちのブリティッシュ・ペトロリアム(BP)であるが、これ以降、先進国のエネルギーが石炭から石油に切り替わっていく中で、石油資源をめぐる先進国の利権争いに中東各国は翻弄されていった。

イラク地域では1912年、英国とドイツがトルコ石油を設立、第一次世界大戦でドイツが利権を失うと、代わって1920年にフランスが資本参加して、イラク石油(IPC)が誕生した。中東の石油を獲得したいアメリカは、IPCへの参加を求めたが、アメリカの進出を阻止したい欧州グループは、旧オスマントルコ領域を赤い線で囲って(赤線協定)、アメリカの割込みを阻止しようとした。しかし、米系の石油会社ソーカル( Standard Oil of California)は1932年に「赤線」に含まれないバーレーンで石油を発見、これを足場にサウジアラビアから石油利権を獲得してアラムコ(アメリカ・アラビア石油会社)を設立した。1938年に、ソーカルはサウジアラビア最大の油田ガワール油田(700億バーレル)を発見、同年米系ガルフは、クウェートで大油田を掘りあてた。

1950年から60年代半ばにかけて中東では次々と巨大油田が発見されていくが、世界の石油利権は「セブン・シスターズ」と呼ばれる巨大メジャーによって支配されるようになった。

「セブン・シスターズ」(7人の魔女)とは次の7社である。
■ エクソン   アメリカ
■ ロイヤルダッチ・シェル 英国とオランダの合弁会社
■ BP      英国
■ モービル   アメリカ
■ ソーカル   アメリカ(のちにガルフ石油と合併「シェブロン」へ)
■ テキサコ   アメリカ
■ ガルフ    アメリカ(のちにソーカルと合併「シェブロン」へ)

しかし、セブン・シスターズは石油価格の管理と富の独占は国際的カルテルとして非難を浴び、中東産油国との間で利益配分をめぐる厳しい交渉が始まった。このような情勢下、アラブ諸国は結束を強め、ついに1960年、OPEC(石油輸出国機構)が結成された。

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ロシア革命ででソビエト政府が誕生すると、レーニンは1918年1月、帝政時代のイランに対する権益を一方的に放棄し、ロシア軍のイランからの撤退とイランの独立の全面的承認を宣言した。
ロシア撤退をうけて、英国はイラン全域を支配しようとしたが、イラン国内では反英民族運動が大きな高まりを示し、その後、イランは軍部独裁化し、軍部が政治の実権を握るようになった。軍を掌握していたレザー・ハーンは、1925年10月、独裁に反対する宗教指導者や議会政治家の声を押し切って臨時政権を握ると、12月にはレザー=シャーと名乗りってパーレビ朝を樹立し、初代国王となった。

イランでは、アングロ・イラニアン石油会社(のちのBP)が石油の一切の権利を独占支配していたが、モハンマド・モサデクが先頭に立って石油国有化を要求する運動が起こり、イスラム聖職者や共産党も参加した民族運動に発展した。イランでの石油利権を望むアメリカも、最初はこの運動を支持していた。
モサデクは1951年に首相となり、議会で国有化法案を可決し、イラン国営石油公社(NIOC)を設立した。これに対し、英国はフランス、アメリカを巻き込んでイラン石油を市場から締め出したため、イランの財政は窮乏し、石油国有化運動の熱は急速に冷めていった。結局、1953年に国王を支持するザヘディ将軍によるクーデターによってモサデク政権は倒され、パーレビ国王は再び権力を握った。これにより、イランの石油資本は再び外国資本へ移ったが、英国がそれを独占することはできず、7大石油会社(セブン・シスターズ)から形成される国際合弁会社が創設された。
このモサデク政権打倒のクーデターには、裏でアメリカCIAが介入していたとされている。

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アラビア半島では、アブドゥル・アジズによって1932年にサウジアラビア王国が建国された。
アラビア半島には石油は出ないと思われていたが、イラン/イラク地域での石油利権争いに出遅れたアメリカは、1931年、アル・ハサ地方のジャバル・ダンマーン周辺の地質調査によって石油埋蔵の可能性を発見した。この報告を知ったソーカルは、アブドゥル・アジズから60年間の独占採掘権を獲得し、1933年末、ソーカルの子会社カソック(カリフォルニア・アラビアン・スタンダード石油)を設立し、1936年にはテキサコも資本参加した。

0001第二次世界大戦が始まると、タンカーの航行が危険となって、石油の輸出は低迷した。一 時は、戦争の影響で聖地巡礼者の数も激減し、サウジアラビアの財政収入は危機に陥ったが、もっぱら自国産の石油を戦争で消費していたアメリカは、その資源枯渇の心配からサウジアラビアに対する援助を再開した。カソックは1944年に「アラビアン・アメリカ石油会社」(「アラムコ」)と改称され、さらに、1947年に、ソーカルとテキサコ両社はエクソンとモービルを資本参加させ、アラムコの生産体制は巨大なものになった。その後も、サウジアラビアの石油生産高は増え続け、国家財政は潤うようになった。1960年までに、サウジアラビア政府の収入に占める石油収入の割合は実に81%にのぼるまでになる。

アラムコ本社が置かれたダラハーンはアメリカ的な都市景観を呈すようになり、1951年には防衛協定によってアメリカ空軍基地が置かれた。アブドゥル・アジズは莫大な石油収入を一族や側近にばらまいたので、王子たちは西欧への訪問、贅沢と遊興にふけり、腐敗堕落した王子たちによる事件も相次いだ。
サウジアラビアは中東における親米国家として、その後のアメリカの中東政策で重要な役割を果たした。国王一族とアメリカの関係は密接なものであったが、一方、国民の中には反米意識を持つ者も増えていった。

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シオニスト(パレスチナの地にユダヤ人国家を作ろうという運動家)にとって、イスラエル建国は単なる夢にすぎなかった。第二次世界大戦前のパレスチナは、シナイ半島を含まないヨルダン川両岸、レバノンを指し南シリアと呼ばれていた。この地の人口は1914年に80万人程度、そのうちユダヤ人は多く見積もっても12%に達しなかった。

しかし、第一次世界大戦前からユダヤ人のパレスチナ入植は急増し、それをロスチャイルド財閥のような大きな資本家が支援したため、パレスチナ地方のユダヤ人人口は急増した。そのような中、英国は1922年、「チャーチル白書」を発表、バルフォア宣言に基づいてパレスティナにユダヤ国家を建設することを改めて宣言した。これに対して、アラブ側は独自にアラブ執行委員会を設置し、パレスチナにアラブ民族国家樹立を目指した。
当初、英国によるパレスチナ委任統治政府の施策はユダヤ人よりのものであったが、第二次大戦が近づくにつれて英国は親ユダヤの姿勢を崩していく。なぜなら、中東のアラブ諸国家が「反ユダヤ」という点でナチスドイツと協調することを恐れたためである。
第二次大戦で各地でユダヤ人虐殺が始まると、ユダヤ難民はパレスティナに流れ込もうとしたが、英国政府によって拒否されることになった。このように親ユダヤから親アラブへの方向転換を行った英国に失望したシオニストたちは、その活動の舞台をアメリカへ移した。これ以降、アメリカではシオニストが圧力団体として急速に成長する。

第二次大戦後、1947年2月に英国はパレスチナの統治能力を喪失したことを認め、この問題を国連に移管した。国連特別総会は、パレスチナ問題を調査するための特別委員会(UNSCOP)を設置し、現地調査派遣を決定した。
この委員会の報告書に基づいて、「パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、聖地エルサレムとベツレヘムは国連による永久信託統治する」という案が審議された。この時は可決に必要な3分の2の賛成を得られなかったが、ここから、シオニストとアメリカによる猛烈な多数派工作が展開された。
アメリカ国内には、多くのユダヤ人社会が存在し、選挙母胎としての圧力をかけていた。また、財界の実力者にもユダヤ人が多く、政府に圧力をかけた。ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領は、「ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない」といって、ユダヤ人国家の創設に賛成した。
1947年11月29日、国連総会はパレスチナ分割案を賛成33、反対13、棄権10をもって可決した。シオニストは即日イスラエル国家の設立を宣言し、アメリカは直ちにこれを承認し、3日後にソビエトもこれに倣い、イスエラルは建国された。

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0001_2 このイスラエル建国を、アラブ諸国が黙ってみているわけがなく、1948年5月14日、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、サウジアラビア、イラクのアラブ連合軍は、イスラエルの殲滅を目指してパレスチナに攻め込んだ。第一次中東戦争の勃発である。
建国したばかりで正規軍を持たず、チェコ製の戦車や戦闘機があっても、訓練された乗組員が居ないという状態のイスラエルは劣勢明らかで、あっという間にヨルダン側から進入したアラブ軍にエルサレムが包囲された。テルアビブ大本営のベングリオン初代首相は、エルサレム放棄はイスラエル建国を放棄するも同然である、と徹底抗戦を決意したが、すでに南側からもエジプト軍がテルアビブへ迫りつつあり、絶体絶命の状況だった。
そこに、世界中から第二次世界大戦を戦ったユダヤ人たちが集まってきて、イスラエルの奇跡の反撃が始まる。先の大戦で航空戦を戦ったユダヤ人パイロットたちは、チェコ語で書かれたフライトマニュアルにてこずりながらも、大戦では敵の戦闘機だったメッサーシュミットを乗りこなした。さらに英国製の戦闘機も到着し、航空戦でイスラエル軍が一気に優勢になった。地上戦でも、チェコの中古兵器市場から対戦車砲を調達すると反撃が開始され、元ソビエト赤軍戦車部隊の指揮官に率いられたイスラエル機甲部隊は、エジプト領内にまで侵入した。

1949年2月23日、英国の仲裁でエジプトとの停戦が合意されて、中東戦争は無期限の停戦となった。結局イスラエルの国土は、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原をのぞく国境線を確保することになった。
こうして開戦前より国土を大きく拡張したイスラエルだったが、戦争中および戦後のユダヤ機関によるアラブ住民へのテロ行為の結果、多くのアラブ人がイスラエル領から追い出され、パレスチナ難民問題という新たな国際問題を引き起こした。

第二章(1) 【1944年 ブレトンウッズ】 につづく。

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