文明の黙示録(31)
第三章 帝国の崩壊 (5)
【 2007年 バリ 】
20世紀は人類にとって、空前の発展の世紀であった。その前の世紀に始まっていた産業革命は「蒸気機関」という動力を生み、工業社会を拡大したが、20世紀に入ってからは、石油製品と電力によって地球的規模の経済成長がなしとげられた。一方で、20世紀の経済成長の原動力である「石油と電力」は、同時に地球の歴史にかつて無い規模での「CO2排出」をもたらした。20世紀は、電力と石油の大量消費に始まり、電力と石油の大量消費の見直しに終わる世紀、ととらえることができる。
国連機関であるWMO(世界気象機関)とUNEP(国連環境計画)が共同で設置しているIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が2001年にまとめた第三次報告によれば、2100年までに大気中のCO2濃度は540~970ppmに増大し(現在は370ppm)、地球平均気温は1.4~5.8度、海水準は9~88センチ上昇すると予想されている。これによって低地や島国の水没や、乾燥地域のいっそうの乾燥化と湿潤地域の豪雨の増大による農業生産への影響、マラリアなどの熱帯地方の感染症が広い地域への拡大、急激な変化に生態系が適応できないことによる希少種の絶滅、などが危惧されている。
2006年、気象庁のスーパーコンピューターの計算による地球温暖化の予測では、二酸化炭素濃度がこのまま上昇すれば、オホーツク海は100年後に水温が3~4度上がり、海氷が消えるという結果が出た。
CO2は現代文明においては、産業活動や自動車、冷暖房など、人びとの基本的な生活の中で不可避的に発生する。先進国には、CO2削減のための様々な技術的検討も要請されるし、また生活様式そのものへの意識の転換も求められている。しかし一方で、いま現在50億の人口を有する途上国は、今後の人口爆発、経済成長とともエネルギー消費が爆発的にのびていくと予想される。
19世紀以降、人類が築いてきた文明は、民主主義や自由主義、社会主義などのイデオロギーであり、経済と金融であり、軍事力と戦争であった。しかし、今その文明の前に現れた「環境」という大きな課題は、現在の世界システムを動揺させつつある無視できない問題となっている。そして、化石燃料の燃焼に伴う地球温暖化は、20世紀の地球的な経済成長によって生み出されているだけに、現代文明とどう両立させるか、人類の英知が試されている。
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最初に地球環境に関して国際的に討議されたのは、1972年にスウェーデンのストックホルムで開催された「国連人間環境会議」だった。この頃すでに、北欧諸国では酸性雨や環境汚染などの環境問題が顕在化し、人々の意識が高まっていた。
ストックホルム会議では、大気汚染などの公害や環境の破壊がこのまま進めば、人類は生存さえも怪しくなる、との危機感の共有を目指したが、米ソ冷戦時代であったことと、先進国がそれぞれ高度経済成長を遂げていたことから、環境への意識は高まったものの、環境保護に関する行動計画はほとんど実現しなかった。
その後、1987年には当時大問題となっていたオゾン層破壊の原因であるフロンガスを規制するモントリオール議定書が締結されるなど、地球規模環境問題を話し合うベースは少しずつできていったが、地球環境危機に国連が本格的に取り組んだのが、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた「地球サミット」であった。
地球温暖化問題が国際交渉の舞台に上がったのは80年代の終わり。1992年には、地球サミットに合わせ、気候変動枠組み条約が作られた。リオデジャネイロ会議では、かなり突っ込んだ話し合いが行われ、「先進国は2000年までに温室効果ガスの排出量を安定化させる」という条約の決議を目指したが、アメリカの猛反対によりこの条約では具体的な数値目標は掲げられなかった。
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米ソ冷戦が終結し、アジアや中南米の国々が経済成長路線に入ってくると、環境問題の深刻さが浮き彫りになってきた。ここへ来て科学的な研究も進み、地球環境破壊の影響が明らかになるにつれ、先進諸国も自己都合での問題の先送りをやめて、国際的枠組みで環境保護に取り組む方向に国際政治が動かされていった。1997年の京都会議では、日本、アメリカ、EUの先進工業国にCO2削減の数値目標が掲げられ、また、アメリカの強い提案により森林の吸収源をカウントする仕組みや先進国同士で排出できる枠を取り引きする仕組みが導入された。
EUは、京都会議ではCO2削減に積極的だった。これは、1995年に環境問題に関心の高いスウェーデンやフィンランドがEUに加盟したことが影響しているが、それ以外にも、CO2の排出量を取引できる制度が導入されると、エネルギー効率の悪い東欧を援助し、そこで削減した多くのCO2排出量をEU割り当ての削減排出量分に当てられるという読みがあった。(実際に2004年、EUローマ会議によって一気に10カ国がEUに加盟することになる。)
クリントン政権のアメリカもまた強気だった。米民主党の大きな支持母体となりつつあった環境団体を強く意識し、削減実施を強調し、京都会議ではCO2削減に消極的だったロシアも説得した。アメリカもまた、中南米諸国と共同実施すれば、少々の割り当て削減量も達成できるだろうという読みがあった。もっとも、中南米諸国はCO2の削減を押し付けられるのを恐れて、アメリカとの共同実施には反対したが。
日本は、環境問題でイニシアチブを取りたい環境省と、経済成長の足かせになることを懸念する通産省の間で綱引きが続いたが、開催国としての面子を立てたい外務省の後押しによって6%の削減目標を受け入れた。
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ところが、2001年3月、アメリカに共和党のブッシュ政権が発足すると、ブッシュ大統領が突然京都議定書からの離脱を世界に向けて宣言した。10年の交渉の成果として作られた京都議定書を、一方的にひっ くり返すような発言に世界中からアメリカを非難する声が殺到した。アメリカが立場をひるがえしたのは、ブッシュ大統領や政権幹部とアメリカ石油メジャーとの親密な関係によるものであることは明らかだった。事実、世界最大の石油企業エクソンモービルは、ブッシュ大統領の選挙資金の大献金先であった。
日本とEUは選択に迫られた。ひとまずアメリカ抜きで京都議定書を発行するか、それとも、アメリカといっしょにもう一度ゼロから話し合いをやり直すか。EUはアメリカ抜きでも条約を発効させようと意気込んだが、ブッシュ政権とべったりの関係だった日本の小泉首相は、「アメリカを説得する」というあいまいな態度を取りつづけた。結局、世界の多くの国が参加して作った京都議定書を台無しにしたのは、日本とアメリカだった。
2007年6月、ドイツのハイリゲンダムで開かれた主要国首脳サミット(G8サミット)では、「世界経済」「アフリカ」を主要議題として議論され、世界経済では、特に気候変動が大きなテーマとなった。 今日現在、温室効果ガス削減の枠組みとして京都議定書があるが、最大の排出国であるアメリカは京都議定書から離脱しており、中国やインドなどの主要排出国には削減義務が課されていない。そのため、サミットでは、ポスト京都議定書の新しい枠組みづくりが重要な課題として取り上げられた。
排出削減の新しい目標を定めるにあたっては、主要排出国を含めて、2050年までに地球規模での排出量を少なくとも半減させるという日本などの決定を真剣に検討するとの内容が、首脳文書に盛り込まれた。さらに、全主要排出国を含む2013年以降(ポスト京都議定書)の包括的な合意の達成に向け、2007年12月にインドネシアのバリで開催される国連気候変動会議に参加するよう、すべての締約国に呼びかけることも合意された。
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人類はいま文明の大きな転換期にある。現在の地球環境の問題を放置して、このままアメリカ型の大量生産、大量消費文明を続けていくと、2050~2070 年頃には現代文明は終焉を迎える、という指摘もある。地球環境問題の解決は、市場原理主義をどう超克できるか、国際的な企業資本の求める利潤とどう折り合いをつけるか、にかかっている。
自然と人間が調和した共存型のライフスタイルや世界観による21世紀の新しい文明を、私たちは作り上げることができるだろうか。
【 完 】
長らくご愛読いただきましてありがとうございました。「文明の黙示録」は、今回で完結いたします。石油文明と言われる現代世界が生み出した国際石油資本や国際金融資本が、平和においても戦争においても国際政治で大きな役割を果たすようになった流れを浮き彫りにして、低迷する今日の日本の病根を明らかにする一方で、これらからの日本の針路を見出したい、と考えて1世紀少々の時間を俯瞰してきました。本来は各トピックスの出典を明らかにすべきですが、多くの資料に手を広げすぎてしまい、まとめきれなくなってしまいましたことをご容赦下さい。(筆者)
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2005年11月、アルゼンチンのマルデルプラタ市に米州34カ国(除くキューバ)の首脳レベルが集まり、第4回米州首脳会議(米州サミット)が開催されたが、FTAA(米州自由貿易地域)をめぐってアメリカと主要南米諸国(ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン)とが対立し、結果は、交渉が事実上凍結され、FTAAは完全に頓挫した。
新自由主義にもとづく経済統合は、FTAAに先行してアメリカ、カナダ、メキシコを統合する北米自由貿易地域(NAFTA)が1994年から実施に移されたが、そこでも貧富の差が拡大し、特にメキシコでは労働者、農民、先住民の生活破壊が顕著に現れた。NAFTAによるメキシコ経済と人民生活の破壊と荒廃を見せつけられたラテンアメリカ諸国では、1990年代後半から反新自由主義の闘いが大きく高揚しはじめ、2000年代に入って大きなうねりとなり、新自由主義にはっきりと反対する政権が次々と登場するまでになったのだ。
アジア通貨危機の戦犯として、マレーシアのマハティール(前)首相はジョージ・ソロスを名指しで批判し、アメリカ主導のAPEC(アジア太平洋経済協力機構)をけん制しながら、アメリカの影響力を排除した形でのアジア自体の地域協力体制を強調している。
その点では、日本はいまだにアメリカへの恭順姿勢を堅固に示している。小泉政権が行った構造改革は、まさに新自由主義改革そのものであり、他国の例に違わず規制緩和で賃下げが進み、政府が「景気回復」と公表する中で家計の所得は減少し、地方を中心に市民の生活が深刻化した。日本の場合、経済全体の貯蓄が大きいために対外債務危機にはならないが、デフレ不況が深刻化し、不良債権処理を進めた銀行の貸出しも増えるどころか減少し、国債の購入が増えている(これは、90年代のラテンアメリカ諸国と共通の現象である)。
ロシアでは、エリツイン時代にエゴール・ガイダル首相が推し進めた急進的資本主義化の下で、政財癒着による極端な企業優先政治や急激な価格自由化がハイパーインフレを招き、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と格差社会拡大を招いた。1999年に健康上の理由で引退したエリツィンに大統領代行に指名された元KGB出身のウラジミール・プーチンは、大きな政治力を持つようになった財閥企業を脱税・汚職などで追求し、企業の政治介入を排除し、企業にしっかり税金を納めさせることで国家財政を再建することに成功した。
アメリカの証券会社ゴールドマン・サックス社のエコノミストが、2003 年10 月に発表した投資家向けリポートによると、2050年の国別の経済規模は、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順となり、中国が世界最大の経済大国になる、と予測されている。
アメリカの国際法に違反したイラク戦争に反対したドイツ、フランスをはじめとする欧州連合(EU)は、対米協調を維持しつつも、アメリカ一極支配を相対化させる位置を占めてきている。2004年10月にローマで加盟国首脳らが欧州憲法条約に調印してから、EUは旧社会主義国(東ヨーロッパ)も加盟国に加え、平和的手段によって欧州大陸の統合を促進してききた。近年新しく加盟した国々も資本主義国家として急速に力をつけつつあり、それが経済ブロックとしてのEU全体の経済力を上昇させている。欧州共通通貨であるユーロの地位はますます高まり、ユーロ非加盟国における利用も拡大している。
皮肉にも、冷戦崩壊によって世界の一極支配を目指したアメリカのネオコン勢力は、アフガニスタンやイラクへの武力侵攻で失敗し、その間にロシア、中国、EUといった新しい勢力が台頭してきた。アメリカは、逆に世界の中での孤立が深刻となり、中東やラテンアメリカ地域での反米勢力の拡大を招いた。パレスチナ情勢でも、パレスチナ人民とイスラエルの対立激化など、アメリカが抑え込もうと狙った地域の不安定化はいっそう進み、アメリカ主導の「和平構想」は完全に吹き飛んでしまった。
2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件直後に、「テロとの戦い」を訴えてアフガニスタンに軍事攻撃を仕掛けたブッシュ大統領は、2002年初頭の一般教書演説において「悪の枢軸」として、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国を名指しで非難した。特にイラクに対しては、大量破壊兵器を保持しているとして、政府関連施設などの国際機関による査察を繰り返し要求、イラクはこれに応じて4年ぶりに全面査察が行われたが、アメリカは納得のいく結果ではなかったとさらに非難した。
2003年12月30日、司法省のパトリック・フィッツジェラルド特別検察官は、司法長官命令により、この事件解明のために捜査を開始したが、政府高官らの圧力や嫌がらせ、マスコミの情報源の秘匿などの圧力によって捜査は非常に難航した。この捜査の最中の2005年7月18日には、フィッツジェラルド暗殺未遂事件も起きた。だが、フィッツジェラルドは22ヵ月に及び取り調べを行い、FBIや大陪審に対する偽証などに焦点を絞り、遂に事件を立件した。
だが、フセイン政権が倒れた後もイラクの戦闘状態は続き、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついていても武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手には、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となった。このため、イラク業務に参加した民間会社は、独自に民間軍事会社とよばれる企業に武装護衛兵の派遣を委託したが、民間軍事会社の雇った多数の傭兵がイラクに入ったことで、反米イスラム武装勢力との戦闘はますます激化した。
イラクのサダム・フセイン大統領は、米軍がバグダッドを占領した時にはすでに姿をくらましており、数ヶ月間行方不明であったが、2003年12月14日、ティクリート近郊の隠れ家に潜伏している所を米軍に発見され、拘束された。その後、イラク住民虐殺などの罪で起訴されたフセインは、2006年12月30日未明に死刑執行された。イラクでは、一時スンニー派とシーア派の武装勢力の間での宗派間抗争が起こったが、やがて両派は結束して占領米軍に対するレジスタンス運動を展開するようになった。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の黒幕を、オサマ・ビンラディンと彼が率いる国際テロ組織アルカイダと断定したアメリカは、ビンラディンを保護するアフガニスタンのイスラム原理主義政権タリバンを倒すため、10月7日からアフガニスタンに対する空爆を開始した。そして、11月13日にはアメリカの支援を受けたアフガニスタン北部同盟軍が首都カブールを制圧してタリバンを駆逐した。
話は遡るが、9.11アメリカ同時多発テロ事件の2日前、アフガニスタンの北部同盟のリー ダー、アハマッド・シャー・マスード将軍が取材記者を装ったテロリストの自爆テロによって暗殺された。マスードは、ソ連侵攻の際に祖国を守るためムジャヒディン(イスラム戦士)をまとめて、10年間に渡ってソ連軍と徹底的に戦い、ついには撤退を余儀無くさせた「バンジシールの獅子」と呼ばれた英雄であった。マスードは92年に暫定政権を打ち立て首都カブールに入ったが、民族同士の権力争いが勃発し、首都カブールにもロケット弾が打ち込まれるほどの内戦状態になると、「これ以上街が破壊されるのも、市民を傷つけるのも耐えられない」とカブールを撤退する。
また、WTCには、飛行機が突入したツインタワーの近くにWTC第7ビルというビルが建っていたが、これも2つのタワーと同様に崩壊した。この47階建てのビルは、飛行機の突入の影響は何も受けず、ただ小規模の火災が発生していただけだったが、突然跡形も無く崩壊してしまった。WTC第7ビルには多くの政府系機関が入居していたが、中でも証券取引委員会の事務所には、企業の不正に関する調査書類2000~3000箱が保管されており、それらが灰になってしまった。中には、現在進行中の調査書類が多数含まれていた。
パキスタン情報筋は、オサマ・ビンラディンが2001年9月11日の前夜、パキスタンのラワ・ルピンディにある軍病院で腎臓透析治療を受けていたことを明らかにした。フランスのフィガロ紙は、2001年10月31日に報じたスクープで、病院職員が目撃した有力情報として、オサマが7月4日から14日にかけて、パキスタン経由でアラブ首長国連邦(UAE)のドバイにあるアメリカン病院へ腎臓病治療のために入院し、そこへビンラディン一族、サウジ諜報機関の最高責任者トゥルキ・アル・ファイサル王子(同年8月31日に解任)、さらにはCIAのドバイ支局長ラリー・ミッチェル(同年7月15日にCIA本部へ呼び戻された)までもが面会に訪れていた、と伝えた。重度の腎不全を患っていたオサマは、2001年12月、パキスタンの病院でひっそりと息を引き取った。12月26日のエジプトのアル・ワフド紙は、オサマ・ビンラディンがアフガニスタンのトラボラで10日前に埋葬された、と葬儀の模様を伝えたのをはじめ、FBIテロ対策本部長デイル・ワトソンとパキスタンのムシャラフ大統領もオサマの死を追認した。
2001年1月に誕生したブッシュ政権は、早速アメリカの軍事・外交路線を大幅修正した。
2001年6月23日付のワシントン・ポスト紙は、チェイニー副大統領が前年8月まで会長を務めていた大手石油採掘会社ハリバートン(テキサス州ダラス)が、国連制裁下のイラクに7300万ドル相当の石油採掘施設を建設・供与する契約に関わっていた、と報じた。同紙は、石油業界幹部や国連の機密文書に基づく情報として、1998年からイラク政府と結んだ石油採掘施設や排出ポンプの売却契約にハリバートン社が直接関わっていたとし、湾岸戦争で多国籍軍が破壊したイラクの石油採掘施設の修復契約についてもイラク政府と合意寸前だったが、クリントン前政権が「国策に反する」としてこれを阻止した、と伝えた。
2001年9月11日、衝撃的な映像が世界中に配信された。ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センターの超高層ツインタワー北棟に、ボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が突入、爆発炎上した。黒煙を上げる超高層ビルの映像に人々が息を呑む中、約20分後に、今度はユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルのツインタワー南棟に突入し爆発炎上した。この時、人々はこれが飛行機事故ではなく、何かとんでもない事件が発生した、と確信した。
「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ばれることになるこの事件の犠牲者は、ハイジャックさ れた4機の旅客機の乗員・乗客、アメリカ国防省および世界貿易センタービルの犠牲者、ニューヨーク市消防局の消防士、ニューヨーク市警察の警察官、ニューヨーク港湾管理委員会の職員など、すべての死者を合計すると2,973人に上った。
「1980年代のイスラエルの戦略(A Strategy for Israel in the Nineteen Eighties)」という記事は、1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』という世界シオニスト組織の出版物に掲載された、イスラエルと中東の未来図を分析した報告書である。
クリントン政権のあいまいな軍事戦略にイラ立ちを隠さない軍産複合体は、1997年に「新しいアメリカの世紀プロジェクト(Project for the New American Century=略称PNAC)というシンクタンクを設立し、1998年1月にはイラクへの侵攻をクリントン大統領に進言した。
NHKが2004年2月7日に放映した『エルサレム』(後編)という番組では、イスラエルのシャロン(当時国防相)がアメリカを訪問した際に参加した、あるパーティーシーンが映されていた。これは「ワシントンにあるユダヤ系のシンクタンクJINSAが毎年開いているパーティで、出席者はイスラエル軍、アメリカ軍、そしてロッキード社などの軍需産業関係者」だと紹介された。
この時のフロリダ州知事は、ブッシュ候補の実弟でPNAC会員のジョン・エリス(ジェブ)・ブッシュだったが、ジェブはフロリダ州投票実施に先駆けて、「フロリダ州民重罪前科者リスト」を作成し、リストに該当する約9万4千人のフロリダ州住民の投票資格を剥奪した(テキサス州、フロリダ州など南部の13の州では重罪前科者の投票権を認めていない)。
湾岸戦争終結後、アメリカの期待したイラク国内の反政府勢力によるサダム・フセイン政権への反乱は、イラク軍によって簡単に制圧されてしまった。ブッシュ大統領は、1991年10月からロバート・ゲイツ国家安全保障副顧問を中心に、サダム・フセイン暗殺工作を画策したが、これも成功しなかった。
1998年のビル・クリントン大統領は年初から前代未聞のスキャンダルに見舞われていた。クリントンは、1994年の合衆国大統領就任直後にも、アーカンソー州知事時代の部下だったポーラ・ジョーンズさんにセクハラで告訴されていたが、98年1月にはホワイトハウス研修生モニカ・ルインスキーさんとの「不適切な関係」が明らかになったのだ。スキャンダルが持ち上がった直後は疑惑を否定していたクリントンだったが、7月29日にモニカが刑事免責の上で証言すると、クリントンの不倫および偽証教唆の疑惑は決定的になった。
1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビのアメリカ大使館に爆薬を満載したトラックが突っ込み、この自爆テロによってビル内にいた大使館員と民間人など291名が死亡し、、5000名以上が負傷した。完全に崩壊して瓦礫の山となった大使館の映像は、アメリカはもちろん、世界中に配信されて人々に大きな衝撃を与えた。
8月20日、アメリカ当局はアフリカの二つの大使館爆破事件の首謀者はオサマ・ビンラディンとイスラム過激派アルカイダと断定し、クリントン大統領はその報復攻撃の実行をテレビで発表した。対象はアルカイダの拠点と断定したスーダンの首都ハルツーム郊外にある化学兵器工場と、アフガニスタンのテロリスト訓練キャンプで、インド洋に展開していた複数の軍艦からトマホーク巡航ミサイルが多数撃ち込まれた。
イスラエル建国以来、中東和平はパレスチナ難民問題によって行き詰っていた。集団交渉では何の進展もない状況を打開するべく、1991年にスペインのマドリードで行われた中東和平会議では、イスラエルとアラブ諸国が個別に交渉する単独交渉方式が認められ、1994年10月にはイスラエルとヨルダンの講和が成立した。
1993年2月にニューヨークで起こった世界貿易センタービル爆破事件、95年5月のエジプトのムバラク大統領暗殺未遂事件、同年11月のサウジアラビアのリヤド国家防衛隊施設爆破事件など、続発するイスラム過激派によるテロ事件の黒幕をオサマ・ビンラディンと見るアメリカやサウジアラビア当局は、オサマを庇護するスーダン政府に対する圧力を強めた。このため、1996年5月18日、オサマはスーダンからアフガニスタンに移り、アフガニスタンを統一しつつあったタリバンの本拠地、カンダハルに入った。
1990年8月2日、イラクのクウェート侵攻に対して、国連安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を採択した。対イラクの国連軍の出動は政治的に難しかったため、アメリカは有志による多国籍軍を編制、英国、フランスなどが参加、アラブ各国からもエジプト、サウジアラビアなどがアラブ合同軍を結成してこれに参加した。
中でも、1989年にアフガニスタンからソ連軍が撤退した後、サウジアラビアの実家に帰っていたオサマ・ビンラディンは、サウジ王室に対して強い抗議の姿勢を見せた。
1969年から混乱が続いていたソマリアでは、1991年1月に反政府勢力統一ソマリア会議(USC)がバーレ大統領を追放して暫定政権を発足させたが、USCの内部分裂から内戦状態に突入し、1991年12月に国際連合に対しPKO部隊派遣が要請された。
ソ連の崩壊によって社会主義圏で民族自決の動きが広がる中で、ユーゴスラビアではスロベニアとクロアチアの独立に続いてボスニアも1992年の3月に独立を宣言した。しかし、独立賛成派のムスリム人と独立に反対の少数セルビア人勢力との武力衝突が勃発してしまう。
第二次世界大戦後、日本は輸入制限や高率関税で輸入を抑制し、外資の直接投資を規制しながら、輸出促進をはかることで高度成長を達成した。日本の再軍備に神経質になる周辺諸国の視線もあり、アメリカは日本を経済大国にすることで、東西冷戦構造の中で日本を東アジア地域の西側陣営の安定した橋頭堡とすることを選んだ。
プラザ合意後の日米間の経済構造は、急激な円高によって日本の競争力がそがれ、アメ リカの輸出を拡大する、はずだった。ところが、アメリカの目論見に反して、円高のもと、日本は瞬く間に世界一の債権国になった。日本企業が輸出産業の生産基地を東南アジアに移したことで、アジアの経済統合も進み、東アジアに日本を中心とする新たな分業が急速に確立された。
最初は「グローバルスタンダード」は、国際化する日本の未来社会にとって必要なものだと思い込んでいた国民も、やがてアメリカの本当の目的が日本市場の搾取だと分かると、弱腰な政府や通産省への批判を強め、あからさまなアメリカ政府の強要を「押し売り外交」と嫌悪するようになった。
投資イニシアティブでアメリカが日本に求めている内容は;
アメリカの麻薬ビジネスは、冷戦期間を通じて築き上げられていった。ソ連および共産主義勢力に対する世界各地での様々な活動には莫大な費用を要するが、それらすべてを公開して議会に予算請求することは出来ない。国内には常に平和のために軍事費用、防諜費用を削減せよ、という圧力があり、時に十分な予算を議会が認めない場合もある。
1981年にレーガン政権ができると、アメリカの支配力を維持拡大するため、世界各地でアメリカの代理をする民兵組織を養成し、その資金確保のため、麻薬栽培が積極的に行われるようになった。その顕著な例が、ニカラグアだった。
1989年12月20日、アメリカの武装ヘリ部隊がパナマ市内に爆撃を開始し、米軍のパナマ侵攻が始まった。500名のパナマ国防軍に対して米軍は25,000の大部隊でパナマ国内27カ所を同時に攻撃し、ノリエガ将軍は投降した後、アメリカ本国で裁判にかけられ、1992年に「麻薬密売」の罪により40年の拘禁判決を受けた。
1972年12月、中米ニカラグアの首都マナグア市を襲った大地震は、神戸大震災の数倍という規模で、何万という犠牲者を出した。ニカラグア支援のために、世界中から多くの支援物資や義援金が寄せられたが、独裁政権の実権を握っていたアナスタシア・ソモサはその資金のほとんどを着服してしまった。このため、地震で倒壊した建物の整理も全く手が付けられず、その後長く壊れかけ朽ち果てたビルディングや瓦礫の山といった大地震の爪痕が放置された。
アメリカの反米政権転覆作戦は、古くから筋書きが決まっていて、まず国内の反政府勢力に最大限の謀略活動を行わせ、マスコミを使ってデマ宣伝を広げ、テロリストが破壊活動や要人暗殺などを行う。その間に国外で亡命政治家が「暫定政府」を作り、アメリカに支援を要請すると、米軍がそれに応えて出動する(CIAには立派な「破壊活動マニュアル」までそろえてある)。
1986年末、ベイルートから発せられた一本の外電が、やがて世界を揺るがす大スキャンダルに発展しようとしていた。レバノンのシリア系新聞「アルシラア」がイラン高官筋情報として「アメリカ政府が密かにイランに武器を売却している」と暴露し、さらにその売却代金をアメリカ政府がニカラグアの反政府組織コントラに手渡していたことが明らかになった。
ソ連は、アメリカと並ぶ超大国として第二次世界大戦後の東西冷戦構造の一極を担ってきたが、社会主義計画経済は机上の理論の通りには機能せず、非効率と不採算で、1960年代中頃には停滞傾向が明らかになってきた。
ソ連は、当初はアフガニスタンへの軍事介入に消極的だったが、アメリカがチリやラテンアメリカ地域での介入工作にてこずり、中央アジアへの注意が十分行き届いていないことを見越したKGBのアンドロポフ議長とグロムイコ外相によって、ブレジネフ書記長が病床に伏せている間に、アフガニスタンへの軍事侵攻が決定された。
オサマ・ビンラディンの生家は、父のムハマンド・ビンラディンが一代で築いたサウジアラビア最大のゼネコン財閥だった。ビンラディン・グループはサウジアラビア王室および軍関係の契約に強く、このためアメリカ企業との関係も深かった。
BCCI(クレディット・アンド・コマース・インターナショナル銀行)は、1972年にパキスタン人アガ・ハサン・アベディによって設立された。アベディは、同じイスラム教徒の利点を生かし、中東の産油国王室関係者、政府要人と親しくなり、そうしたオイルマネーによってBCCIは発展した。
イスラエルの建国で居住地を追われたパレスチナ難民は、1964年にパレスチナ解放機構(PLO)を組織して反イスラエルのテロ行動を激化させていた。1969年2月、ヤセル・アラファトが正式にPLOの議長に選出され、ファタハを始めとする武闘派勢力が実権を掌握すると、PLOは世界中を震撼させるテロ組織へと成長していく。
1973年10月6日、エジプトとシリアの連合軍はイスラエル軍を急襲した。エジプト軍は、不意を突かれたイスラエル軍を撃破してシナイ半島へ進出、イスラエル拠点を占領した。ゴラン高原では、圧倒的な戦力と装備を持つシリア軍が優勢で、イスラエル軍はじりじりと後退を余儀なくされた。イスラエルは一時はシナイ半島西部とゴラン高原の一部を失い、自国領土まで侵攻を受けそうな状態になったが、アメリカから兵器の追加供給を受けるなど体制を整えて反撃に出る。イスラエル軍はゴラン高原のシリア軍に大攻勢をかけ、防戦一方となったシリア軍を追撃して首都ダマスカスへ迫った。しかし、ソ連軍がイスラエルに対して宣戦する動きを見せたためにダマスカス手前で進軍を停止した。シリアのアサドはサダトに対して、シリアへの援軍を要請したが、サダトの目的はシナイ半島奪還のみで、イスラエルには手を出さないというアメリカとの約束で、この要請を無視した。
内政面でサダトは、ナセル路線を完全に転換した。イスラエルに占領されているシナイ半島を取り返すことを最大の目的とするサダトは、アメリカの政治力を利用することが有効だと考えた。そこでサダトは、アラブ民族主義に変わる体制のイデオロギーとしてイスラム原理主義という新たな正当性を利用し、これによって政権に対する不満や批判をそらした。イスラム原理主義は政権の庇護下でその勢力を拡大し、ムスリム同胞団はエジプト社会の中に浸透していった。
第2次世界大戦後の世界は、米ソ二大超大国による東西冷戦という緊張の上に成り立った安定によって、経済発展が維持されていた。しかし、皮肉なことに、その緊張と安定を支える当事者のアメリカとソ連は、多大な負担を強いられて苦しんでいた。
ニクソン政権の安全保障担当補佐官として外交を担当したヘンリー・キッシンジャーは、アメリカの国際的地位を守り、その権威でドルの信用を維持するために、非常に困難な外交政策を進めなければならなかった。当時、冷戦の中で莫大な利益を上げていた軍事産業などから巨額の政治献金が政府中枢に流れ込んでいたため、米当局関係者の大部分は緊張緩和政策に反対の立場であり、キッシンジャーが考える「バランスオブパワー」構築のための外交戦略に対して政府内の合意を取り付けることは無理だった。そのため、キッシンジャー外交は隠密外交とならざるを得なかった。
核と軍事力では東西で均衡した冷戦体制だったが、経済面では資本主義陣営の圧倒的な優位が明らかになってきた。
第二次世界大戦後の世界は、政治、経済、軍事、イデオロギーなどあらゆる側面での米ソ間、そして東西間の二極構造が現出した。その一方で、アジア、中東地域、南米、アフリカなどの、いわゆる第三世界と呼ばれていた地域では民族自決、独立国家建設の動きが激しくなった。戦後世界は、新しい秩序を作り上げる必要に迫られていた。
1968年、チェコスロヴァキアでアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に就任してから始まった、社会制度および政治制度全般の民主化を目指した「改革」運動は、「プラハの春」と呼ばれた。東欧地域における民主化運動の高揚に危機感を抱いたソ連は、ワルシャワ条約軍約5万人で国境を越えてチェコスロヴァキアに侵攻、ドゥプチェクを武力で排除してチェコスロバキアの社会主義体制を確保した。この時のソ連の論理は、「1国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義諸国の利益を守ために1国の主権は優先しない」というもので、ソ連共産党書記長の名前に因んで「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれた。
毛沢東は、1957年にソ連のスターリンから核兵器開発の技術援助を受ける協定を結んだ。以後、中国の核兵器開発は、ソ連の技術援助により進められた。中国は19世紀に帝国主義強国の侵略を受けた経験から、アメリカを中心とする西側陣営を帝国主義勢力として恐れ、対抗できるだけの軍事力を持つ必要性を強く感じていた。
軍産複合体を生み出した背景が「ウォー・エコノミー(戦争経済)」の存在である。
ここで、ケネディが上院議員に初当選した1952年まで話はさかのぼる。
史上最年少で大統領に就任したケネディは、米ソの利益のために行き過ぎない東西の緊張関係を続ける、という冷戦の枠を踏み越えてしまう。最初は、ベルリン危機だった。
1963年11月22日、ケネディは遊説のためにジャクリーン夫人とともにテキサス州ダラスのラブフィールド空港からダウンタウンに向かっていた。大統領夫妻の乗ったオープントップに改造されたリンカーン・コンチネンタルのリムジンが、ディーレイプラザの大通りに進入した直後に、複数の弾丸がケネディに向かって撃たれた。
先週10月31日と11月2日の福田首相と小沢代表の党首会談において、福田首相側から自民、民主両党がそれぞれの重要政策を実現するために連立政権を作りたい、との要請があった。福田首相の提案は、自衛隊の海外派遣に関する恒久法について、民主党の法案をそのまま受け入れる代わりに、年金問題などの国民の生活に関わる法案について両党で政策協議を開始したい、というものだった。
小沢氏の記者会見での説明では、次の衆議院選挙で民主党が政権を取る見通しは明るくなく、今、自民党と政策協議の実績を作って政権担当能力を実証することが重要だ、という考えだったという。しかし、この説明はそのまま受け取ることはできない。
2000年の森内閣時代の「加藤の乱」以来、評論化然として政治の第一線から一歩も二歩も引いていた加藤紘一氏の活動が、最近活発になってきた。彼も、自民党内に留まらず、リベラルの勢力のリーダーになるべきプレーヤーなのだ。小沢氏に遠慮して、従順な副代表職を務めてきた菅直人氏も、これで自身の主張をはっきり言えるようになるだろう。郵政選挙の敗北で引責辞任した岡田克也元代表も復権してくるだろう。国民新党の亀井静香氏や、無所属の平沼赳夫氏はどう出るか。
第二次大戦が終わる前年の1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズに44ヵ国の代表が集まり、戦後の国際通貨体制のあり方をめぐって協議が行なわれた。戦後の国際社会で、第三世界(資源保有国)を取り込んだグローバル経済を見越して、戦前のアメリカの大恐慌や、大戦の原因となった経済のブロック化を防ぎ、より安定的に世界の経済を発展させる仕組み作りが議題だった。
こうして第三世界がドル経済圏に加えられる過程で、朝鮮戦争、インドシナ戦争、アルジェ リア戦争、ベトナム戦争などが続発した経過から見れば、 ブレトンウッズ体制とは第三世界諸国を経済的植民地化するという側面もあったと言える。
2000年11月、イラクのサダム・フセイン大統領は石油輸出をユーロ建てにすることを決定した。ブッシュ政権のポール・オニール財務長官は、2001年の新政権の初回の閣僚会議の最も主要な議題は、どの様にしてサダム・フセインを追放するかである、と語った。アメリカがサダム・フセインの排除を話し合ったのは、9.11の事件の前だったのだ。 
中東で石油が初めて採掘されたのは、1908年、南イランのキルクークで英国人ウィリアム・ダーシーによってであった。彼が設立したアングロ・ペルシアン石油がのちのブリティッシュ・ペトロリアム(BP)であるが、これ以降、先進国のエネルギーが石炭から石油に切り替わっていく中で、石油資源をめぐる先進国の利権争いに中東各国は翻弄されていった。
第二次世界大戦が始まると、タンカーの航行が危険となって、石油の輸出は低迷した。一 時は、戦争の影響で聖地巡礼者の数も激減し、サウジアラビアの財政収入は危機に陥ったが、もっぱら自国産の石油を戦争で消費していたアメリカは、その資源枯渇の心配からサウジアラビアに対する援助を再開した。カソックは1944年に「アラビアン・アメリカ石油会社」(「アラムコ」)と改称され、さらに、1947年に、ソーカルとテキサコ両社はエクソンとモービルを資本参加させ、アラムコの生産体制は巨大なものになった。その後も、サウジアラビアの石油生産高は増え続け、国家財政は潤うようになった。1960年までに、サウジアラビア政府の収入に占める石油収入の割合は実に81%にのぼるまでになる。
このイスラエル建国を、アラブ諸国が黙ってみているわけがなく、1948年5月14日、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、サウジアラビア、イラクのアラブ連合軍は、イスラエルの殲滅を目指してパレスチナに攻め込んだ。第一次中東戦争の勃発である。
第一次世界大戦の結果、ドイツ帝国は崩壊し、戦勝国とはいえフランス、イタリアは弱体化してしまった。東アジアにおいて有力な帝国主義として残ったのは英国、日本、それに新たに登場したアメリカの三国のみとなった。
日本政府はワシントン条約を受け入れ、米英との協調路線を模索したが、日本を戦争に 追い込みたい勢力は中国人に排日・反日思想を広め、満州では張学良を使って日本軍との紛争を仕掛けて情勢を不安定にした。
日本軍による仏印進駐への対抗措置として、1941年7月以降アメリカ、英国、オランダなどにより日本に対して行われてきた石油および鉄の禁輸や日本資産の凍結(いわゆるABCD包囲網)で、経済的に圧迫され追い詰められた日本は、11月から妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカなどと最後の交渉を続ける一方、海軍機動部隊をアメリカ太平洋艦隊の基地となっているハワイ・オアフ島ホノルル近郊の真珠湾に向かわせた。
1929年10月、ニューヨーク、ウォール街の株価大暴落から始まった大恐慌は、瞬く間に世界に広がり、空前の規模の大不況が世界を覆った。ドイツ国内では失業者の数は700万人を超え、自殺する人があふれ、風俗は乱れ、絶望の中で国民は強力なリーダーを求めた。そのような情勢の中で登場したナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)のアドルフ・ヒトラーは、ベルサイユ条約を批判し、そのために引き起こされたドイツ社会の混乱、経済の崩壊、国家財政破綻を戦勝国側の責任とし、一方でドイツ国民には民族の誇りを呼びかけ、ナショナリズムを刺激して、民族の復興というスローガンで人々の熱狂的支持を得た。ドイツ国民はヒトラーに未来を託した。
ところで、この民族優生の思想はドイツだけのものではなかった
人種の優劣差別の思想では、日本人を含むアジア人(黄色人種)もその対象であった。
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは戦争特需によって発展した重工業へのさらなる投資、帰還兵による消費の拡張、ベルトコンベア方式でマスプロダクションが可能になったフォード車によるモータリゼーションのスタート、家電電化製品の開発、流通革命などで、空前の好景気となった。一方のヨーロッパ諸国が戦争で疲弊し、対外競争力を失っていたこともあり、貿易輸出も急拡大し、「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的栄光を手に入れた。
1929年8月、連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。今度は外国資金が証券投資と高い利子率を目的にアメリカに流入しはじめ、株式ブームに拍車をかけることになった。バブル経済がはじける日が近づいた。
アメリカのフーバー大統領は、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するというフーバー・モラトリアムを提唱した。ドイツの戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得る機会を与え、第二次世界大戦への伏線になった。
これまでの戦争は、限られた範囲での戦闘で決着し、勝者は賠償金によって損失を取り戻すことが出来た。戦争で多くの物資を消耗するため、戦後には戦争特需が起こり、その好景気によって敗者もやがて損失を取り戻すことが出来た。金融家はリスクヘッジのために、相争う両方の陣営に資金を用立てしたが、長い目で見ればそれらは回収され、利益をもたらした。
ロスチャイルド家は、ロシアのロマノフ家にも多額の貸付けがあったが、これは金塊や財宝で取り戻した。その中で、帝政ロシア中央銀行本店(サンクトペテルスブルグ)には、外貨準備のためロマノフ金貨およそ1000トン(現在価値1兆2千億円相当)が保管されていたが、これらは10月革命時にボルシェビキの手に移り、その後、ソ連中央銀行カザン支店に移された。この時点で金の量は約500トンに減少していたが、1918年8月5日、チェコ軍がカザン市を占領した際にこの金塊全部を奪った。
第一次世界大戦中、日本では、軍需品の輸出が急増した。アジア地域への輸出も大きな伸びをみせ、重工業も急速に発展して、日本は大戦景気とよばれる空前の好景気をむかえた。三井、三菱、住友などの財閥は、金融や貿易、造船といった多角経営で急速に力をのばし、国力は大幅に底上げされた。
ベルギーの アントワープは、北海につながるスヘルデ川の右岸に位置する世界最大級の港のひとつであり、ヨーロッパではロッテルダムに次ぐ港である。ダイヤモンド産業の中心地として知られ、ダイヤモンド職人が集まり、カットや研磨の高い技術で、世界のダイヤモンドセンターとしてのアントワープの地位は確実なものになっている。
ドイツと同盟を結んでいたオスマントルコは、ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に参戦した。トルコはロシアのカフカス地方でロシア精鋭部隊に正面攻撃を強行して兵力の大半を失ったが、ガリポリ半島では、後にトルコ革命の指導者となるムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍が奮闘し、英国軍を相手に優勢に戦闘を進めていた。
1921年に始まったアブドゥル・アジズに率いられたワッハーブ派のサウド家とハーシム家の抗争は、最終的にサウド家が勝利し、1926年、サウド家によるアラビア半島統一が達成された。サウド家の背後では、第一次世界大戦でアラビア半島の利権争いに加われなかったアメリカが動いていた。こうして、中東最大、すなわち世界最大の埋蔵量を誇るサウジアラビアの油田地帯を、ロックフェラー資本が握ることになった。
19世紀後半には、南アフリカでもエジプトでも、トルコやカリブ海でも、英国の勢力は次第に大きくなっていった。ところが遅れて高度な工業化を達成したドイツもまた、鉄血宰相オットー・ビスマルクのアフリカ進出以来、トルコや東ヨーロッパに深くまで利権を拡大しはじめ、20世紀に入ると、両国の関係は、もはや対決が避けられないほど緊迫していた。
この頃、世界の歴史を変えるもうひとつの大きな動きが始まる。ヨーロッパに興ったシオニズム運動と、ユダヤ人のパレスチナ入植開始である。
1913年、約束の地「イスラエル」建国のために荒地と格闘するユダヤ人入植者の姿を見つめる一人の英国人青年の姿がシナイ半島にあった。
「死の商人」とは売春婦の次に古い職業である、と言われている。弓矢、投石の石器時代から刀剣、鉄器、騎馬隊を経て、中世の火薬と銃の時代にも武器商人はいた。やがて、武器を専門に製造販売する業者が現れ、武器市場、軍需産業が形成されていくようになる。
日露戦争は、日本の陸軍が旅順や奉天で劇的な勝利をおさめ、日本海海戦では日本の連合艦隊が無敵バルチック艦隊に圧勝して日本の勝利で終わった。ロシアは日本海海戦の敗北の後も戦力を集めて総力戦を考えていたが、戦争が長引けば戦力と物資調達力に劣る日本が不利だと分かっていたため、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領が講和の調停に乗り出し、1905年アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスにおいて、小村寿太郎とセルゲイ・ウィッテの間でポーツマス講和条約が調印された。
中央アジアのカスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島に位置するバクーは、現在はアゼルバイジャン共和国の首都になっている。
1873年、スェーデンの発明家イマヌエル・ノーベルの長男ロバート・ノーベルがバクーを訪れた。
ところで、ジョンは、1889年の母エリザの死をきっかけに、母、そして本人が信仰したバプティスト派の大学をシカゴに設立(シカゴ大学)するという最初の大型社会貢献事業を行った。これを皮切りに、ロックフェラー財閥系企業の急激な拡大と並行して、ロックフェラー財団による社会貢献事業、社会慈善事業が積極的に行われ、現在のロックフェラー大学の前身である「ロックフェラー医学研究所」の設立、メトロポリタン美術館への美術品の寄贈、近代美術館の創設、国連本部の土地寄贈など、アメリカの発展に重要な役割を果たす公共資産が残された。
ロシアの寒村にユダヤ人として生まれたシャガールの「バイオリン弾き」という名画は、古代ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事をヒントに描かれている。
マークは、この綺麗な貝を細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。その日から彼は、せっせと貝を拾い始め、その貝を加工した商品を父のもとに送った。
マークも石油ビジネスに興味を抱き、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本にインドネシア産の石油を売り込み始めた。
アメリカ5大湖のひとつ、エリー湖の南に位置するクリーブランドは、カヤホガ川の河口に位置し、それに沿うエリー運河とセントローレンス運河の中継点という、交通の要所として発達してきた。特に、エリー運河はハドソン川につながっていて、19世紀半ばまではニューヨーク州の州都アルバニーまでの物資運送の動脈となっていた。鉄道がまだ普及していない時代は、運河輸送が最も重要であった。
当初、短期間で決着がつくと考えていたリンカーンの予想に反して、南軍の戦意は高く、 1864年の夏には、南軍の一部隊は連邦首都ワシントンD.C.にまで迫った。しかし、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになり、新たに北軍総司令官に就任したグラントによって北軍の戦線が立て直されると、1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落し、南北戦争は終了した。
ナイルと紅海を結ぶ運河は、すでに紀元前2000年頃の古代エジプト時代に造られていたと言われている。近代に入ってからも、東方貿易を行ったヴェネツィア商人やルイ14世、ナポレオンがエジプトを貫通する運河の構想している。中でもナポレオンは、エジプト遠征に同行させた学術調査団に実際に測量をさせたが、調査団の出した結論は、紅海と地中海の水位差が10mに及ぶため工事は無理であるというものだった。
ジョンの石油精製の商売は順調だったが、彼は自分の仕事に満足していなかった。当時 の石油「精製」は単純なもので、硫酸で「洗う」だけというものだった。しかし、簡単であるがゆえに競争が激しく、品質も粗悪なものが多く消費者に迷惑を掛けていた。ジョンは、品質が安定した油を安く出荷する、という、商売の鉄則である「良いものを安く」というコンセプトで石油事業に本格的に乗り出すために、弟のウィリアムとフランクリン、パートナーたちと「スタンダードオイル精油会社」を設立する。
10月16日、東京地裁で東京都迷惑防止条例違反の罪に問われた元名古屋商科大大学院客員教授植草一秀被告の判決公判があった。注目された
2002年10月、内閣改造で金融担当となった竹中金融相は「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」を発足させ、銀行の当時の会計ルールだった5年間の繰延税金資産計上の期間を短期化させる案を、わずか3週間で決定し、2003年3月期決算から適用する案を公表しようとした。
これにより、りそな銀行は国有化され、2兆円近い公的資金が注入された。この後、株式市場は反転し、株価は急騰する。その際、外資系ファンドや、一部の国会議員が巨額の利益を上げたと言われる。植草氏は、このインサイダー取引疑惑を指摘し、証券取引等監視委員会が調査すべきだ、という発言をしていた。
今年の1月11日、洋菓子メーカーの不二家が期限切れ原料を使用していたとして、製造販売の休止を発表した。東京証券取引所は、即日不二家株の「空売り禁止規制」の措置を取った。
オレは高校生探偵、
毛利小五郎「自分達の給料の増加分は確保しておいて、オレたちの税金をもっと取り立てよう、ってことか。あつかましい話だな。」
コナン「おじちゃん、これ、どう思う?」
民主党小沢代表は、最新の月刊誌の
ところが、アフガニスタンの平和と復興を信じた世界の人々の期待を裏切って、ムジャヒディンの連立政権は権力の座を巡って仲間割れを始め内戦にまで発展、これ以後、首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられた。その間の難民は400万とも600万とも言われ、パキスタン、イラン、中央アジア諸国に逃れている。
そもそもアフガニスタンに中央集権国家を作ろうという米国の発想自体に無理があった。最大民族はパシュトゥーン人(全人口の40%)だが、過半数を占めているわけではない。タジク人(25%)、ハザラ人(10%)、ウズベク人(7%)は少数民族だが、北部同盟を結成しタリバン掃討に貢献したので、彼らを政権の重要ポストからはずす訳にはいかない。あちら(パシュトゥーン人)を立てればこちら(北部同盟)がたたず。カルザイ政権はジレンマを抱えたままの発足だった。
日本の小泉元首相が、世界のどの国よりも先に米国の「テロとの戦い」を支持した結果が、今のアフガニスタンの現状なのだ。小泉氏は退任したが、政府・自民党(および公明党)は、このことについての重大な責任を負っていることを、自覚しなければいけない。
財務省は、日本が抱える800兆円を超える国債発行残高(国の借金)によって、国家が危機的状況にあると言い、さらに、団塊の世代への年金需給が始まる2011年までに国の財政を健全化し(プライマリーバランスの黒字化)、歳出削減によって国債残高を減らすように方向づけないと、大変なことになる、と訴える。
1987年に発足した竹下内閣は、中曽根内閣の売上税導入失敗を教訓に、高齢化社会に おける福祉財源という新しい名目のもとに消費税導入を目指した。
1998年の小渕政権の時に発行された巨額の国債の償還が始まる
「どろろ」は、1960年代の少年漫画雑誌で連載された
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