文明の黙示録(31)

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                   第三章 帝国の崩壊 (5)

                   【 2007年 バリ 】

Dobai01 20世紀は人類にとって、空前の発展の世紀であった。その前の世紀に始まっていた産業革命は「蒸気機関」という動力を生み、工業社会を拡大したが、20世紀に入ってからは、石油製品と電力によって地球的規模の経済成長がなしとげられた。一方で、20世紀の経済成長の原動力である「石油と電力」は、同時に地球の歴史にかつて無い規模での「CO2排出」をもたらした。20世紀は、電力と石油の大量消費に始まり、電力と石油の大量消費の見直しに終わる世紀、ととらえることができる。

国連機関であるWMO(世界気象機関)とUNEP(国連環境計画)が共同で設置しているIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が2001年にまとめた第三次報告によれば、2100年までに大気中のCO2濃度は540~970ppmに増大し(現在は370ppm)、地球平均気温は1.4~5.8度、海水準は9~88センチ上昇すると予想されている。これによって低地や島国の水没や、乾燥地域のいっそうの乾燥化と湿潤地域の豪雨の増大による農業生産への影響、マラリアなどの熱帯地方の感染症が広い地域への拡大、急激な変化に生態系が適応できないことによる希少種の絶滅、などが危惧されている。
2006年、気象庁のスーパーコンピューターの計算による地球温暖化の予測では、二酸化炭素濃度がこのまま上昇すれば、オホーツク海は100年後に水温が3~4度上がり、海氷が消えるという結果が出た。

CO2は現代文明においては、産業活動や自動車、冷暖房など、人びとの基本的な生活の中で不可避的に発生する。先進国には、CO2削減のための様々な技術的検討も要請されるし、また生活様式そのものへの意識の転換も求められている。しかし一方で、いま現在50億の人口を有する途上国は、今後の人口爆発、経済成長とともエネルギー消費が爆発的にのびていくと予想される。
19世紀以降、人類が築いてきた文明は、民主主義や自由主義、社会主義などのイデオロギーであり、経済と金融であり、軍事力と戦争であった。しかし、今その文明の前に現れた「環境」という大きな課題は、現在の世界システムを動揺させつつある無視できない問題となっている。そして、化石燃料の燃焼に伴う地球温暖化は、20世紀の地球的な経済成長によって生み出されているだけに、現代文明とどう両立させるか、人類の英知が試されている。

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最初に地球環境に関して国際的に討議されたのは、1972年にスウェーデンのストックホルムで開催された「国連人間環境会議」だった。この頃すでに、北欧諸国では酸性雨や環境汚染などの環境問題が顕在化し、人々の意識が高まっていた。
ストックホルム会議では、大気汚染などの公害や環境の破壊がこのまま進めば、人類は生存さえも怪しくなる、との危機感の共有を目指したが、米ソ冷戦時代であったことと、先進国がそれぞれ高度経済成長を遂げていたことから、環境への意識は高まったものの、環境保護に関する行動計画はほとんど実現しなかった。

その後、1987年には当時大問題となっていたオゾン層破壊の原因であるフロンガスを規制するモントリオール議定書が締結されるなど、地球規模環境問題を話し合うベースは少しずつできていったが、地球環境危機に国連が本格的に取り組んだのが、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた「地球サミット」であった。
地球温暖化問題が国際交渉の舞台に上がったのは80年代の終わり。1992年には、地球サミットに合わせ、気候変動枠組み条約が作られた。リオデジャネイロ会議では、かなり突っ込んだ話し合いが行われ、「先進国は2000年までに温室効果ガスの排出量を安定化させる」という条約の決議を目指したが、アメリカの猛反対によりこの条約では具体的な数値目標は掲げられなかった。

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Kyoto01 米ソ冷戦が終結し、アジアや中南米の国々が経済成長路線に入ってくると、環境問題の深刻さが浮き彫りになってきた。ここへ来て科学的な研究も進み、地球環境破壊の影響が明らかになるにつれ、先進諸国も自己都合での問題の先送りをやめて、国際的枠組みで環境保護に取り組む方向に国際政治が動かされていった。1997年の京都会議では、日本、アメリカ、EUの先進工業国にCO2削減の数値目標が掲げられ、また、アメリカの強い提案により森林の吸収源をカウントする仕組みや先進国同士で排出できる枠を取り引きする仕組みが導入された。

EUは、京都会議ではCO2削減に積極的だった。これは、1995年に環境問題に関心の高いスウェーデンやフィンランドがEUに加盟したことが影響しているが、それ以外にも、CO2の排出量を取引できる制度が導入されると、エネルギー効率の悪い東欧を援助し、そこで削減した多くのCO2排出量をEU割り当ての削減排出量分に当てられるという読みがあった。(実際に2004年、EUローマ会議によって一気に10カ国がEUに加盟することになる。)
クリントン政権のアメリカもまた強気だった。米民主党の大きな支持母体となりつつあった環境団体を強く意識し、削減実施を強調し、京都会議ではCO2削減に消極的だったロシアも説得した。アメリカもまた、中南米諸国と共同実施すれば、少々の割り当て削減量も達成できるだろうという読みがあった。もっとも、中南米諸国はCO2の削減を押し付けられるのを恐れて、アメリカとの共同実施には反対したが。
日本は、環境問題でイニシアチブを取りたい環境省と、経済成長の足かせになることを懸念する通産省の間で綱引きが続いたが、開催国としての面子を立てたい外務省の後押しによって6%の削減目標を受け入れた。

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ところが、2001年3月、アメリカに共和党のブッシュ政権が発足すると、ブッシュ大統領が突然京都議定書からの離脱を世界に向けて宣言した。10年の交渉の成果として作られた京都議定書を、一方的にひっ くり返すような発言に世界中からアメリカを非難する声が殺到した。アメリカが立場をひるがえしたのは、ブッシュ大統領や政権幹部とアメリカ石油メジャーとの親密な関係によるものであることは明らかだった。事実、世界最大の石油企業エクソンモービルは、ブッシュ大統領の選挙資金の大献金先であった。
日本とEUは選択に迫られた。ひとまずアメリカ抜きで京都議定書を発行するか、それとも、アメリカといっしょにもう一度ゼロから話し合いをやり直すか。EUはアメリカ抜きでも条約を発効させようと意気込んだが、ブッシュ政権とべったりの関係だった日本の小泉首相は、「アメリカを説得する」というあいまいな態度を取りつづけた。結局、世界の多くの国が参加して作った京都議定書を台無しにしたのは、日本とアメリカだった。

2007年6月、ドイツのハイリゲンダムで開かれた主要国首脳サミット(G8サミット)では、「世界経済」「アフリカ」を主要議題として議論され、世界経済では、特に気候変動が大きなテーマとなった。 今日現在、温室効果ガス削減の枠組みとして京都議定書があるが、最大の排出国であるアメリカは京都議定書から離脱しており、中国やインドなどの主要排出国には削減義務が課されていない。そのため、サミットでは、ポスト京都議定書の新しい枠組みづくりが重要な課題として取り上げられた。
排出削減の新しい目標を定めるにあたっては、主要排出国を含めて、2050年までに地球規模での排出量を少なくとも半減させるという日本などの決定を真剣に検討するとの内容が、首脳文書に盛り込まれた。さらに、全主要排出国を含む2013年以降(ポスト京都議定書)の包括的な合意の達成に向け、2007年12月にインドネシアのバリで開催される国連気候変動会議に参加するよう、すべての締約国に呼びかけることも合意された。

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Earth01 人類はいま文明の大きな転換期にある。現在の地球環境の問題を放置して、このままアメリカ型の大量生産、大量消費文明を続けていくと、2050~2070 年頃には現代文明は終焉を迎える、という指摘もある。地球環境問題の解決は、市場原理主義をどう超克できるか、国際的な企業資本の求める利潤とどう折り合いをつけるか、にかかっている。
自然と人間が調和した共存型のライフスタイルや世界観による21世紀の新しい文明を、私たちは作り上げることができるだろうか。

                     【  完  】

長らくご愛読いただきましてありがとうございました。「文明の黙示録」は、今回で完結いたします。石油文明と言われる現代世界が生み出した国際石油資本や国際金融資本が、平和においても戦争においても国際政治で大きな役割を果たすようになった流れを浮き彫りにして、低迷する今日の日本の病根を明らかにする一方で、これらからの日本の針路を見出したい、と考えて1世紀少々の時間を俯瞰してきました。本来は各トピックスの出典を明らかにすべきですが、多くの資料に手を広げすぎてしまい、まとめきれなくなってしまいましたことをご容赦下さい。(筆者)

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文明の黙示録(30)

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                   第三章 帝国の崩壊 (4)

                   【 2005年 マルデルプラタ 】

Stop_bush01 2005年11月、アルゼンチンのマルデルプラタ市に米州34カ国(除くキューバ)の首脳レベルが集まり、第4回米州首脳会議(米州サミット)が開催されたが、FTAA(米州自由貿易地域)をめぐってアメリカと主要南米諸国(ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン)とが対立し、結果は、交渉が事実上凍結され、FTAAは完全に頓挫した。

冷戦下でアメリカは、この地域に誕生した社会主義政権にたびたび介入、軍事力で政権を転覆し、IMF(世界通貨基金)や世界銀行などを通じて経済の構造改革を求めてきた。しかし、そうしたアメリカの介入が、軍事独裁政権を生み出し、思想の弾圧や虐殺などが繰りかえされ、貧困をもたらした。ラテンアメリカの国々は、経済再建のため、1970年代から90年代にかけてアメリカ主導の規制緩和、民営化、外資の導入といった新自由主義経済を受け入れてきたが、その結果は、世界最悪と言われる「格差社会」が現出したのである。
アメリカが進めようとしているFTAA構想では、関税を撤廃し、多国籍企業により大きな自由を与えることで経済を活性化させようとするものだが、その実態はアメリカの大手資本による市場での利益収奪に他ならない、と理解しているブラジルを始めとする左派政権の国々は、団結してアメリカが主導する南北アメリカの政治、経済の統合にノーを突きつけた。

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01 新自由主義にもとづく経済統合は、FTAAに先行してアメリカ、カナダ、メキシコを統合する北米自由貿易地域(NAFTA)が1994年から実施に移されたが、そこでも貧富の差が拡大し、特にメキシコでは労働者、農民、先住民の生活破壊が顕著に現れた。NAFTAによるメキシコ経済と人民生活の破壊と荒廃を見せつけられたラテンアメリカ諸国では、1990年代後半から反新自由主義の闘いが大きく高揚しはじめ、2000年代に入って大きなうねりとなり、新自由主義にはっきりと反対する政権が次々と登場するまでになったのだ。
ブッシュ大統領は、米州首脳会議での敗北を悟って、最終文書が出される前にアルゼンチンを早々に立ち去ったが、その後訪れたブラジル、パナマでも激しい市民の抗議行動に遭い、パナマではブッシュの肖像が焼かれた。

世界の富をアメリカに吸い取るためのグローバリゼーションと新自由主義に反対するラテンアメリカ諸国は、アメリカ主導の米州サミットに対抗して、キューバも参加する「人民サミット(People's Summit of the America)」を組織しているが、今回も第4回米州サミットに対置して、11月1日から第3回米州人民サミットを開催し、「アメリカによる中南米への帝国主義的・新植民地主義的・債務奴隷的支配に対する“ノー”」というスローガンを打ち出した。

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1980~90年代の東アジアの多くの国は、「奇跡の経済発展」と呼ばれる急激な経済成長を遂げた。韓国、台湾などのNIESに続いて、ASEANも高度成長への離陸を開始し、21世紀は「アジアの時代の到来」と期待されていた。
しかし、1985年のプラザ合意によって日本が大幅な円高ドル安を受け入れ、アメリカの巨額財政赤字の解消政策に組み込まれた結果、東アジア諸国は、貿易、投資の自由化をハイテンポで進めることになった。円高で輸出競争力を失った日本企業が、生産拠点を東アジアに移すことになり、東アジア各国は、外資(特に日本企業)を受け入れて自国経済発展のテコにしようとしたのである。
その際、自国の通貨をドルに連動させる「ドル・ペッグ制」というシステムを採用して、日本企業に通貨不安を与えないようにしたことがアダとなり、アジアの通貨市場に世界中からドル資金が流入して、ジョージ・ソロスに代表されるような大規模ヘッジファンドに市場を食い荒らされてしまった。1997年のアジア通貨危機である。97年7月、タイの通貨バーツの暴落に始まった通貨の暴落は、マレーシア、インドネシア、韓国へと飛び火し、多くの現地企業が倒産、工場は閉鎖、操業中止に追い込まれ、町には失業者があふれ、人々の生活は急激に苦しくなった。

そもそもの原因は、アメリカの経済学者がそそのかすグローバリゼーションを信じ、アジア各国が金融市場を自由化し、外資進出企業に対する優遇措置と資本取引に対する規制緩和を進めた結果、ヘッジファンドや欧米の投資銀行などがぞくぞくと乗り込んできたのだ。最初は、大量の資金が世界中から集まりバブルが膨らむが、ひとたび資金が流出しはじめたときには、通貨当局は売りに出た自国通貨を買い取らざるをえず、経済はガタガタになり、失業者の群れと都市周辺のスラム、荒廃した農村と環境破壊だけが残った。
一方のヘッジファンドは、各国政府の通貨準備をはるかに超えた売り浴びせと暴落後の買い戻しという市場操作によって、労せずして巨万の利益を手にした。

02 アジア通貨危機の戦犯として、マレーシアのマハティール(前)首相はジョージ・ソロスを名指しで批判し、アメリカ主導のAPEC(アジア太平洋経済協力機構)をけん制しながら、アメリカの影響力を排除した形でのアジア自体の地域協力体制を強調している。
現実に、2007年9月にシドニーで行われたAPEC首脳会議は、省エネルギーの推進や森林面積の拡大といった地球温暖化対策への取組みに関する話し合いが中心となり、拘束力のない努力目標を謳った「シドニー宣言」を採択したに留まったが、それに対して、11月にシンガポールで行われた東南アジア諸国連合と日中韓3か国によるASEANプラス3首脳会議では、今後10年間の地域協力の方向性を示す「東アジア協力に関する第2共同声明」を採択、東アジア共同体実現に向けて具体的作業が始まった。東アジア諸国は、完全にアメリカを見限った。

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1992年のマーストリヒト条約締結によってヨーロッパ15カ国の地域統合を実現したEUでは、経済統合によって生まれた共通通貨「ユーロ」によって、外国貿易決算や外貨準備をドルへの依拠から転換させることに成功した。その結果、ドルペッグ制と金融自由化によって世界中を駆け回るドル資金の大量の流入によるバブルの膨張とその崩壊という、金融リスクを回避することにおおむね成功している。
さらにEUは、、より積極的にアメリカン・スタンダードに対抗する独自の価値観を確立し、アメリカと対立する主張も打ち出している。例えば1999年にシアトルで行われたWTO閣僚会議では、自由貿易に価値を置き貿易規制の撤廃を主張するアメリカに対し、EUはもっと環境基準や安全性を盛り込むことを要求した。具体的には遺伝子組替え食品や、ホルモン剤使用牛肉の輸入規制を要求している。
現在の国際貿易交渉の構図を見ると、アメリカが市場原理主義的な立場から大資本に有利なルールを主張し、EUは貿易ルールづくりの段階からさまざまな規制を残すべきだと主張して対立するという構図がある。一部の規制や市場保護を容認するEUの考え方は、資本主義の基本的なあり方としてアメリカの市場原理主義とは距離を置き、アメリカ的グローバリズムの暴走に対抗する勢力となっている。

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Abe_koizumi01 その点では、日本はいまだにアメリカへの恭順姿勢を堅固に示している。小泉政権が行った構造改革は、まさに新自由主義改革そのものであり、他国の例に違わず規制緩和で賃下げが進み、政府が「景気回復」と公表する中で家計の所得は減少し、地方を中心に市民の生活が深刻化した。日本の場合、経済全体の貯蓄が大きいために対外債務危機にはならないが、デフレ不況が深刻化し、不良債権処理を進めた銀行の貸出しも増えるどころか減少し、国債の購入が増えている(これは、90年代のラテンアメリカ諸国と共通の現象である)。
日本はアメリカからの「年次改革要望書」に基づき構造改革をしており、アメリカの資本が利益を得やすいように規制緩和や市場開放を進めているが、世界の大きな流れが新自由主義から転換する方向にあり、アメリカから距離を置く外交への転換が進んでいる中で、異質な情景となっている。
それでも、2007年7月に行われた参議院選挙では自民党と公明党の与党が大きく議席を失い、そうした政府の姿勢に国民がノーを突きつけた結果となった。日本の場合は、新自由主義を脱するためには対米輸出に依存する産業構造の転換が必要なため、大企業の利権団体である経団連も政府や霞ヶ関と組んでアメリカべったり路線を支えているが、本当の「改革」は市民の意識向上の中から生まれてくるだろう。

第三章(5) 【2007年 バリ】 につづく。

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文明の黙示録(29)

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                   第三章 帝国の崩壊 (3)

                   【 2004年 ローマ 】

Puchin02 ロシアでは、エリツイン時代にエゴール・ガイダル首相が推し進めた急進的資本主義化の下で、政財癒着による極端な企業優先政治や急激な価格自由化がハイパーインフレを招き、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と格差社会拡大を招いた。1999年に健康上の理由で引退したエリツィンに大統領代行に指名された元KGB出身のウラジミール・プーチンは、大きな政治力を持つようになった財閥企業を脱税・汚職などで追求し、企業の政治介入を排除し、企業にしっかり税金を納めさせることで国家財政を再建することに成功した。
2000年の大統領選挙で圧倒的な人気を集めて過半数の得票を受け正式に大統領となったプーチンは、愛国主義を掲げて「強いロシア」を目指すタカ派的・強権的な政治姿勢を強めた。プーチン政権は、貧富格差を拡大させた市場原理主義一辺倒のエリツィン時代の政策を転換し、企業の国営化を行い、国内にある豊富な天然資源開発を武器に、アメリカとは距離をおく外交で、ソ連時代の全体主義への回帰を強めていっている。

「強いロシア」を支えている天然ガス資源は、世界の天然ガス埋蔵量の27%を占め、ロシアは世界最大の天然ガス産出国となっている。西欧諸国は、消費する天然ガスの4分の1をロシアに頼っており、ドイツなどはアメリカから距離を置き、ロシアとの連携を強める方向に動き出している。また、9.11アメリカ同時多発テロ事件以来、アメリカ国内には中東諸国との関係を見直す動きがあり、危機感を持ったサウジアラビアはロシアに接近している。サウジアラビアは、ロシアの「イスラム諸国会議機構(OIC)」への加盟を支持し、ロシアとイスラム世界を結ぶ「非米同盟」の関係が強化されることになった。
また、ロシアは2005年には上海協力機構に加盟し、中国との関係強化も図っている。2007年8月、上海協力機構は、「平和の使命2007」という合同軍事演習を、中国新疆ウィグル自治区やロシアのウラル地方で行った。この演習はあくまで対テロのための演習という名目だが、対NATOあるいは対アメリカへの牽制と見られている。

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04 アメリカの証券会社ゴールドマン・サックス社のエコノミストが、2003 年10 月に発表した投資家向けリポートによると、2050年の国別の経済規模は、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順となり、中国が世界最大の経済大国になる、と予測されている。
共産党支配の政治体制の中で、資本主義経済の導入に成功した中国は、驚異的な勢いで経済成長を続けている。そして、その急速な経済成長に伴うエネルギーの大量消費を賄うために、世界規模の資源外交を展開している。胡錦濤国家主席は、2004年11月、ラテンアメリカ4カ国(ブラジル、アルゼンチン、チリ、キューバ)を訪問し、エネルギー資源確保の交渉を行った。2000年の中国のラテンアメリカ諸国からの輸入は50億ドル弱であったが、2004年には220億ドル程度にまで急増している。
ラテンアメリカ諸国にとっても、貿易相手国としての中国の重要性が高まっている。胡主席は、ブラジルを「戦略的パートナー」と位置づけ、今後2年間で約100億ドルを投資、貿易額も3年内に200億ドルになる、と表明した。中国は、ブラジルの豊富な資源を手に入れるために、ブラジル沖合の海底油田の共同開発と天然ガス・パイプラインの共同建設への投資を決定してる。アルゼンチンでも今後10年間で鉱業、鉄道、その他のインフラ分野で総額197億ドルを投資することで合意し、チリとは共同で銅山開発の計画を進める、と合意した。

こうした中国のラテンアメリカでの勢力拡大に対し、アメリカも神経質にならざるを得ない。特に中国がキューバやベネズエラでとの関係を深めると、アメリカの対キューバ経済制裁の効果が無意味になり、またベネズエラからアメリカへの石油輸出が低下する可能性がある。
胡主席はカストロ議長との会談で、「たんなる友人ではなく兄弟である」と述べ、経済、技術分野での協力を約束している。こうした中国の政治的影響力の拡大は、アメリカの対ラテンアメリカの外交政策を根底から覆すかもしれない。

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03 アメリカの国際法に違反したイラク戦争に反対したドイツ、フランスをはじめとする欧州連合(EU)は、対米協調を維持しつつも、アメリカ一極支配を相対化させる位置を占めてきている。2004年10月にローマで加盟国首脳らが欧州憲法条約に調印してから、EUは旧社会主義国(東ヨーロッパ)も加盟国に加え、平和的手段によって欧州大陸の統合を促進してききた。近年新しく加盟した国々も資本主義国家として急速に力をつけつつあり、それが経済ブロックとしてのEU全体の経済力を上昇させている。欧州共通通貨であるユーロの地位はますます高まり、ユーロ非加盟国における利用も拡大している。
安全保障の面でも、EUはアメリカの影響力の強いNATOから独立して新しいEU独自の軍事力を持ち、アメリカに頼らずに全世界的な軍事作戦を可能にしようという方向に向かっている。具体的には、EU諸国が共同して最新鋭軍事兵器を開発し、互いに持つ軍情報を共有することで、軍事力を強化しようという動きだ。EU諸国が開発した最新鋭戦闘機の「ユーロファイター」は、現世界でNo1の空戦戦闘力を誇り、EU軍の世界的な軍事作戦行動を可能とためのEU軍輸送航空機の大量生産も着手されている。
EUは経済領域だけでなく、外交・安全保障領域でも共通の政策を持つ単一の巨大な国際勢力となりつつあり、アメリカをパートナー、ライバルのいずれと見なすのか、21世紀の世界秩序を大きく左右するだけに、アメリカ側も楽観視していられない。

「親米的」とされるフランスのサルコジ大統領も、「地中海連合」を提唱して、東アフリカ諸国を含めた地中海地域でのフランスのプレゼンス強化をめざしているし、ドイツのメルケル政権はロシアに接近して新たな協力関係を構築しようとしている。逆に、ブッシュ大統領の盟友だった英国のブレア首相は、イラク戦争参加への国民の不満の高まりの中で退陣に追い込まれた。アングロサクソン同盟で緊密な関係にあった英国も、アメリカとの距離をとり始めている。

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中日韓3カ国と東南アジア諸国連合(ASEAN)は2007年11月20日、シンガポールで第11回「ASEANプラス3」首脳会談を開いた。ASEANプラス3協力も10周年を迎え、この間、中国の経済成長を背景に東アジア全体の経済力は高まり、国際的地位は向上し、発展の展望はさらに明るさを増した。2010年前後に東アジアの経済共同体を、2020年までには安全保障を含めた東アジア共同体を目指す、という「東アジア共同体構想」は、実現に向けての歩を早めている。
日本の福田首相も、東南アジア諸国連合との首脳会議で、貿易自由化を柱とする経済連携協定(EPA)の締結に合意した。これにより、経済面での日本とASEANとの結び付きは大きく前進すると期待されている。そもそも、「東アジア経済圏」や「東アジア共同体構想」はアメリカを疎外するものだ、と反発するアメリカに気兼ねして、東アジア共同体構想に一番消極的だったのが日本だった。そうしたアメリカの意向を受けて、小泉政権時代には靖国参拝や歴史認識問題によってアジア地域への関与を縮小させてきた。しかし、2007年7月の参議院選挙で自民党が惨敗したことで、こうしたアメリカ追従一辺倒の日本の外交路線も転換せざるを得なくなってきたわけだ。
東アジアでも共通通貨が生まれることになれば、アメリカのドルの権威はますます失墜するので、ここでもアメリカの世界秩序の戦略は見直さざるを得なくなるだろう。

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Bush41 皮肉にも、冷戦崩壊によって世界の一極支配を目指したアメリカのネオコン勢力は、アフガニスタンやイラクへの武力侵攻で失敗し、その間にロシア、中国、EUといった新しい勢力が台頭してきた。アメリカは、逆に世界の中での孤立が深刻となり、中東やラテンアメリカ地域での反米勢力の拡大を招いた。パレスチナ情勢でも、パレスチナ人民とイスラエルの対立激化など、アメリカが抑え込もうと狙った地域の不安定化はいっそう進み、アメリカ主導の「和平構想」は完全に吹き飛んでしまった。
これらを背景に、ラムズフェルド前国防相、ボルトン前国連大使、ウルフォウィッツ前世界銀行総裁、ペース参謀本部議長など、ブッシュ政権を支えたネオコン勢力の中心人物が次々とその地位を追われ、政権を去っていった。経済の面でも、クリントン政権時代にせっかく立ち直りかけた財政が、ブッシュ政権によって再び巨額の「双子の赤字」という構造問題に後戻りし、基軸通貨=ドルの相対化も進んでいる。アメリカ経済を支えてきた旺盛な消費も、その基礎となってきた住宅バブルが崩壊し、サブプライムローンによる市場の混乱でバブル崩壊寸前の状況だ。
すでに「死に体」と言われるほどの政権支持率に苦悩するブッシュ大統領は、こうして2008年一杯で任期を満了して、ホワイトハウスから去って行くことになる。

第三章(4) 【2005年 マルデルプラタ】 につづく。

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文明の黙示録(28)

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                   第三章 帝国の崩壊 (2)

                   【 2003年 バグダッド 】

Bush01 2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件直後に、「テロとの戦い」を訴えてアフガニスタンに軍事攻撃を仕掛けたブッシュ大統領は、2002年初頭の一般教書演説において「悪の枢軸」として、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国を名指しで非難した。特にイラクに対しては、大量破壊兵器を保持しているとして、政府関連施設などの国際機関による査察を繰り返し要求、イラクはこれに応じて4年ぶりに全面査察が行われたが、アメリカは納得のいく結果ではなかったとさらに非難した。
2003年3月17日、ブッシュ大統領はテレビ演説でイラクに対して軍事攻撃の最後通牒を行い、2日後の3月19日、アメリカ軍は英国軍などと共に「イラクの自由作戦」に則って、イラク空爆を開始した。

国連では、アメリカのイラク攻撃に対してフランス、ドイツ、ロシア、中華人民共和国などの常任理事国が強硬に反対を表明した。アメリカの行動を支持した英国でも、ブレア政権の閣僚であるクック枢密院議長兼下院院内総務、ハント保健担当、デナム内務担当両政務次官などが相次いで辞任して、ブレア首相に抗議した。
日本の小泉首相は、イラクが大量破壊兵器を持っている、というアメリカの主張を鵜呑みにして、全面的な支持を表明した。

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イラクのサダム・フセイン政権排除は、右派シンクタンクのPNAC(新しいアメリカの世紀プロジェクト)がクリントン政権に対して武力攻撃を提唱して以来、アメリカのネオコンにとっては極めて優先順位の高い政策課題になっていた。特に、チェイニー副大統領はCIAに熱心にイラク情報を提出させて、世間が納得するような「イラクの脅威」を探し出そうとしていた。
2001年暮れに、イラクがアフリカのニジェールからウランを入手しようとしている、との報告があると、副大統領の事務所はただちにその確認を求め、2002年2月に調査のためにニジェールに派遣されたジョセフ・ウィルソンは、調査の結果としてそのような疑惑は根拠がない、と報告した。
ところが、ブッシュ政権は2002年夏には対イラク開戦を決定し、イラクがアルカイダを支援して9.11テロに間接的に関わっていたこと、大量破壊兵器を開発していること、アルカイダに大量破壊兵器を輸出する可能性が高いこと、を強調して発表した。

ジョセフは2003年7月6日付けのニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報が捻じ曲げられている、と寄稿してホワイトハウスの「陰謀」を暴露した。だが、その直後の7月14日、ワシントンの政治コラムニストであるロバート・ノバクが、ジョセフの妻はCIAエージェントである、と報じた。CIAエージェントの身分の暴露は、アメリカ合衆国の法律である「情報部員身分保護法」により禁止されている。
ジョセフは、妻がCIAの秘密工作員であることを明らかにしたのはホワイトハウスによる報復であると述べ、テレビなどのメディアを通じその違法性を訴えた。こうして事態は「CIA秘密工作員身分漏洩事件」へと発展し、ブッシュ政権を揺るがす大スキャンダルになっていった。

Photo 2003年12月30日、司法省のパトリック・フィッツジェラルド特別検察官は、司法長官命令により、この事件解明のために捜査を開始したが、政府高官らの圧力や嫌がらせ、マスコミの情報源の秘匿などの圧力によって捜査は非常に難航した。この捜査の最中の2005年7月18日には、フィッツジェラルド暗殺未遂事件も起きた。だが、フィッツジェラルドは22ヵ月に及び取り調べを行い、FBIや大陪審に対する偽証などに焦点を絞り、遂に事件を立件した。
連邦大陪審は2005年10月28日、リチャード・チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーを偽証、嘘誓、司法妨害の罪で起訴した。リビーはすべての責任を被り、副大統領補佐官の職を辞したため、チェイニー副大統領とブッシュ大統領の次席補佐官カール・ローブについての起訴は見送られた。

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2004年10月6日、ドルファー中央情報局(CIA)特別顧問を団長とする米政府大量破壊兵器調査団は、上院軍事委員会への報告で、ブッシュ政権がイラク戦争開戦の根拠とした大量破壊兵器に関して、「イラクには大量破壊兵器はなかった」、「開発計画もなかった」と断定した。しかもドルファー最終報告によれば、開戦前夜どころか、査察が中断された1998年の遙か以前、1991年末の段階で、すでにイラクは核兵器も、生物兵器も、化学兵器も保有していなかったこと、計画も放棄されたことが明らかになった。
戦争直前の国連安保理やIAEA等の国連機関、国際世論の圧倒的多数がイラクの大量破壊兵器の保有に懐疑的で、査察継続を主張していたことが完全に正しかったことが確定された。

2007年5月10日、英国のブレア首相は任期を3年も残して早期退陣した。発足時には70%を超えていたブレア政権の支持率は、20%台にまで凋落していた。ブレア政権の最大の失政はイラク参戦だった。国際法に違反して対イラク戦争を実施したアメリカを全面的に支持していたブレア首相も、イラク参戦の理由にしたフセイン政権の大量破壊兵器については「(情報が)間違っていた」と謝罪した。
「フセインが見つからないからといって、フセイン大統領が存在しなかった、とは言えないでしょう。同じように、大量破壊兵器が見つからないからと言ってそれらが無いとは言えない」、と強弁した日本の小泉首相と自公政権は、この問題にほっかむりを決め込んだ。

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イラク戦争開戦直後のアメリカ軍を中心とした有志連合軍の航空機のピンポイント爆撃と巡航ミサイル攻撃によって、イラク軍の指揮系統は早期に崩壊し、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。陸上部隊の展開も迅速で、2003年4月9日にはバグダッドに侵攻して大統領宮殿を占拠し、街の中心にあったフセイン像を引き倒した。
5月1日の「戦闘終結宣言」によって、連合軍の圧倒的勝利という姿で、イラク戦争は終わり、その後は、米国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治に移り、復興業務が行われることとなった。復興業務には米ハリバートン社、米ベクテル・インターナショナル社らアメリカの民間企業がいくつも参加し、本来は軍が行ってきた食糧や物品、軍事物資の輸送業務を行った。
イラク復興業務の民間への開放は、チェイニー副大統領らブッシュ政権閣僚の肝いりで始められたが、参入企業の多くがブッシュ政権の閣僚を取締役に据えているなど、戦争利権の特定企業への分配という不明朗な側面が指摘されている。

Iraq001_2 だが、フセイン政権が倒れた後もイラクの戦闘状態は続き、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついていても武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手には、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となった。このため、イラク業務に参加した民間会社は、独自に民間軍事会社とよばれる企業に武装護衛兵の派遣を委託したが、民間軍事会社の雇った多数の傭兵がイラクに入ったことで、反米イスラム武装勢力との戦闘はますます激化した。

そんな中、2007年9月には民間軍事会社(Private Military Company=PMC)ブラックウォーターUSA社の傭兵が、イラクの民間人17人を射殺する事件がおき、米軍の軍規にも、アメリカやイラクの法規にも拘束されない武装兵士の存在が問題化した。アメリカ政府は、射殺された17人の内、少なくとも14人の射殺には正当性が認められない、と公表したが、法的な処罰はできなかった。

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Sadam01 イラクのサダム・フセイン大統領は、米軍がバグダッドを占領した時にはすでに姿をくらましており、数ヶ月間行方不明であったが、2003年12月14日、ティクリート近郊の隠れ家に潜伏している所を米軍に発見され、拘束された。その後、イラク住民虐殺などの罪で起訴されたフセインは、2006年12月30日未明に死刑執行された。イラクでは、一時スンニー派とシーア派の武装勢力の間での宗派間抗争が起こったが、やがて両派は結束して占領米軍に対するレジスタンス運動を展開するようになった。
2007年11月の時点でイラク情勢は泥沼状態で、、有志連合軍の犠牲者は4000人を超えている。米軍の死傷者数は、12000人を超えた。

第三章(3) 【2004年 ローマ】 につづく。

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文明の黙示録(27)

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                   第三章 帝国の崩壊 (1)

                   【 2002年 バンジシール 】

Solger01 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の黒幕を、オサマ・ビンラディンと彼が率いる国際テロ組織アルカイダと断定したアメリカは、ビンラディンを保護するアフガニスタンのイスラム原理主義政権タリバンを倒すため、10月7日からアフガニスタンに対する空爆を開始した。そして、11月13日にはアメリカの支援を受けたアフガニスタン北部同盟軍が首都カブールを制圧してタリバンを駆逐した。
2002年6月のアフガニスタンの国会は、アメリカの圧力を受けて、ハミド・カルザイ氏を暫定大統領に選出し、その後、2004年10月に行われたアフガニスタンで初めてとなる直接選挙により、カルザイは正式に大統領に就任した。

アフガンスタンの多数派民族であるパシュトゥン族出身のカルザイは、1980年代中頃のソ連に対するレジスタンス活動の際にアメリカに接近し、CIAに協力するかたちでイスラム兵士(ムジャヒディン)に武器や資金を流すようになった。ソ連撤退後には、カルザイはアメリカの巨大石油グループであるユノカル社の顧問として、中央アジアのイスラム諸共和国からパキスタンまで、アフガニスタン経由で石油パイプラインを建設する計画を推進していた。
アフガニスタン大統領となったカルザイは、再びアメリカの石油資本のパイプライン施設計画に着手するが、治安維持活動の名目でカルザイ傀儡政権を守るために駐留するアメリカ軍に対して、2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起し、首都カブールでの攻撃やテロも頻発するようになり、アフガニスタンの混乱は現在も収まる様子がない。

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Masud01話は遡るが、9.11アメリカ同時多発テロ事件の2日前、アフガニスタンの北部同盟のリー ダー、アハマッド・シャー・マスード将軍が取材記者を装ったテロリストの自爆テロによって暗殺された。マスードは、ソ連侵攻の際に祖国を守るためムジャヒディン(イスラム戦士)をまとめて、10年間に渡ってソ連軍と徹底的に戦い、ついには撤退を余儀無くさせた「バンジシールの獅子」と呼ばれた英雄であった。マスードは92年に暫定政権を打ち立て首都カブールに入ったが、民族同士の権力争いが勃発し、首都カブールにもロケット弾が打ち込まれるほどの内戦状態になると、「これ以上街が破壊されるのも、市民を傷つけるのも耐えられない」とカブールを撤退する。
マスードは、少数派民族のタジク人であったにも関わらず、他の少数派各民族は言うまでもなく、多数派パシュトゥン人にまで人望の厚かった英雄であった。マスードを暗殺したのが、タリバンの放った刺客だったという情報が広まると、北部同盟をはじめとする反タリバン勢力は、マスード将軍の「弔い合戦」に結束し、アメリカ軍と協力してタリバン政権を倒した。

ところで、タリバン政権は、公式に「マスード将軍暗殺に関与していない」ことを表明している。マスードが生きていたら、タリバンが倒れた後のアフガニスタンの大統領になっていた可能性が非常に高かった。そうなっていれば、カルザイ政権下で起きているような混乱は避けられ、アフガニスタン国民による統一国家が出来ていたかもしれない。マスード暗殺がタリバンの仕業ではないとすれば、マスードを排除したかった勢力とは、カルザイに傀儡政権を取らせたかった勢力と同じなのかも知れない。そして、マスード暗殺とカルザイ政権成立の間に、9.11アメリカ同時多発テロ事件が起きている。

長年マスード将軍を追ってきた写真家の長倉洋海氏に対し、生前、マスードはこう語っている。「タリバンやパキスタンを含めたすべての勢力が、戦争では解決できないことを理解し、話し合って平和的な状況を作り出し、国民が選挙によって自らの将来を決めること。これに優る勝利はありません。」

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9.11アメリカ同時多発テロ事件直後は、アメリカの人々はテロを憎み、星条旗を掲げて、ブッシュ政権の報復行為を支持したが、時が経つにつれて事件に対する様々な疑問や疑惑が表れてきた。
テレビで世界中に配信された世界貿易センタービル(WTC)崩落のシーンに対しては、建築専門家や物理学的な視点から、飛行機の突入と爆発による崩落は考えられない、という意見が出た。また、ビル解体に携わる人からは、WTC崩落の様子は爆薬を使ってビルを解体する「制御解体」に酷似している、との声も上がった。
Wtc701 また、WTCには、飛行機が突入したツインタワーの近くにWTC第7ビルというビルが建っていたが、これも2つのタワーと同様に崩壊した。この47階建てのビルは、飛行機の突入の影響は何も受けず、ただ小規模の火災が発生していただけだったが、突然跡形も無く崩壊してしまった。WTC第7ビルには多くの政府系機関が入居していたが、中でも証券取引委員会の事務所には、企業の不正に関する調査書類2000~3000箱が保管されており、それらが灰になってしまった。中には、現在進行中の調査書類が多数含まれていた。

英国のインディペンデント紙は、2001年10月14日の記事で、次のように報じた。『9.11の5日前の9月6日、シカゴのオプション取引所において、ユナイテッド航空の買付けが396に対して、空売りが4744もあった。9月10日のアメリカン航空の買いは748だったが、空売りは4516。これは、ユナイテッド航空とアメリカン航空以外の航空会社にはまったく見られない現象だった。』
事件が起こることを予め知っていて、インサイダー取引をした存在があるのだろうか?

アメリカ国防総省(ペンタゴン)に突入したとされるアメリカン航空77便についても、多くの疑問が提示された。
ボーイング757型機が突入したにしては、被害を受けて崩れ落ちたペンタゴンの建物の損傷が小さいこと。事件直後の写真では、機体の残骸も犠牲者やその荷物なども映っていないこと。建物1階部分に突入するほどの超低空飛行は、相当の熟練パイロットでも困難なこと。ペンタゴンに突入した物体は、飛行機ではなくミサイルのようだった、という目撃証言もあった。
さらに、ここでも飛行機が突入して(とされる)破壊された部屋には、ペンタゴンの巨額の使途不明金の調査のための会計資料が集められていたが、それらがすべて焼失してしまった上に、監査に当たっていた会計士たちの多くが犠牲になった。

最近の全米の世論調査では、実に80%以上の人々が9.11アメリカ同時多発テロの実行犯がオサマ・ビンラディンをリーダーとするアルカイダとする政府の発表は信用できない、と考えており、その中の半数以上の人が、事件は自作自演の可能性がある、と答えている。

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Binladin001パキスタン情報筋は、オサマ・ビンラディンが2001年9月11日の前夜、パキスタンのラワ・ルピンディにある軍病院で腎臓透析治療を受けていたことを明らかにした。フランスのフィガロ紙は、2001年10月31日に報じたスクープで、病院職員が目撃した有力情報として、オサマが7月4日から14日にかけて、パキスタン経由でアラブ首長国連邦(UAE)のドバイにあるアメリカン病院へ腎臓病治療のために入院し、そこへビンラディン一族、サウジ諜報機関の最高責任者トゥルキ・アル・ファイサル王子(同年8月31日に解任)、さらにはCIAのドバイ支局長ラリー・ミッチェル(同年7月15日にCIA本部へ呼び戻された)までもが面会に訪れていた、と伝えた。重度の腎不全を患っていたオサマは、2001年12月、パキスタンの病院でひっそりと息を引き取った。12月26日のエジプトのアル・ワフド紙は、オサマ・ビンラディンがアフガニスタンのトラボラで10日前に埋葬された、と葬儀の模様を伝えたのをはじめ、FBIテロ対策本部長デイル・ワトソンとパキスタンのムシャラフ大統領もオサマの死を追認した。

第三章(2) 【2003年 バグダッド】 につづく。

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文明の黙示録(26)

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                   第二章 資本の野望 (15)

                   【 2001年 ニューヨーク 】

Bush021 2001年1月に誕生したブッシュ政権は、早速アメリカの軍事・外交路線を大幅修正した。
対中国外交では、江沢民総主席と朱鎔基首相が期待した安定的な対中米関係に冷や水を浴びせる形で、人権政策に関して中国のさらなる改善を要求し、中国敵視政策に転じた。軍産複合体の要請する軍備拡大については、軍事関連予算を大幅に増加させるとともに、日本などに周辺国の脅威を理由にミサイル防衛(MD)構想を押し付け、巨額の予算を付けさせた。また、1972年に旧ソ連と結んでいたABM条約(迎撃ミサイル制限条約)を破棄する一方、環境問題のために世界の多数の国が参加した京都議定書からも離脱して、一旦合意されていたCO2削減義務を放棄するなど、「ユテラリズム(一方的外交)」と呼ばれる外交姿勢を鮮明にした。

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イスラエルでは2001年2月、首相公選が実施され、リクード党が圧勝し、シャロン党首が首相に就任した。シャロン政権は治安維持を最優先課題に掲げ、統一エルサレムをイスラエルの首都であると主張したため、イスラエルとパレスチナ間の衝突が激化した。
シャロン首相の経歴を見れば、イスラエルが中東和平のプロセスを望みもせず、実行するつもりもないことは明らかだった。シャロンは1979年のエジプトとの平和条約に反対票を投じ、1985年には南レバノンからの撤退についても反対票を投じている。1991年にはマドリードの平和会議へのイスラエルの参加に反対し、1993年のオスロ合意に関する国会の全会投票に反対し、1994年行われたヨルダンとの平和条約の投票では棄権している。1997年のヘブロン合意にも反対票を投じたうえに、2000年にはイスラエルのレバノンからの撤退を批判し、首相就任後は国際法に完全に抵触した形で、占領したアラブ領地にユダヤ人入植地の建設を急速に進めている。
リクード党はもともとヨルダン川から地中海まですべてをイスラエルの領土とする大イスラエル主義を掲げており、ユダヤ人入植によって占領地のユダヤ人人口を増加させ、既成事実を積み重ねて占領地返還を困難にする狙いが明白であった。

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2001年2月、ニューズウィーク誌は「グローバル化するテロ-独占取材:ビンラディンの国際的ネットワーク」という大見出しとともに、アラブ式のスカーフで顔を隠し、右手にライフル銃を持った男の写真が掲載された。読者はこの武装した恐ろしい人物がオサマ・ビンラディンの「グローバル・テロ」ネットワークの一員だと考えたが、この写真はヨルダン川西岸地区で行われた葬式の現場で撮影されたもので、この人物はビンラディンとはまったく関係のない、パレスチナ人タンジム民兵の武装メンバーだった。

ブッシュ政権誕生からわずかの間に、世界にきな臭い雰囲気が広がっていった。

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Bush_chaney012001年6月23日付のワシントン・ポスト紙は、チェイニー副大統領が前年8月まで会長を務めていた大手石油採掘会社ハリバートン(テキサス州ダラス)が、国連制裁下のイラクに7300万ドル相当の石油採掘施設を建設・供与する契約に関わっていた、と報じた。同紙は、石油業界幹部や国連の機密文書に基づく情報として、1998年からイラク政府と結んだ石油採掘施設や排出ポンプの売却契約にハリバートン社が直接関わっていたとし、湾岸戦争で多国籍軍が破壊したイラクの石油採掘施設の修復契約についてもイラク政府と合意寸前だったが、クリントン前政権が「国策に反する」としてこれを阻止した、と伝えた。
国連制裁はイラクとの商取引そのものを禁じてはおらず、契約そのものが違法行為とは言えないが、ブッシュ政権はイラクが国連制裁下にあるにもかかわらず、ロシアや中国が原油取引を拡大していることで制裁が骨抜きになっている、と批判していた。
お膝元のアメリカの、しかも副大統領が責任者だった企業が、アメリカとイラクの敵対の舞台裏で微妙な関係を維持していることは、ブッシュ政権の馬脚を現すスキャンダルと見られたが、この問題は9月11日に起きた大事件によって忘れ去られた。

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アフガニスタンで政権を掌握したタリバンは、極端なイスラム原理主義による人権問題や、バーミヤンの石仏破壊行為などのために、国際社会から承認を受けられずに孤立していた。フランスの公共テレビ局、FRANCE3が「断片からの確信」(2001年10月放映)という番組のなかで明らかにしたところによると、2001年7月に、ある秘密裏の会合がドイツのベルリンで数度開催されていた。その会合に参加していたのは、アメリカ、ロシア、パキスタン、ドイツの高官で、アフガニスタン内戦を終わらせ、タリバン政権の国際的孤立に終止符を打つ和解案を練っていた。
アメリカ側はそこで、アフガニスタン国内に巨大な石油パイプラインを敷設するかわりに、数十億ドルもの土地使用料を支払うという提案を行っていたが、タリバン側は結局最後までその会合に参加することを拒否し続けた。

アメリカ政府は、アフガニスタンに匿われているオサマ・ビンラディンの反米姿勢がタリバンに影響を与えている、と確信した。

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911wtc01 2001年9月11日、衝撃的な映像が世界中に配信された。ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センターの超高層ツインタワー北棟に、ボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が突入、爆発炎上した。黒煙を上げる超高層ビルの映像に人々が息を呑む中、約20分後に、今度はユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルのツインタワー南棟に突入し爆発炎上した。この時、人々はこれが飛行機事故ではなく、何かとんでもない事件が発生した、と確信した。

追い討ちをかけるように続報が届いた。
ワシントン・ダレス国際空港発ロサンゼルス行きアメリカン航空77便が、やはり同時刻にハイジャックされ、午前9時38分にアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、また、付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって激突の瞬間が目撃された。

ニューヨーク・ニューアーク空港発サンフランシスコ行きユナイテッド航空93便からは、午前9時57分、機内電話や携帯電話によって同便がハイジャックされ、ワシントンへ進路を変更したとの通報があった。それまでに3機がそれぞれ自爆突入を行っていたため、アメリカ合衆国議会議事堂、あるいはホワイトハウスを狙っていると考えられた。
その後、同機は午前10時3分、ペンシルバニア州シャンクスヴィル(ワシントンD.C.北西240kmの場所)に、墜落した。

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911ny01「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ばれることになるこの事件の犠牲者は、ハイジャックさ れた4機の旅客機の乗員・乗客、アメリカ国防省および世界貿易センタービルの犠牲者、ニューヨーク市消防局の消防士、ニューヨーク市警察の警察官、ニューヨーク港湾管理委員会の職員など、すべての死者を合計すると2,973人に上った。
世界貿易センタービルの両タワーは、旅客機突入後、崩落して完全に瓦解した。マンハッタン島にもうもうと吹き上がる噴煙に、人々は底知れぬ恐怖を覚えた。

FBIの捜査の結果から、アメリカ政府はこのテロ攻撃がオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織アルカイダによって計画・実行されたものと断定した。アメリカ当局が「オサマ・ビンラディン」の名前を公表したのは、テロ発生からわずか2日後のことだった。
事件直前、50%を切っていたブッシュ大統領の国民の支持率は、事件直後には9割に到達、歴史的な国民の支持を得た大統領となった。

第三章(1) 【2002年 バンジシール】 につづく。

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文明の黙示録(25)

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                   第二章 資本の野望 (14)

                   【 2000年 マイアミ 】

Israel_army1 「1980年代のイスラエルの戦略(A Strategy for Israel in the Nineteen Eighties)」という記事は、1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』という世界シオニスト組織の出版物に掲載された、イスラエルと中東の未来図を分析した報告書である。
イスラエルにとって、地下資源が豊富に埋蔵されていると予想されるシナイ半島は国益上絶対に手放せない。ということは、国際社会がなんと言おうと、シナイ半島占領地から引き揚げることはしてはならない。一方、オスマントルコ帝国滅亡後にヨーロッパ先進国によって勝手に国境が策定されたアラブ諸国も、大きな問題を内包している。ヨーロッパ人が地図の上で勝手に国境線を書いたため、すべての国で民族および宗教宗派が混在しており、常に対立や摩擦が発生し、安定した社会の構築ができない。
イスラエルおよびアラブ各国が安定した世界を手に入れるためには、イスラエルの軍事力を地域最大のものにして、その力を後ろ盾にアラブの国家を再構築して安定した中東世界を実現しなければならない。

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報告書は、いくつかの具体例に触れる中で、イラクの分割にも触れている。石油のおかげで豊かであるが、大多数のシーア派を少数のスンニー派が支配し、それに加え、北にはクルド人という大きな勢力があるイラクは、ひとたび政権が不安定になれば、内部分裂する可能性が非常に高い。民族・宗派による地域境界線で分ければ、3つ主要な都市バスラ、バグダッド、モスルを中心とした、南のシーア派、中央のスンニー派、北のクルド勢力、という小さな勢力に分割され、それはイスラエルにとっても脅威の消滅という望ましい結果をもたらす。

驚くべきことに、2003年11月、イラク戦争末期に「アメリカ外交問題評議会(Council on Foreign Relations=略称CFR)」という米大統領の政策決定に大きな影響力を持つシンクタンクで、CFR総裁のレズリー・ゲルブが個人的見解として「イラク3分割案」を提案している。さらに2007年9月には、アメリカ上院議会がイラク分割決議を採択し、イラクのマリキ首相へ実行を迫っている。

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R_cheiney01 クリントン政権のあいまいな軍事戦略にイラ立ちを隠さない軍産複合体は、1997年に「新しいアメリカの世紀プロジェクト(Project for the New American Century=略称PNAC)というシンクタンクを設立し、1998年1月にはイラクへの侵攻をクリントン大統領に進言した。
PNACの創設者は著名コラムニストのウィリアム・クリストル氏で、国防費増大と強大なアメリカの軍事力を支柱にした世界秩序の構築を基本的な主張にしている。「軍事力を積極的に行使し、自由や人権、民主主義、資本主義といった米国的価値観を世界に普及させる新保守主義」と、PNACのドネリー副事務局長は説明するが、アメリカ的価値観を「十字軍」のように広めることを目指す主張は、「新アメリカ帝国主義」と呼ばれる。クリストル氏と親しいコラムニストのクラウサマー氏は「冷戦終結でアメリカ一極構造が出現したのに、クリントン政権は力を振るうことを躊躇している」と憤る。

不明瞭で不穏なこの右翼政策グループには、リチャード・チェイニー(後のブッシュ政権の副大統領)、ドナルド・ラムズフェルド(同国防長官)、ポール・ウォルフォウイッツ(同国防副長官)、ピーター・ロドマン(同国防次官補)、エリオット・アブラムス(同国家安全保障会議(NSC)部長)、ルイス・リビー(同副大統領首席補佐官)といった、後のブッシュ政権の中枢を担うメンバーが顔を揃え、「ネオコン」の牙城と言われている。

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アメリカには、イスラエル右派のリクード党支持の組織「国家安全保障問題ユダヤ研究所(JINSA)」がある。JINSAは、第四次中東戦争によってエジプトとイスラエルの間の紛争地となっているシナイ半島に国連停戦監視団が入り、イスラエルのシナイ半島占領の既成事実作りが行き詰ったことに危機感を持ったアメリカのシオニストグループによって、1976年に結成された。JINSAはアメリカの兵器製造の軍需産業やイスラエルの軍需産業とも密切な関係を持っている。

Syaron01 NHKが2004年2月7日に放映した『エルサレム』(後編)という番組では、イスラエルのシャロン(当時国防相)がアメリカを訪問した際に参加した、あるパーティーシーンが映されていた。これは「ワシントンにあるユダヤ系のシンクタンクJINSAが毎年開いているパーティで、出席者はイスラエル軍、アメリカ軍、そしてロッキード社などの軍需産業関係者」だと紹介された。
「JINSAは、アメリカとイスラエルの軍事技術交流に深く関与している」というアナウンスの後に、JINSAのショシャナ・ブライアン副所長がインタビューに答え、「兵器の実地テストがイスラエルなら、ずっと短い時間で実現できる。」と語っている。番組のナレーションは、「アメリカの武器開発にとって、イスラエルは重要な実験場だった。アメリカのイスラエルへの無償軍事援助は現在、年間18億ドルに達している」と説明した。

PNACのリチャード・パール(後のブッシュ政権での国防政策諮問委員会委員長)、ダグラス・フェイス(同国防次官)、リチャード・チェイニー(同副大統領)といった人々は、JINSAの顧問を勤めていた。PNACとJINSAの2つのグループは、2000年の大統領選挙で、共和党のジョージ・W・ブッシュを当選させるために結託した。

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2000年の大統領選挙は、潤沢な資金と幅広い支援組織に支えられたジョージ・W・ブッシュ(共和党)と、クリントン政権で副大統領だったアルバート・アーノルド(アル)・ゴア(民主党)の戦いになった。当初は、軍需産業をはじめとする経済界と巨大なユダヤ人組織に後押しされたブッシュ陣営の圧勝と思われたが、一般市民の支持を集めたゴア陣営の猛烈な追い上げで、アメリカ史上で最も接戦となった選挙のうちの1つとなった。
さらに、最終局面では選挙票の集計作業を巡って両陣営の訴訟合戦も発生し、非常に長期間を要した結果、最終的には一般投票で過半数を獲得できなかったブッシュが、接戦だったフロリダ州を制したことで大統領選挙人投票で271対266の僅差で勝利、次期大統領となることが決定した。

Bush031 この時のフロリダ州知事は、ブッシュ候補の実弟でPNAC会員のジョン・エリス(ジェブ)・ブッシュだったが、ジェブはフロリダ州投票実施に先駆けて、「フロリダ州民重罪前科者リスト」を作成し、リストに該当する約9万4千人のフロリダ州住民の投票資格を剥奪した(テキサス州、フロリダ州など南部の13の州では重罪前科者の投票権を認めていない)。
しかし、リストに掲載された「前科者」の大半は実際には無実だった。この不正な手法(州当局は事務上のミスと説明した)により、投票資格を剥奪された大半は黒人で、民主党支持者だった。英BBC放送の試算では、この不正なリストにより、ゴア陣営は少なくとも2万2000票を失っていた、と報じた(ブッシュとゴアとの票差はたったの537票)。

ゴア陣営は州法に基づき、マイアミデード郡など四郡で、手作業による再集計を求めた。これに対してブッシュ陣営は「差止め請求」を行い、フロリダ州のキャサリン・ハリス州務長官(ジェブ・ブッシュと親しく、ジョージ・ブッシュ選挙チームのメンバーだったことが後に判明)は、パームビーチ郡等で手作業による再集計が行われている最中にブッシュ陣営の勝利を確定した。しかし、フロリダ州最高裁の上訴審はハリス長官の「勝者確定」を停止して、手作業集計を認め、投票結果に算入するよう命じた。手作業集計が始まるとブッシュのリードはまたたく間に僅か193票に縮まったが、ブッシュ陣営は連邦最高裁に上訴、連邦最高裁は「フロリダ最高裁の判断は憲法違反」と判断して「手作業の停止」を命じた。この時点で、ゴア陣営には選挙結果を確定させなければならない期日までに再度訴訟を起こして再集計作業を行う時間が残っていなかったため、ゴア候補は選挙での「敗北宣言」を行った。

第二章(15) 【2001年 ニューヨーク】 につづく。

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文明の黙示録(24)

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                   第二章 資本の野望 (13)

                   【 1998年 ワシントンD.C. 】

01 湾岸戦争終結後、アメリカの期待したイラク国内の反政府勢力によるサダム・フセイン政権への反乱は、イラク軍によって簡単に制圧されてしまった。ブッシュ大統領は、1991年10月からロバート・ゲイツ国家安全保障副顧問を中心に、サダム・フセイン暗殺工作を画策したが、これも成功しなかった。
一方、CIAはイラク民主党(INC)やイラク愛国会議(INA)などの親米反体制組織と協力して、イラク国内で体制転覆活動を行ない、1994年には、ワフィーク・サマライ元イラク軍事諜報局長の亡命を受けて、彼の情報をもとにした政権転覆計画を実行した。しかし、こうした秘密工作はサダム・フセインの諜報機関に摘発され、イラク政府は反政府活動の協力者たちに大粛清を行った。ついに1996年、CIAは拠点としていた北部クルド族地域に対するイラク軍の軍事侵攻によって、イラクから撤退せざるを得なくなった。

1996年以降、クリントン政権はイラクに対する介入行動には消極的となったが、アメリカ議会で多数を占める共和党は対イラク積極策の必要性を強調し、クリントン政権批判を強めた。国連では、ロシアや中国などがイラクの国際社会復帰の道を後押しし始めたため、危機感を持ったポール・ウォルフォウィッツ(後のブッシュ政権の国防副長官)やジェームズ・ウールジー(元CIA長官)ら対イラク強硬派議員らが中心となって、フセイン政権の打倒を目指す政策が議会で次々に可決された。

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M_lewinsky 1998年のビル・クリントン大統領は年初から前代未聞のスキャンダルに見舞われていた。クリントンは、1994年の合衆国大統領就任直後にも、アーカンソー州知事時代の部下だったポーラ・ジョーンズさんにセクハラで告訴されていたが、98年1月にはホワイトハウス研修生モニカ・ルインスキーさんとの「不適切な関係」が明らかになったのだ。スキャンダルが持ち上がった直後は疑惑を否定していたクリントンだったが、7月29日にモニカが刑事免責の上で証言すると、クリントンの不倫および偽証教唆の疑惑は決定的になった。
スター特別検事の厳しい追求もあり、クリントンのスキャンダルは、大統領の弾劾裁判に結びつく可能性が高くなった。そんな中、クリントンは8月18日にテレビで事態の説明を行い、モニカとの「不適切な関係」があったことを認めた。クリントンは「家族に謝罪」し、「深く反省している」と神妙な姿勢に努め、弾劾回避を狙った。肩を落として反省しきりのクリントンに対して、世間は比較的同情的な見方に傾きつつあった。

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01_2 1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビのアメリカ大使館に爆薬を満載したトラックが突っ込み、この自爆テロによってビル内にいた大使館員と民間人など291名が死亡し、、5000名以上が負傷した。完全に崩壊して瓦礫の山となった大使館の映像は、アメリカはもちろん、世界中に配信されて人々に大きな衝撃を与えた。
同日同時刻頃、タンザニアの首都ダルエスサラームのアメリカ大使館も同様のトラック攻撃に会い10人が死亡、77人が負傷した。
これらの攻撃は「イスラム聖地解放軍」と名乗るグループが犯行声明を出したが、このグループは実態は全く不明だった。この頃、オサマ・ビンラディンが対米宣戦布告を宣言していたため、事件はオサマ・ビンラディンの指示によるアルカイダの犯行とされたが、確定的な証拠は無かった。
むしろ、爆破に使用された爆薬は極めて高性能なものであり、通常テロリストの使うものとは異なる点が指摘され、軍関係の関与を疑う見方もあった。ケニアでは、前年からモイ大統領が絡んだ「ゴールデンバーグ事件」と呼ばれる大規模な汚職疑惑が持ち上がり、IMFなどの要請で事件に関する特別の捜査組織が作られて調べが進んでいた。7月には捜査も大詰めを迎え、事件に関する重要資料がアメリカ大使館内に保管されていたが、この爆破テロでそれらが失われてしまった。
事件発生後、イスラエル軍がいち早く現場に到着して救助作業を行ったが、それはアメリカからのFBIの到着よりも早かった。イスラエル軍はアメリカ大使館が保有していた機密資料を探しに来たのではないか、とも言われている。

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Tomahawk01 8月20日、アメリカ当局はアフリカの二つの大使館爆破事件の首謀者はオサマ・ビンラディンとイスラム過激派アルカイダと断定し、クリントン大統領はその報復攻撃の実行をテレビで発表した。対象はアルカイダの拠点と断定したスーダンの首都ハルツーム郊外にある化学兵器工場と、アフガニスタンのテロリスト訓練キャンプで、インド洋に展開していた複数の軍艦からトマホーク巡航ミサイルが多数撃ち込まれた。
後日判明したところによると、VX神経ガスを製造していたとされた「化学兵器工場」は、実は民間の薬品とミルクを製造している工場であった。そのアルシーファ製薬工場では、国内需要の90%にあたる結核やマラリヤの薬を製造していたが、アメリカの攻撃で完全に設備が破壊され生産が途絶えたため、その後の1年間で多くの子供を含む何万人もの人々が治療可能な病気に罹り、死んだ(ボストン・グローブ誌1999年8月22日号)。
また、アルシーファ工場は、この広大な、大半が牧羊地である国の唯一の獣医薬を作る工場でもあり、羊の群れから羊飼いに感染する寄生虫の薬を製造していた。この寄生虫は、スーダンで幼児の死亡率が高い主たる原因の一つになっている(ガーディアン誌2001年10月2日号)。
アルシーファ工場へのミサイルは、工場の休業日に撃ち込まれたため、直接の犠牲者は多くなかったが、こうして間接的には多数の死者がでる結果となった。

また、ミサイル攻撃のタイミングがクリントン大統領のスキャンダル会見の直後だったことから、国民の目をそらせるためではないか、との指摘もあった。

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湾岸戦争以降、イラクは大量破壊兵器所持の疑惑や、核兵器開発疑惑を晴らすために国連の査察を受けていた。しかし、1998年10月31日、イラクは国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)への協力を全面停止し、1990年以来続く経済制裁を「不公正」として制裁解除を求めた。
これに対し、国連安保理事会が緊急協議を開いてイラクを非難し、アメリカは米軍の中東への爆撃機を増やすなど、軍事力行使の姿勢を見せた。不安の高まる中の11日、イラクはアナン国連事務総長にUNSCOMおよび国際原子力機関(IAEA)の査察再開を、無条件で受け入れると表明した。
しかし11月20日、生物・化学兵器に関する資料や文書の提出を求めるUNSCOMの要請に対して、イラクはその提出を拒否、12月17日、米英軍が爆撃機や巡航ミサイルによるイラク空爆を行った。作戦は4日間で終了し、この間に発射された巡航ミサイルの数は合計で415発以上と、湾岸戦争時を上回った(「砂漠の狐」作戦)。
英米の単独行動について、ロシアは「安保理の承認なしに武力行使に踏み切ったのは、国連憲章違反」と激しく反発、中国もこれに同調した。日本は、いつものように攻撃開始と同時にアメリカ支持を表明した。全体としては、湾岸情勢の不安定要因であるイラクへの不満もあり、黙認する国が多かった。

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12月19日 米下院臨時本会議で、不倫もみ消し疑惑をめぐるクリントン大統領の弾劾訴追決議案を賛成多数で可決、翌1999年1月から、実に131年ぶりという大統領弾劾裁判が始まった。しかし、2月12日、クリントンの弾劾裁判は、上院での採決の結果「大陪審での偽証」および「司法妨害」ともに無罪という判決で確定し、およそ1年に渡るホワイトハウス・ハレンチ・スキャンダルは幕を閉じた。最後は、国民もいい加減疲れ果てて、モニカ・ルインスキーの名を聞くだけでうんざり、という拒否反応を示していた。

クリントン大統領は、こうしたスキャンダルにもかかわらず、国民からは60%を超える高い支持率を得ていた。しかし、1993年のソマリア撤退以降、米軍の出動に消極的なクリントン政権に対して政界右派、軍需産業を中心とした経済界からは強い不満が示されていた。イラクに対しても、国連などの国際機関中心の対応に任せた結果、ロシアや中国の擁護を受けてイラクが立場を持ち直しつつあり、ユダヤ・ロビーと呼ばれるイスラエルを援助する勢力はクリントン政権に失望していた。ワシントンでは、モニカ・ルインスキースキャンダルで死に体となったクリントンを見限り、米軍の大規模な展開を求める軍産複合体、積極財政政策を求める財界、強いアメリカの再構築を求める政界などの思惑が一致して、ポスト・クリントンについて共和党の「ネオコン」グループの政権を作る計画が密かに動き出していた。

第二章(14) 【2000年 マイアミ】 につづく。

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文明の黙示録(23)

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                   第二章 資本の野望 (12)

                   【 1998年 カンダハル 】

Oslo_process01 イスラエル建国以来、中東和平はパレスチナ難民問題によって行き詰っていた。集団交渉では何の進展もない状況を打開するべく、1991年にスペインのマドリードで行われた中東和平会議では、イスラエルとアラブ諸国が個別に交渉する単独交渉方式が認められ、1994年10月にはイスラエルとヨルダンの講和が成立した。
また、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)もノルウェーの仲介で秘密交渉を行い、1993年9月にイスラエル政府とPLOの相互承認とガザ地区・西岸地区におけるパレスチナ人の暫定自治を定めたオスロ合意にこぎつけた。これにより、イスラエル政府はヨルダン川西側とガザ地区で、パレスチナ人による5年間の暫定自治を認め、さらにその後で占領地の最終的地位を交渉してパレスチナ問題の解決を図ることになった。
世界はイスラエルとPLOの共存に向けた握手に喜び、1994年のノーベル平和賞は、イスラエルのイツハク・ラビン首相とシモン・ペレス外相、そしてPLOのヤーセル・アラファト議長に贈られた。

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しかし、オスロ合意はイスラエル内の右派勢力には容認できない内容だった。イスラエル右派は「占領地」と呼ばれる地域も歴史的にイスラエルの国土と見なしており、それらの「割譲」につながる合意は絶対に認めることはできなかった。
1995年11月、テルアビブの平和集会に参加していたラビン首相は、参加者の中の一人の若者の凶弾に倒れた。その暗殺者、イスラエル人イガル・アミルは、イスラエル防諜部の情報提供者だったため、人々は、平和を創設した首相が自国の反対勢力の陰謀の犠牲となった、と推測した。

1996年の総選挙で右派リクード党のネタニヤフ政権が成立すると、オスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。その後は、イスラエルの抑圧的な占領政策によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、パレスチナ人のイスラエルへの不信が増大した。2000年9月にはアリエル・シャロン(当時リクード党党首)がエルサレムの聖地「神殿の丘」に立ち入ったことに端を発するパレスチナ群集とイスラエル警察の衝突が、アル・アクサ・インティファーダと呼ばれる暴力的な対立に拡大し、オスロ・プロセスは事実上崩壊した。

実は、イスラエル内にはパレスチナ問題を、もっと大きな中東世界再編戦略の枠組みで解決しよう、と考える勢力があった。彼らは、ヨルダンをパレスチナ人の国家とする代わりに、ヨルダン王室のハーシム家にイラクを与えることで中東世界を安定した組み立てに改造する、という壮大なプランを持っている。イスラエルは「占領地域」を含む領土を獲得し、イスラム教の預言者ムハマンドの血を引くアラブの正統王室ハーシム家は、ヨルダンよりも広大な土地と豊かな石油資源を手に入れる。イスラエルに敵対するシリアも動きを封じられることになるので、中東情勢は劇的に安定する。
しかし、このプランの実現のためには、現在のイラクを解体する必要があった。

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Usama01_21993年2月にニューヨークで起こった世界貿易センタービル爆破事件、95年5月のエジプトのムバラク大統領暗殺未遂事件、同年11月のサウジアラビアのリヤド国家防衛隊施設爆破事件など、続発するイスラム過激派によるテロ事件の黒幕をオサマ・ビンラディンと見るアメリカやサウジアラビア当局は、オサマを庇護するスーダン政府に対する圧力を強めた。このため、1996年5月18日、オサマはスーダンからアフガニスタンに移り、アフガニスタンを統一しつつあったタリバンの本拠地、カンダハルに入った。
オサマは、1996年8月に、「聖地を占領するアメリカ人に対する宣戦布告」を発し「パレスチナやレバノン、イラクでのイスラム教徒の犠牲はユダヤ十字軍の仕業」として、サウジアラビア、アメリカ、イスラエルを厳しく批判した。

厳格にイスラム教原理を重んじる神学生たちの集団であるタリバンは、オサマ・ビンラディンを擁護した。
1998年4月15日付のAP通信によれば、タリバン政権のアブドゥルハキーム・ムジャーヒド駐パキスタン大使は「オサマは、われわれのゲストとしてカンダハルに住んでいる。アフガン人はゲストを尊重する」と語った。また同年6月15日、タリバン政権のムハンマド・ラバニ諮問評議会議長は「オサマはアフガニスタンに賓客として受け入れられている」との発表を行った。アフガニスタンの統制のために、オサマからタリバンに対しての資金提供が行われていたという理由もあるようだ。

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Pipeline ソ連が消滅した結果、カスピ海やアラル海沿岸の中央アジアに埋蔵される莫大な量の石油や天然ガスが、アメリカをはじめとする旧西側諸国にも開放された。アメリカの石油メジャーは、中央アジアで掘削した石油や天然ガスをインド洋まで運ぶために、北部アフガニスタンからパキスタンを経由してアラビア海に搬出する計画を立てた。

1995年、アメリカ石油メジャーのユノカル社が、カスピ海からアフガニスタン、パキスタンを経由してアラビア海に天然ガスを搬出するパイプライン敷設計画を立てて関係当事者に交渉を始めた。このときの交渉代理人はヘンリー・キッシンジャー元国務長官、、ザルメイ・ハリルサド氏(パシュトン人で後のブッシュ政権での駐アフガニスタン特使)、そしてハミド・カルザイ氏(パシュトン人で後のアフガニスタン大統領)だった。
1997年12月17日の英テレグラフ紙は「米石油王、テキサスでタリバンをもてなす」という見出しで、タリバン代表団がアメリカの石油メジャーにテキサスに招待され、VIP待遇で接待されている様子を報じた。

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しかし、1998年8月、ユノカル社が進めてきたアフガニスタンでのパイプライン敷設計画は突然中断された。
この年、オサマは「ユダヤと十字軍との戦闘のための世界イスラム戦線」を結成し、アメリカ人であれば軍人、民間人を問わず殺害せよ、というイスラム最強の指令「ファトワ」を発した。
ユノカルのプロジェクトにはサウジアラビアのデルタ石油とニンガルチョ社も参加していたため、アメリカとサウジアラビアに激しい敵意を持つオサマが、タリバンに対してパイプラインの交渉を打ち切るように指示をしたと考えられる。
巨大な石油利権のプロジェクトを妨害され、面子を潰されたアメリカが、オサマ・ビンラディンを何としても排除すべき存在、と認識するのは当然だった。

第二章(13) 【1998年 ワシントンDC】 につづく。

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文明の黙示録(22)

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                   第二章 資本の野望 (11)

                   【 1993年 モガディシオ 】

Gulfwar01 1990年8月2日、イラクのクウェート侵攻に対して、国連安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を採択した。対イラクの国連軍の出動は政治的に難しかったため、アメリカは有志による多国籍軍を編制、英国、フランスなどが参加、アラブ各国からもエジプト、サウジアラビアなどがアラブ合同軍を結成してこれに参加した。
翌1991年1月17日、多国籍軍によるイラクへの爆撃を皮切りに、「砂漠の嵐作戦」が開始された。圧倒的な兵力差に加えて、米軍のコンピュータ技術を駆使した最新鋭兵器の威力は凄まじく、2月27日にはイラク軍はクウェートから撤退、同日中にブッシュ大統領は停戦を発表し、サダム・フセイン大統領も敗戦を認めた。3月3日には暫定停戦協定が結ばれ第一次湾岸戦争が終結した。

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多国籍軍側には、フセイン政権を倒すまで攻撃を続けるべきとの意見もあったが、ニカラグア介入などで強い批判に曝されていたブッシュ政権は、早い段階で軍を引き上げて泥沼にはまることを避け、イラクの現地反政府勢力によるフセイン政権打倒に期待した。しかし、サダム・フセインはイラク軍の多くの兵器と兵力を温存したまま停戦に応じたため、終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、フセインは温存した軍事力でこれらを制圧してしまった。

湾岸戦争では、最前線の映像が衛星中継によって世界中のお茶の間のテレビに映し出される、という史上初めての試みが行われた。この結果、世界の人々は米軍の新鋭兵器の威力をまざまざと見せつけられた。遥か洋上の軍艦から、数センチメートルの誤差なく打ち込まれるトマホークミサイルや、地下深くに隠された施設も破壊する地中貫通爆弾(バンカーバスター弾)、レーダーに捕捉されないステルス戦闘機や真っ暗な闇の中でも敵を見つけられる赤外線スコープをヘルメットにつけた兵士の姿など、米軍の強さは直接戦争に加わらなかった国々でもしっかりと認識された。

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これにより、アメリカの石油資本企業は、湾岸戦争終戦後の中東地域でアメリカの存在感が高まり、アラブ産油国に対して強い発言力を発揮できると期待したが、実際には予想外の現象が起こった。多国籍軍側に参加して勝ったはずのアラブ諸国でも、米軍の強大な軍事力を見せつけられて、敗戦したイラクへの同情とともに、そのアメリカにこれから牛耳られるのではないか、という恐怖が広がったのだ。さらにアメリカは、イラク攻撃のための拠点として一時的に駐留していたサウジアラビアやバーレーンを、イラク監視を名目に恒久的な基地としたため、イスラム教の聖地メッカとメディナを有するサウジアラビアへの異教徒の軍隊の駐留に対して、イスラム原理主義者たちから強い反発が起こった。

Abc_osama01 中でも、1989年にアフガニスタンからソ連軍が撤退した後、サウジアラビアの実家に帰っていたオサマ・ビンラディンは、サウジ王室に対して強い抗議の姿勢を見せた。
ソ連が去ったアフガニスタンに対して、アメリカは急速に興味を失った。国内ではイラン・コントラゲート事件のスキャンダルが吹き荒れ、CIAの外国への介入工作も大幅に縮小せざるを得なくなっていたため、アメリカ政府はアフガニスタンから手を引いた。その結果、アフガニスタンに誕生したムジャヒディンによる連立政権は内部紛争で分裂し、社会の混乱は収まらず、アフガニスタンの人々が願っていた平和な暮らしは訪れなかった。また、資金援助を打ち切られたイスラム義勇兵たちは、それぞれの国に帰らなければならなくなったが、帰ったところで仕事があるわけでもなく、惨めな生活を送っていた。
イスラム教徒を、自分たちの利益のために使い捨てにするアメリカに対して、オサマは反発を強めていったが、その怒りの矛先はサウジ王室の政策にも向かい、王室を公然と批判するようになった。1992年、反政府活動を展開していたオサマは、サウジ王室によって国外追放を宣告され、スーダンに入った。

オサマは、スーダンでカリスマ的なイスラム指導者ハッサン・トゥラビと出会い、トゥラビが率いる国民イスラム戦線(NIF)に合流する。スーダンでのオサマは土木、インフラ開発の会社を立ち上げ、イスラム教徒たちを雇用した。丁度、パキスタン政府の元イスラム義勇兵一掃によってパキスタンを追い出された元兵士たちが、オサマを頼ってスーダンに集まってきた。
アメリカ国務省の記録によれば、オサマの会社はハルツームとポート・スーダンを結ぶ街道を建設したほか、空港建設にも加わっている。また、オサマは貿易会社を設立し、ゴム、トウモロコシ、ヒマワリ、ゴマなどの輸出をほぼ独占していた。農業でもスーダン東部に大規模な農地を所有していた。
1996年9月26日付ニューヨーク・タイムズ紙は、オサマの組織がイランとスーダン両国との間で、対アメリカおよび対イスラエルの共闘で合意した、と報じたが、9月29日に出されたイラン国連代表部の声明は、報道内容について断固否定した。

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Bhd01 1969年から混乱が続いていたソマリアでは、1991年1月に反政府勢力統一ソマリア会議(USC)がバーレ大統領を追放して暫定政権を発足させたが、USCの内部分裂から内戦状態に突入し、1991年12月に国際連合に対しPKO部隊派遣が要請された。
1992年12月、国連安保理はPKO国連ソマリア活動のため、米軍を中心とする多国籍軍を派遣。続いて1993年5月、武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動を開始したが、世界各地から集まったイスラム義勇兵たちが、アルイティハードというソマリア南部のイスラム主義武装組織を支援したために、国連軍の活動は阻まれた。
1993年10月、首都モガディシオを襲撃したアメリカ特殊部隊が、逆に地元武装勢力に包囲され、18人の米兵が殺された。そのうち1人は騒乱状態の市民に遺体を引きずり回されてさらし者にされ、そのシーンをテレビが世界に向けて放映したため、アメリカ国内ではソマリアからの撤退を求める世論が高まり、クリントン政権は体裁を整えるひまも無く米軍撤退を指示せざるを得なかった。
アメリカ国務省は、この時パキスタン、インド、バングラディシュ、エジプト、セネガルなどから集まったイスラム義勇兵はオサマ・ビンラディンが集めた、と発表したが、1998年10月にABCニュースのジョン・ミラー記者のインタビューに応じたオサマは、自らの関与を否定した。

ソマリア紛争への軍事介入失敗の後遺症で、クリントン政権下では世間の厳しい目によって海外への米軍派遣が難しくなった。このことは、国内の「ネオコン」と呼ばれる強硬タカ派勢力の欲求不満を高めることとなった。

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Sarajevo01 ソ連の崩壊によって社会主義圏で民族自決の動きが広がる中で、ユーゴスラビアではスロベニアとクロアチアの独立に続いてボスニアも1992年の3月に独立を宣言した。しかし、独立賛成派のムスリム人と独立に反対の少数セルビア人勢力との武力衝突が勃発してしまう。
戦局は、セルビア共和国の支援を受けて武器兵力の数で上回るセルビア人勢力が優位に立ち、首都サラエボはセルビア人勢力により包囲された。一番の目抜き通りであるチトー将軍通りは「スナイパー通り」と称され、スナイパーによる狙撃の恐怖にさらされて買い物に出なければならない一般市民に多数の犠牲が出た。
国連では明石康氏を旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に任命して事態の収拾に努め、94年4月にはNATOによるセルビア人勢力占領地への空爆が行われ、アメリカによるムスリム人勢力に対する軍事援助も開始されたため、形勢は一気に逆転した。94年12月にはカーター(元合衆国大統領)特使がボスニアに入り、4ヶ月の停戦が実現した。
このボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でも、CIAはアフガニスタン作戦と同じようにイスラム義勇兵を集めてムスリム人勢力の側で戦わせようとしたが、ボスニアのムスリム人たちはアラブのイスラム教徒とは宗教的に異なっていたため、傭兵給与目当ての兵士ばかりしか集まらなかった。むしろイスラム世界では、イスラム教徒を前線に立たせて血を流させるアメリカに対する憎しみが増大していった。

第二章(12) 【1998年 カンダハル】 につづく。

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